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『メディック!』【第5章】 (宗次×亜希央)+ 俺 もう一人の同期

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第5章 (宗次×亜希央)+ 俺 もう一人の同期

 水面を見上げると、自分の鼻から漏れた息が円になって水面にあがっていくのが見えた。
 力を振り絞って足裏で水を蹴る。
 プールサイドに立つ数人の人影は、水のフィルターを通して歪んで見えた。
 水面に近づいた瞬間、何か棒のようなもので押されて再び水中に返された。
 遥か下にある底を見ると、暗い海の底に引きずり込まれる感覚になった。
 僕はパニックになりながら、必死に水面を目指す。
 地上から何かきこえる。
 いつもの教官の罵声?

 違う、笑い声だ――! 
 
 目を開けた宗次の体は、汗でびっしょりだった。
 ブラインド越しの月明りで、部屋の壁は縞模様になっていた。ジョンのかく規則正しいいびきの音で今居室にいるのだとわかり、宗次はホッとした。

 ――夢、か。

 それでも、心臓のバクバクが止まらなかった。久しぶりに昔の夢を見たのは、ここ最近の訓練の影響だろうか。

 プールでは海上総合実習に向けての訓練がはじまっていた。
 実際のプールでは驚愕の訓練が行われた。両手足を縛ったと思ったら、そのままプールに突き落とされたのだ。必死に這い上がっても、教官に沈められ、限界まで助けてはもらえない。呼吸ができると素晴らしさと、酸素の有り難さを嫌というほど感じた。

 ――もう、克服したはずだったんだけどな。

 宗次はゆっくりと起き上がって、シャツを変えるとベッドに横になった。
 それからは、壁の縞を上の端から下の端まで6回数え終わったあたりで、やっとジョンのいびきがきこえなくなった。

「ぶはっ」
 水中にいた勇登は、慌てふためきながら、水面に浮上した。

 新鮮な空気が肺に入ると同時に、脳みそが安心したのが手に取るようにわかった。続けて浮上してきた剣山、吉海も必死の形相をしていた。

 プールに沈められるという初日の恐ろしい訓練の後、更に恐ろしい訓練が勇登たちを待っていた。
 プールの底、四隅に設置された酸素ボンベ、四人の学生が酸素を求めてボンベからボンベへ泳いで移動する。途中で浮上することは許されないから、四人が呼吸を合わせて動く必要がある。

 この状況を30分続けるのだ。

 もし、途中で誰かが酸素を独り占めしてしまうと、玉突き状態になって後ろからきた人は酸素が吸えない。そうなると、苦しくなって浮上するしかない。全員の呼吸が合って成り立つ訓練だった。
 『過去何人か脱落して、元の部隊に帰った者もいる』と担当教官の武造がこの訓練前にいった言葉が、急に現実味を帯びてきていた。

 最後に宗次が浮上するなり、武造が叫んだ。
「また、お前か!一体何回みんなに迷惑かけりゃ気が済むんだ。もうやめちまえ!」

 宗次は真っ青な顔をしていた。
 身体が冷えたからなのか、恐怖からなのか、勇登にはわからなかった。

 その後も、何度やっても宗次が途中酸素を独り占めして、玉突き状態になっては浮上するという状況が続いた。
 武造の罵声も「やめろ!帰れ!」と激しさを増した。

 宗次がメンバーにいるときは、一度も成功できないまま訓練は終了した。

 その日の夕方、濃霧の中にいるような重苦しい空気が漂う中、屋外の鉄棒付近でいつものように皆で黙々と自主トレをしていた。勇登はこの空気を変えようと試みたが、適切な言葉を見つけられずにいた。

 鉄棒にもたれかかった吉海がついに沈黙を破った。
「こんなの、ほとんどいじめですよね」

 剣山もすぐさまその意見に同調した。
「ああ、マジ地獄だよ。鬼だな」

 ジョンも負けじと頷きながらいった。 
「もしかして俺ら、ストレス発散に使われてるんじゃね」

 はじめは宗次を庇おうと発せられた言葉だった。しかし、日頃のストレスや疲れが相まって、それぞれが不満を口にしだして、段々と教官の悪口がエスカレートしはじめた。

 勇登が口を開こうとした次の瞬間、宗次が叫んだ。
「違う!これはいじめじゃない、訓練だ。僕にはわかる!……僕なんかのために、教官のこと悪くいわないでくれ」

 宗次はその場から走り去ってしまった。

 真っ赤な夕日が滑走路の向こう側に沈もうかという頃、勇登は宗次を橋の上で発見した。
 小牧基地内には犬山川が流れており、その川を垂直にまたぐ形で滑走路や誘導路がある。そして、人や車が通るための橋が基地内には架けられていた。橋の上からは飛行場地区と今にも沈みそうな夕日が見えた。

「早まるな!」
 勇登は叫びながら宗次に駆け寄った。

「この川じゃ死ねないと思うよ」
 浅い川の緩やかな流れを見ながら、宗次は冷静に返した。
「魚はいいな。僕もエラ呼吸できたらいいのに」

「……みんな心配してるぜ」

「……さっきはごめん。みんなにも謝らなきゃな」
 宗次は小さく息をつきながら笑った。

「勇登はさ、昔引っ越しばっかしてたんだろ?転校先でいじめられたことある?」

「え?いや、ないかな」
 突然の何の脈絡もない質問に、勇登は戸惑った。

「そっか、そうだよな。……実は僕、昔ひどくいじめられてたんだ」
 勇登は驚きの表情で宗次を見たが、宗次は勇登のほうを向かなかった。

「はじめは軽いものだった。でも日に日に酷くなっていって、最後はクラスに誰も味方がいなくなった。でも、絶対に屈さず一人で耐えてた。助けてなんて口が裂けてもいえなかった。……いじめられてる自分が恥ずかしかったんだ。あ、……突然こんな話、重いよな?」
 宗次はハッとして、勇登を見た。
 勇登は宗次の目を真っすぐに見るとゆっくりと首を横に振った。

 宗次は安心したように言葉を続けた。
「そしたらある日、僕を救ってくれる人が現れた。まあ、近所に住んでた結構よぼよぼの名前も知らないじいちゃんなんだけど、なんていうのかな、目力が半端ないっていうか、それだけで人を恫喝できるんだよ。なんか、若い頃はタイで傭兵してて、本当の戦場を知ってるっていってた」

「すげーじいちゃんだな」
 勇登は宗次の話に引き込まれた。

「じいちゃんの威光で、僕のいじめはなくなった。それで僕はすっかりいい気になって、奴らに復讐しようと思いはじめた。それを知ったじいちゃんは僕にいったんだ。いじめは心の弱い人間がするんだって。あいつらは弱い人間で、本当は不幸で可哀想なんだって。あいつらは時に暴力的で強い人間に見えるかもしれない、けど、本当に強い人間はいじめなんてしない。する必要がないんだ、って。お前はそれを見抜けるような強い人間になって、いじめられて困ってる人がいたら救えって」

 宗次は橋の欄干を掴むと続けていった。
「だから、僕は強くなりたいんだ。でも、まだなれてない」

 そういう、宗次の顔はここ数日の自分に腹を立てているように見えた。宗次は弱い自分が嫌で、強くなるために自衛隊に入ったといった。そして、そこで救難員に出会い、本当に人を救える強い人間を目指そうと決意したのだと教えてくれた。

「僕にはわかるんだ。教官たちは、口では酷いこといいながら、瞳の奥では僕たちを応援してる。頑張れ、負けるな、って」
 宗次の口調は力強かった。

「うん。何となくわかるよ」
 勇登はかつて救難員だった父を思い出していた。
 父は真っ黒で透き通った瞳をしていた。

「実は僕、昔プールで溺れたことがあるんだ。っていうか、溺れさせられたんだけどね。プールサイドから棒で突っつかれて、水から上がれないんだ。水に沈むとあいつらの笑い声が、歪んで奇妙に聞こえるんだ。……もう大丈夫だと思ったんだけどな」
 そういって宗次はうつむいた。
 トラウマになって泳げなくてもおかしくない話だった。

「今、泳げてるのは……?」
 勇登は少し遠慮がちにきいた。
 宗次の泳力は明らかに自分よりも上だった。

「ああ、頑張ったんだ。じいちゃんと一緒に。あいつらのせいで泳げないなんて嫌だったし、それを乗り越えたら強くなれる気がしてたから……」
 宗次は欄干に突っ伏した。

 勇登はただ横に並んで、滑走路の向こうに沈みゆく夕日を、黙って見ることしかできなかった。

 翌日。プールでは再び同じことが繰り返されていた。

「もう、帰れ、やめちまえ」
 武造は宗次に冷たくいい放った。

「帰りません。やらせてください」
「できねー奴がいると、他の学生の訓練にならねーんだよ」

「――!」
 宗次は四つん這いで荒い呼吸のまま武造を見上げた。

 沈黙するしかなかった。そうだ、自分のせいで皆が訓練できていない。それさえもわからないなんて、

 僕は本当に駄目だ――。
 

 ――参ったな。

 亜希央は欄干に手をついて川を見ている宗次を見て思った。

 外周道路を走り終わって、戻ってきたのはいいが、いきなり問題にぶち当たった。
 最近吉田宗次がやばいというのは、風の噂で知っている。この時間、ここに一人でいるのは、明らかにおかしい。
 今日はこの間の休日のWAF当直の代休だ。この後は、シャワーを浴びて外出する予定なのだ。しかし、この橋を通らなければ、隊舎に帰れない。
 道路閉鎖もいいところだ。

 彼は自分より1年早く入隊してる先輩ではあるが、整備の専門学校に2年行っていた分、年齢は自分のほうが上、階級は同じ。いつも志島勇登と一緒にいる印象があるが、個別に話したことはない。

 話しかけるべきか、スルーすべきか。

 ――ここは、スルーだろ。
 亜希央は宗次の後ろを通り過ぎた。

 ――やっぱ、ちがう。

 彼のパーソナルスペースを横切った瞬間、彼の中に背中を丸めた小さな子を見てしまった。

 放っておけない――。


 振り返ると、宗次の横顔に話しかけた。
「そんなに見つめて、人面魚でもいるのか?」

「……人面魚、ってなに?」

「知らんの?こう、額の辺りの模様が顔みたいに見える魚」
 亜希央は自分の額に円を描くようにして説明した。

「……へえ」

「オレんち、親父が鯉飼ってて、それっぽいのいたんだよ」
 亜希央は川を覗き込んだが、こんな日に限って魚が一匹もいない。
 話題終了だ。

「……毎日、走ってるよね。次の試験のため?」

 宗次から口を開いてくれて、亜希央は少しほっとして答えた。
「……本当は無理だって知ってるけど、諦めたくないからな」

「無理?なにが?」
 宗次は首をかしげた。

「メディックになるには、あんたらがこの間卒業した第一空挺団を出なきゃならない、けど、今現在女は入校できない。救難員の試験自体は受けられるけど、万が一受かったとしても、救難員にはなれない、ってこと」

「……知らなかった」

「黙って立ちすくんでても、誰も変えてくれない。自分から動かなきゃ何も変わらない」
 亜希央は視線を川から、飛行場地区に移していた。
「ま、それ以前に自分の体力が追いついてないから、まずはそっちだけどな」

「浅井3曹は、僕と違ってすごいな。僕なんて全然駄目だから……」

 亜希央は欄干を掴んで、腕を伸ばしながらいった。
「……なあ、その自分いじめやめない?別の人間なんだから違って当たり前だろ。どうせ、さっきも『僕は駄目だ。弱い奴だ』って、自分で自分をいじめてたんだろ? 」

「な、なんでわかったの?」
 宗次は驚きの表情で、亜希央を見た。

「……」
 亜希央は前を向いたまま、宗次の質問には答えなかった。

「君のいうとおりだよ。ここで、ずっと自分を責めてた」

「吉田3曹がドM体質で、それでやる気でるっていうなら、別に止めないけど」

 宗次は吹きだした。
「ど、えむって……。浅井3曹は面白いね」

「オレはあんたのこと、今期では一番体力あると思ってるけど」

「――そんなの、全然ないよ!」
 宗次は急に真顔になると、全力で否定した。
 しかし、すぐに亜希央の困った顔に気づいて「……ごめん」というと、今度は子どもみたいな無邪気な笑顔を見せた。
 


 亜希央は宗次が訓練に戻っていくのを、橋の上から見送った。励ますどころか、ただ思いついたことをいって、最後は謝らせて、なんだか申し訳ない気持ちになった。

 ――自分に厳し過ぎるんだ。

 だから、相手の肯定は受け取らず、否定だけを言葉どおりに全部受け取って、傷ついてしまうのかもしれない。教官の愛の鞭を意訳せずにそのまま受け取っていたら、心は血だらけの傷だらけになってしまうだろうに。


『どうしてそう考えていると、わかったのか――?』

 彼はさっきそうきいた。

 ――自分も同じだから。

 本当はそう答えたかった。
 でも、いってあげられなかった。
 それで、彼の心が少し軽くなったかもしれないのに。

 この頑固さは父親譲りだから、しょうがない――。

 亜希央は橋の真ん中で空に向かって「ふうっ」というと、外周道路に向かって再び走り出した。

 その夜、ベッドに横たわった宗次は、真っ暗な天井を見つめていた。あの後訓練に戻ったが、座学の授業だったので、プールに入ることはなかった。


 酸素ポンべを使った訓練は、お互いの信用があってはじめて成り立つ訓練だ。
 プールの角から次の角に移動するとき、前にいた人が譲ってくれると信じれるから、今いるボンベを離れることができるのだ。
 昔プールでいじめられたとき、奴らが自分を助けてくれるという保証はなかった。息ができない苦しみからやっとの思いで這い上がった。
 今僕の周りにいる人たちは、僕に何かあれば、素早く確実に助けてくれるだろう。それは、わかってる。でも、過去のいじめで僕はまだ、

 どこかで人を信じきれていないのかもしれない――。


 
 次の日も武造の檄がやむことはなかった。
 ついに宗次はプールにさえ入ることができなくなってしまった。もはやプールは夢で見た暗い海の底と同じだった。

 武造はプールサイドの宗次にいい放った。
「今の状態で人を救えると思うか?」

 その答えは誰よりも自分自身がわかっていた。
「……思いません」

 一言そう呟いた。
 もはや自分の中に肯定的な言葉はなかった。

 この日は、課業終了まで宗次以外の学生だけで訓練が行われた。 

 プールを離れてから、宗次はずっと橋の上にいた。
 水の流れに目をやると、喉の奥から塩素の味がこみ上げてきて吐き気がした。

「くっそ!」
 宗次は欄干を拳で叩いた。
 さっきから勇登が少し離れたところからこちらを見ていることに気づいてはいたが、目は合わさなかった。
 いや、合わせられなかった。

 宗次は真っ直ぐ前を見たまま口を開いた。
「諦めたら……やめるっていったら楽になれると思ってた。確かに体は楽になった。でも心は前よりも苦しくなった。なんでだろうな」
 勇登は答えに困った。

 宗次が続けた。
「勇登さ、試験の日に浅井3曹のこと助けただろ。勇登はあのとき飛び込んだ監視員が田代2曹だったって覚えてるか?」

「いや、あのときは、必死で……」

「実は僕、それがすっげえかっこよくて感動したんだ。あの瞬間、心の底から『メディックしかない』と思った。それからこっちに来るまでの間、ずっと次同じ状況になったらどうするか、シミュレーションして、ひとりプールで訓練したりしてた。憧れてたんだ。でも、今日全部無駄になった。バカみたいだよな」

「そんなこと……」

 勇登を遮って宗次は続けた。
「僕は今、田代2曹を責めてる。そしたら自分の悪いところなんて考えなくて済むから。誰かのせいにしなきゃ、それが全部自分に向かってくる。お前は駄目だ。才能ない。そんな言葉で自分が埋め尽くされるんだよ。自分を責めて、他人を責めて、さらには他人のせいにしてる自分を責めて、ずっとその繰り返し。それで、結局最後は誰かのせいにして逃げる」
 宗次は吐き捨てるようにいった。

 しかし、すぐに大きなため息をついた。
「もうそうしなきゃ心が壊れそうなんだよ。やっぱり僕は弱い人間なんだよ。……放っておいてくれないか」
 宗次はそういうと勇登の横を通り過ぎた。
 こんな情けない姿は誰にも見せたくなかった。

 訓練終了後の教官室では、宗次の件が議題になっていた。
 武造からことの詳細をきいた五郎は、もうしばらく様子を見る、という決断をして本日は解散となった。

 武造は小さく息をついた。
 今回先輩教官の補佐を受けながら、自分が水難救助訓練をメインで担当している。責任ある仕事だ。
 ここ数日、頭には常に宗次のことが張り付いている。
 寝ても覚めても彼のこと。
 はっきりいって恋人以上だ。

 同じ試験を通った学生とはいえ、個人差はある。体力的にも精神的にも。
 教官は学生に徹底的に基礎を叩きこみながら、個性、能力を見極める。そして、課題という壁を用意する。状況を見ながら壁を徐々に高くして、学生の限界を引き上げる。教育用のシラバスも、ちゃんとそのように構成されている。
 自分も学生だった頃は、ただ目の前の課題を乗り越えることに集中すればよかった。しかし、教官は違った。怪我がないように、事故がないように常に気を張り詰めておく必要があった。危機管理能力を発揮してあらゆる事態を想定しながら、常に学生の一歩先を行かなければならなかった。

 学生は同じように見えてみんな違う。
 同じ服装をして、同じ行動していると、心がないんじゃないかと思う人もいるだろう。
 でも、実際はみんな違う。
 生まれた日も、親も、場所も、育った環境も、考え方も、誰一人として同じ者はいない。それぞれが個性を持った一個人なのだ。

 武造は五郎が教官室を出るのを見計らって、席を立った。

 亜希央は整備作業を終え、今日のトレーニングメニューを考えながら廊下を歩いていた。すると、五郎が教官室から出てきた。亜希央が口を開きかけると、武造が五郎の後を追って出てくるのが見えた。

「曹長、ちょっといいですか?」
 武造が先に五郎を呼び止めた。

「曹長、以前、種の話してくれたじゃないですか」
「ああ」

「……俺、踏みつけ過ぎでしょうか?」

 深刻な表情の武造を見て、亜希央は廊下の陰に隠れた。

「田代2曹は学生のこと信じてるか?」
「……信じてます。彼らはどんな状況を与えても、必死にくらいついてきますから」
 武造は力強くいった。

「吉田は一人じゃない。あいつには支えてくれる同期がいる。学生よりも先に、俺たちが諦めることはない。俺は、もう少し見守りたいね」

 そういって立ち去ろうとする五郎に、武造がいった。
「あの、……どうしてあいつを採ったんですか?」

「どうして、そう思う」
「え、いや、吉田は体力はあるけど、素直過ぎて傷つきやすいところがあると思うんです……」

「そうだな。俺もそう思うよ」
「じゃあ、どうして……」
 武造の顔に困惑の色が浮かんだ。

「め、かな」
「目、ですか?」
 武造は自分の目を指さした。

「そう、俺は吉田の目が好きだ。あれは、すでに相当の苦難を乗り越えた者の目だよ」
 五郎は少し遠くを見るようにしていった。


「ふうん」
 立ち聞きしていた亜希央は口を尖らすと、その場を離れた。

 勇登が宗次の後をこっそりつけると、宗次はプールにやってきた。
 やはり放ってはおけなかった。

 プールサイドに座る宗次の様子を勇登が密かに見ていると、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、そこには剣山と吉海が立っていた。
 三人でどうしたらいいかコソコソと相談していると、プールサイドに新たな人物が現れた。その姿に三人は騒然とした。

 それは、両手足をロープで縛った作業服姿の亜希央だった。

「吉田宗次!」
 亜希央が宗次に向かって叫んだ。

 突然そんな姿で現れた彼女を、宗次は驚きの表情で見た。

「あんたの目とやらを信じる!」
 亜希央は縛られた両手を挙げて高らかに宣言すると、ピョンピョンとジャンプしてプールに飛び込んだ。

「な、あいつ!」
 飛び出しかけた勇登の腕を誰かが引いた。
 振り返ると、そこには五郎がいた。


 
 宗次は自分が飛び込んでいることに気づいた。

 ――本当は諦めたくなかった。だから、プールに戻ってきた。

 どうしてか水中ではすべてが鮮明に見え、これまでとは違う景色がそこに広がっていた。考えなくても身体は勝手に動いて、この後の動きも全てわかっていた。
 深いプールの底から見上げた水面は、キラキラと光を反射して、そこが目指すべき場所だと教えてくれた。

 宗次は一人で亜希央を引き上げると、ゴホゴホと激しく咳込む亜希央に怒鳴った。
「おい、馬鹿なことすんな!死ぬ気か!」

 間髪入れず亜希央がいい返した。
「そっちこそ、ふざけんな!」

 その剣幕のすごさに宗次はひるんだ。
「プールに入れませんだぁ?あんたは恵まれてんだよ!わかってんのか!弱音なんて失礼だ!あんたは選ばれた代表選手なんだよ。選ばれなかった人たちの想いを背負ってんだよ。それを、忘れんな!」

 亜希央は一呼吸おくと、今度は小さな声でいった。
「あんたは選ばれて、オレは選ばれなかった」

 亜希央はうずくまって続けた。
「あんたはできんだから、もっと自分を信じろ。負けんなよ、頼むよ。…………お願いします」

 びしょ濡れで訴える亜希央の姿に、宗次の心がギュッと締めつけられた。

 ――そう、自分は選ばれたのだ。

 合格をきいたときは本当に嬉しかった。なのに、過去の記憶に囚われて、大切な気持ちを忘れてしまっていた。


 亜希央は両手足を宗次に突き出すと「ほどけ!」と命令した。
 ロープがほどけると、亜希央は宗次に背を向け濡れて体に貼りつく作業服を気にしながら歩き出した。
 宗次が口を開こうとすると、亜希央は思い出したように「そういえば……」といって振り返ると、声を張った。
「あんたは一番体力あるって教えてやっただろ。誉め言葉もちゃんと受け取れ!自分いじめばっかしてないで、ちゃんと自分のいいところも受け取れっ!」

 宗次はこの間、亜希央にいわれたことを全否定したのを思い出した。

「……あ、ありがとう」

 それをきいた亜希央は、一瞬とても穏やかな目をしたが、すぐに宗次を睨むとがに股歩きで去っていった。


 残された宗次は、しばらくの時間、ずぶ濡れのままプールサイドに座った。

 ――自分いじめは、これ以上心が傷つかないための予防線だった。 

 いつも、できたところは完全無視して、ちょっとできないところを見つけては、自分をダメ出しして否定して、ちゃんとやれと罵声を浴びせた。

 そう、いつからか他の誰でもない、僕が一番自分をイジメるようになっていた。

 人が怖くて、いつも不安だった。
 信じていいのかわからなかった。
 だから、自らをいじめることで予防線を張ったんだ。

 再び悲劇が襲ってきても、平気な顔して耐えられるように――。


 宗次は再び服のままプールに飛び込むと泳ぎはじめた。

 それを見た吉海が、勢いよくプールに飛び込んだ。剣山も続く。
 勇登も行こうとすると、五郎が勇登にめくばせしていった。
「浅井のやつ、女にしておくのはもったいないだろ」

 勇登は力強くうなずくと、皆に続いて飛び込んだ。


 宗次はその後、教官に懇願し訓練に戻った。
 勇登たちも必要であれば同期全員で頭を下げるといったが、その必要はなかった。
 そして、全員無事に海上総合実習を終えた。
 

 訓練終了後、勇登は宗次に呼び出され、橋の上に来た。

「浅井さんって、扉全閉してても、勢いだけでぶち破ってくるような人だな」
 宗次が呆れ顔で、でも少し嬉しそうにいった。

「俺、そういう人、他にも知ってる」
 勇登には母の顔が思い浮かんでいた。
 ただ、彼女の場合は、開かないドアは開くまで執拗にノックし続ける感じだろうか。それはそれで恐ろしい。
「WAFはそういうやつが多いのかもな。自衛隊だし」

 勇登はそういって笑うと、宗次も笑顔でいった。
「でも、今回は本当に助かった。今度、お礼しなきゃな」

 目の前の誘導路を、真っ赤に染まったC-130が滑走していく。今日の飛行場地区はどこか美しく見えた。

 しばらくすると宗次が口を開いた。
「勇登にさ、試験の日に俺が感動したって話しただろ。それまではただ強くなりたいって漠然とした想いだったけど、あの日目指すべきビジョンがはっきりと見えたんだ。入校してみて、急にあんな風になれるわけじゃない、って痛いほどわかった。苦しいし、つらいけど、あの光景が俺を支えた。だから、絶対にやめたくなかったんだ。今回の訓練が終わって、怖さや不安を乗り越える勇気のある人が、強い人間なんだって思うようになった」

「そうだな」

「……あのとき、浅井3曹のロープ、すっごくきつく縛ってあった。俺、信用してもらえたのかな」

 それをきいた勇登は、男らし過ぎる亜希央にちょっと嫉妬した。
「そうかもな。でも、俺ははじめから宗次なら大丈夫だ、って思ってたぜ」

 宗次は苦笑いした。
「ほんとかよ。俺のことストーキングしてただけな気がする」

「ひっで、俺はなあ……!」

「わかってる。そばにいてくれたんだよな。ありがとうな。勇登」

 あまりに素直な宗次の言葉に、勇登の顔も赤くなった。
 それを見て宗次は笑ったかと思うと、急に真顔になった。
「なあ、勇登」
 宗次は勇登に一歩にじり寄ると、目をじっと見てきた。

「な、なんだよ」
 勇登は心の中を見透かされそうな気がして、目を逸らした。

「愛してるよ」

「――なっ!」
 勇登が耳まで真っ赤になると、それを見た宗次は、腹を抱えてげらげらと笑った。

 5枚目の写真撮影は、吉海の提案でプールの前ですることになった。プールサイドでは亜希央が待っていた。どうやら、吉海が手配したらしい。

「なんだ、こいつは関係ないだろ」
 そういうジョンを、剣山が穏やかに絞めた。
 亜希央は「やっぱり、帰る!」といい出したが、吉海がうまいことなだめて、撮影に持ち込んだ。

 海パン姿の男五人と、作業服でそっぽを向いた亜希央の写真は、宗次にとって思い出の1枚となった。

第6章へつづく

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☆外周道路(がいしゅうどうろ):基地の柵の内側に沿ってある道路。かけ足コースになっていることが多い。

※この物語はフィクションです。実在の人物、団体、組織、名称とは一切関係ありません。

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