『メディック!』【第2章】 俺×受験者 救助
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勇登は喫茶PJの前で少し呼吸を整えた。9月も中旬を過ぎたが、まだまだ暑い。ドアを開けると、いつものドアベルの音が勇登を出迎えた。
「たまには歩いてきたら?汗だくじゃん」
ナオはカウンター越しに、氷水を出しながらいった。
「ギリギリまで鍛えておきたいんだよ」
勇登は水を一気に飲み干すと、氷だけになったグラスをナオに差し出した。
「うちは給水所じゃありませーん」
そういいながらも、ナオはグラスに水を注いだ。
「久しぶりにこっちきたから、生きてるかどうか、わざわざ見にきてやったんだろ」
再びグラスを差し出す。いつもは顔を出すと、とびきりの笑顔をみせるのに今日のナオは少しつめたい。
「そんなこと、頼んでませーん」
ナオはそっぽを向くと、他の客の水を注ぎに行ってしまった。
勇登は航空自衛隊に入隊して3年目を迎え、22歳になっていた。今は原隊である埼玉県の入間基地から、救難員課程の試験が実施される小牧基地に来ていた。
入隊後すぐにメディックになれるわけではなかった。自衛隊に入ってすぐの基礎教育が終わった後は、まず自分の職種を決める。決まってからの職種転換は、基本的にできない。万が一メディックになれなかった場合は、定年までその職種となるから、そこは慎重になった。
勇登は第一希望の消防員になることができた。
選んだ理由は、仕事内容が一番メデックに近そうだし、体力もつきそうだったからだ。どの職種からも救難員の受験は可能だから、母と同じ総務でもよかった。だが、同じ部隊にならないという保証はどこにもないから、それだけはやめておいた。
職種が決まったらそこから定められたレベルまで技量を伸ばし、部隊長の推薦をもらって、はじめて受験資格が得られる。それから、書類審査を通過してはじめて小牧基地で試験を受けることが可能になる。
長い道のりだったがついに明日、救難員課程を受験できるのだ。この試験では、面接、学科、航空身体検査、体力測定、泳力測定が実施されあらゆる面が評価される。これまでメディックになるために、航空自衛隊に入ったり、救難員試験の受験資格を得たりと、ひとつひとつ確実にクリアしてきた。次の目標はこの試験に合格することだ。ここを通らなければ、何もはじまらない。明日からの3日間これまで地道に積み上げてきた訓練の成果を、出し切らなければならなかった。
入隊してから小牧の実家には、正月、GW、お盆の年三回くらいは帰っていた。現在、福岡県の芦屋基地勤務の由良とは、休暇が合ったときだけ小牧で顔を合わせていた。普段の食事は基地の食堂で出るから、帰省時の自炊は面倒で、勇登はナオの喫茶店に相当世話になっていた。
勇登はナオの顔を見ながら「腹でも痛いのか?」ときいた。すると、ナオは少し笑顔になってかつ丼を差し出した。
「頼んでないけど」
「でも、食べるんでしょ。あと、これはおまけ」
ナオは、レバーが多めの特製レバニラも出してくれた。どちらもメニューにないものだ。勇登はニヤッと笑うと、それらを交互に平らげた。
「……明日、頑張んなさいよ」
ナオはかつを頬張る勇登に、小さな声でいった。
「おう、任せとけ」
勇登はやっぱりナオに元気がないと思ったが、頭の中はすぐに明日の試験のことで一杯になった。
*
ナオは店を後にする勇登の背中を見て、小さく息をついた。
勇登の入隊と同時期に、ナオは調理の専門学校を卒業した。卒業後は一度どこかに修業に出ようか迷った。祖母と母も「店は気にせず行ってきな」といってくれたが、ここに残ることに決めた。
店は現在、朝が祖母とパートの人、昼から夜は母とナオ、夜の食事の客が帰ってから閉店まではナオ、という流れができている。
今では主力メンバーになりつつあるが、子どもの頃はこの仕事に全く興味を持てなかった。どことなく昭和の雰囲気が漂う古い店内はよくいえばレトロだが、思春期の女子はおしゃれなカフェのほうがいいに決まっている。
それに、実家が店をやっていると、朝も昼も夜も忙しいからあまり構ってもらえないし、遠出の旅行にも連れていってもらえなかった。だから、自分は勤務時間が決まってて、きちんと休暇が取れる仕事に就こうと密かに考えていた。
それが笑顔でレバニラを食べるヤツの姿見たさに、この仕事をするようになってしまった。しかし、きっかけはなんであれ、今ではこの仕事が楽しいし好きだった。
そう、実家を離れなかった理由は、決してたまに現れるレバニラ男のためではない。
ただ勇登に出会ってから、自衛隊のことを知れたのはよかった。それまでは、同じ市内にあることは知っていたが、特段気にしたことはなかった。関心のない情報は、勝手に入ってくることはなくて、自ら得ようとしなければ入ってこないのだ。
勇登の入隊をきっかけに、多少はそちらにアンテナを張るようになった。年に一度、小牧基地で航空祭というのがあることも、勇登からきいてはじめて知った。
そして、勇登がメディックの夢を思い出した年、航空祭に誘われた。飛行機云々より、誘ってくれたことが嬉しかった。
しかし、当日の朝になって、急に熱を出して、結局一緒に行くことはできなかった。いつもは元気いっぱいなのに、どうしてかあの日に限ってそうなったのだ。
勇登は帰省の度に、自衛隊やそこで出会った人の話をしてくれた。
トレーニングを積みながら夢を追いかけてる姿もけっこう好きだった。
――試験に受かったら、もっと遠くに行っちゃいそうだな。
ナオは店の前を通り過ぎる車を、見慣れたレースカーテン越しにぼんやりと眺めた。
*
――1日目、学科試験。
いよいよ、救難員課程の試験がはじまった。レバニラパワーのおかげか、今日は調子がいい。
勇登は機嫌よく試験会場の席につくと、他の受験者を見渡した。受験者は20人といったところだろうか。合格者は毎年数名程度。勇登と同じくキョロキョロしている窓際に座っていた小柄な奴と目が合った。階級は3曹、肩幅もないし、身長も160あるかないかだ。
――随分小さいな。
彼は勇登の心の声がわかったのか思い切り睨んできた。まずいと思い視線をそらすと、今度は別の男と目が合った。
「あっ」
お互い目を見開いて、みつめあってしまった。
透き通るようなグレーの瞳に、自然な色合いの茶髪。彼は入隊以来の同期、沢井ジョンだった。ジョンは祖父がアメリカ人のクオーターだ。彼がメディックを目指していることは、教育隊時代に風の噂できいていた。
「お前、どこにでもいるな」
ジョンは薄目で勇登を見ると、いやみったらしい口調でいった。
「お前こそ」
勇登も平坦な口調で返した。
教育隊時代、二人は張り合った挙句、勇登が褒賞をとり卒業時に表彰された。その後も職種が同じ消防で、術科学校では、ジョンが褒賞を取った。
会場に試験官が入ってきたので、今度はお互いにそっぽを向いた。
――あいつにだけは、負けなくない。
当時の悔しさが蘇ってきたが、すぐに頭を切り替えた。一時的な感情にとらわれて、時間を無駄にするわけにはいかない。勇登は、目の前の問題に集中した。
*
――2日目、面接試験。
勇登は焦ってトイレに向かっていた。間もなく自分の順番だというのに、緊張しているのか、朝から尿意が止まらない。面接のようなかしこまった席は少し苦手だ。
「うわっ」
廊下を曲がったところで急に出てきた人にぶつかった。勇登は相手に覆いかぶさるように倒れこんだ。
――ん?ぐにゃ?
勇登が両手に何か柔らかいものをつかんだと思った瞬間、彼は勇登を思い切り蹴り飛ばした。
「いってぇ」
その勢いで座り込んだ勇登の目の前には、昨日目が合った小柄な奴がいた。勇登は先ほどの手の感触を思い出した。
――女?
しかし、既に仁王立ちしているその人物は、自衛隊の挙措容疑基準の男性モデルのような、バッチリもみあげがカットされた短髪だった。勇登が座り込んだまま自分を蹴り飛ばしたその人物の足元を見ると、女性自衛官用のパンプスを履いていた。やはりWAFだ。
確か、過去に救難員になったWAFはいない筈だ――。
「おい、オレが怪我したらどうすんだ!気をつけろよ!」
――オ、レ?
勇登は見た目と言葉遣いと体型の違いに混乱していた。WAFらしき人物は、胸を掴まれたことには一切触れず、昨日と同じように勇登をにらむと走り去ってしまった。勇登は呆然としたまま、ボールを掴んだときのような形のままになっている手を眺めた。
――小柄な割にでかいな。
「……あ、トイレ、それから面接!」
頭を振って煩悩をどこかにやると、勇登は全力で走り出した。
その夜、勇登は同じ部屋に泊まっていた他の受験者から、彼女がはじめてのWAF受験者、浅井亜希央(あさいあきお)であることをきいた。
*
――3日目、体力測定、泳力測定。
雲一つない空の下、勇登が握力でジョンと張り合っていると、後ろからひときわ大きな声援が聞こえた。
「8、9、10、よし、あと2回!」
懸垂場所では、周りの受験者が懸垂する亜希央を応援していた。
懸垂の合格最低ラインは12回。女性自衛官も体力的には普通の女子が多い。しかし、彼女は細身ながらも無駄のない鍛え上げられた肉体をしていた。それに、WAFの場合体力測定の懸垂は斜め懸垂だが、これは普通の懸垂だ。真っ赤な顔を鉄棒まで引き上げるのを見て、勇登も応援したい気持ちになった。
「12!」
その瞬間、それまで冷静に計測していた測定員が小さくガッツポーズしたが、すぐになおった。
そんな亜希央の姿を見て、勇登も気合を入れなおした。
体力測定を終え昼食を済ませた受験者たちは、今度はプールサイドに集まっていた。
勇登は最後の試験に備えて、昼食は満腹にならないように調整した。これまで、学科、面接、体力測定と手ごたえは十分に思えた。後は最後の泳力測定を全力でやりきれば、試験が終わる。
クロール、平泳ぎ、自由形、横潜水、呼吸停止、縦潜水、浮き身の連続測定が終わり、最後の立ち泳ぎに移ったとき、受験者はみなフラフラしていた。勇登も数日に及ぶ試験の緊張と、午前の体力測定で疲労はピークだった。
この訓練用の深い深いプールの水面に5分浮かんでいられればよいのだ。
これを頑張ればすべてが終わる。
勇登は両手で頬を2、3度叩くとでプールに入った。
勇登の隣には亜希央が並んだ。昨日の出来事を思い出すといろんな疑問がうかんだが、今は自分のことに集中した。
目標時間は5分。
心だけは落ち着かせて、懸命に手足を動かし続ける。
2分経過。
3分経過。
あと1分で5分――。
と、勇登の視界から亜希央が消えた。
――!?
プールサイドがざわつく前に、勇登は潜っていた。
真っすぐに沈む亜希央を追う。勇登は彼女を少し追い越し腰をつかむと、渾身の力で水面を蹴り上げて浮上した。そして、勇登と同時に飛び込んていた監視員と一緒に、亜希央を引き上げた。
亜希央は少し水を飲んでしまったようで、ごほごほした。
「……両足、つ……って……」
引きつり顔の亜希央がそういっている間に、監視員は既に彼女の足の筋肉を伸ばしていた。
勇登の測定結果は4分3秒と記録された。
その後も、残りの受験者の測定が淡々と行われた。すべての計測を終え、試験官が試験を終わらせようとしたとき、亜希央が立ち上がった。
「熊野曹長、彼にもう一度やらせてあげてください!」
亜希央は必至の表情で勇登を指し示した。
強面の試験官は、表情を変えることなくいった。
「救難にもう一度はない。試験は終わりだ。解散」
*
全ての試験を終えた勇登は、部隊に持ち帰るお土産を買うためにBXにきていた。最後の課目は目標に届かなかったが、不思議と気分は清々しかった。
「よお、ヒーロー」
後ろからそうささやかれ、勇登は嫌々振り返った。
一番会いたくない奴、ジョンだった。
勇登は彼を無視して再びお菓子のパッケージに向き合った。しかし、ジョンはそんなことお構いなしで話を続けた。
「でも、お前は合格できない。今回は俺の勝ちだな」
ジョンは勇登の顔を覗き込んでニヤリと笑うと、満足そうに去っていった。
ジョンは普段無口で、しゃべったと思ったらいやみしかいわない、いけ好かない奴だった。勇登は持っていたカゴに、手羽先とか、みそカツとか書かれた菓子箱を無造作に投げ入れた。
「ねえ、君、WAFの子助けた志島君だよね」
再び背後から話しかけられた。振り返ると制服姿の男が立っていた。初めてみる顔だ。胸元の名札には吉田の文字、胸板が厚いことは制服の上からでもわかった。でも顔は怖い印象はなく、どことなく笑みを浮かべていて優しそうな感じがした。
「僕、吉田宗次(よしだそうじ)、今回一緒に試験受けてたんだけど……」
宗次は目じりにたくさんの皴を寄せて笑った。勇登より階級が一つ上の3曹だが、妙に腰が低い。
「それにしても志島君はすごいね。あんな状況で動けるなんて。僕はただ見てることしかできなかったから、尊敬するよ」
「はあ、どうも、ありがとうございます」
今日は冷やかされたり、褒められたり、忙しい日だ。
「よければ、今夜隊員クラブに飲みにいかない?」
勇登はその誘いを受けた。少し気晴らしをしたい気分だった。
勇登は目の前に運ばれたビールをごくごくと喉を鳴らして飲んだ。風呂上がりのビールは格段にうまい。炭酸が五臓六腑に染み渡ると、テンションが上がってきた。
ここに来る前、宗次と一緒に隊員浴場に行き色々話をした。彼は勇登の一期先輩だが、同い年ということや、出身は福岡県で職種は警戒管制であることがわかった。
「志島君はこれまで、試験のためにずっとトレーニングしてきたんだよね?」
「まあ、ね」
宗次は先輩だが、同級生だから敬語はいらないというので、勇登は普通に答えた。
「今日のこと、……後悔してない?」
「……俺がそうしたかったから、そうした。っていうか、気づいたら潜ってた。だから、後悔のしようがない」
「へえ、かっこいいこといってくれるじゃん」
そういいながら宗次がジョッキを持ち上げたので、勇登はそこに自分のジョッキをぶつけた。
そして、お互いに一気に飲み干した。
宗次にいったことは、嘘ではなかった。自分でも不思議だった。気づいたら亜希央を追いかけてたのだ。
その夜は、閉店まで二人で飲み明かした。
*
――翌日。
昨日少し飲み過ぎたことを反省しつつ、勇登は外来宿舎を出た。
「そこの助けてくれた人!」
勇登の頭に、裏返って少し高い声が響いた。
そこには作業服姿の亜希央がいた。
「……き、きのうは……」
勇登は亜希央の顔に手をかざして言葉を遮った。
「いっとくけど、俺は自分の意志で動いた。だから、君はなんにも気にする必要がない。すべて俺が勝手にやったことだから」
亜希央は何かいいたそうに口をパクパクさせた。
勇登は構わず続けた。
「それに、次回も受けるんだろ?」
それをきいた亜希央の目は一気に真剣みを増し、彼女は力強く頷いた。
「また会おう!」
勇登はそういうと、亜希央に背を向けた。
「あ!き……、きのうは、ありがと!」
勇登が振り返ると、真っ赤な顔の女子がいた。
この一言が明日から、いや、今日帰ってから再びはじめるトレーニングの励みになる。
勇登は満面の笑みを返すと、大量のお土産袋を抱え入間基地への帰路についた。
*
救難員課程の試験が終わって数カ月が経っていた。
毎日午後3時位になると、勇登はひとりそわそわしていた。今日あたり合格者への通知がくるかもしれないと思ってしまうからだ。受かっていない確率の方が高かったが、結果を見るまではわからない。試験が終わってからも、勇登はこれまで自分に課していたトレーニングを、やめることはなかった。
合格発表というのは、どうしてこんなに緊張するのだろうか。自信満々で×の場合もあるし、駄目だと思っていたのに〇ということもある。期待とは逆の方向にいきそうで、最後は考えるのをやめたくなる。
「志島!」
総括班に命令受領にいっていた先輩が勇登を呼んだ。
そして、おもむろに一枚の紙を渡した。
先輩は、それを見ろ、と目で合図した。
試験の合否者名簿に間違いなかった。
――頼む!
勇登は恐る恐るその紙を覗き込んだ。
「――おっしゃぁ!」
自分の名前を見つけた瞬間、思わず声が出た。
駄目だと思っていたのに合格したパターンだ。
名簿には全部で五名の名前があった。勇登は宗次とジョンの名前を見つけた。無意識に亜希央の名前を探したが、あとの二人は知らない人物だった。
そのとき、職場の電話が鳴った。音で他部隊からの内線だとわかった。
勇登は、すかざす取った。
「はい。消防小隊、志島士長です」
「合格おめでとう」
名乗りもせずそういったのは、由良だった。
「情報早いね」
「あんた、私を誰だと思ってるの」
勇登の母は2等空佐志島由良、総務幹部だ。
「失礼しました。志島2佐」
「ふざけてんじゃないわよ。……あんたが受かったってことは、落ちた人もいるんだから、気合いれて行きなさいよ」
核心をついた由良の言葉に、勇登は背筋を伸ばした。
第3章へつづく
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※この物語はフィクションです。実在の人物、団体、組織、名称とは一切関係ありません。