『メディック!』【第8章】(俺×オレ)+(ジョン×五郎) 限界の先にいた仲間
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第8章 (俺×オレ)+(ジョン×五郎) 限界の先にいた仲間
――走っているときは、素の自分でいられる。
誘導路を滑走するKC-767が、外周道路を走る亜希央を追いこしていった。
――今日も負けた。
基地の外周道路は、滑走路や誘導路と並走する形であり、隊員のかけ足コースにもなっている。すぐ横を通る航空機と短距離ながらも競争ができたときは、自衛隊に入ってよかったと思う。ただ、こちらは勝手に意識してるけど、パイロットはあいつより早く滑走してやろうなどとは考えていないだろう。
太陽が沈もうとしていた。
右からの西日が肌を焼く。飛行場地区が美しい色に変わる時間に走るのは、最高に気持ちがいい。走ってるときは、今だけを考えられる。
その時、腕に巻いていた携帯が震えた。
――お母さん。
亜希央は立ち止まり道路の端に寄った。もみあげから流れ落ちる汗を半そでシャツの裾でぬぐうと、電話に出た。
「もしもし、亜希央?」
「うん」
「最近は元気でやってるの?」
「うん」
「次はいつ帰ってこれるの?この間のお盆も仕事だったんでしょ?」
「うん。ほら、まだ下っ端だし、新しく来た学生の手伝いもあるし、忙しくて」
本当はきちんと夏季休暇をもらっていた。自分がするべき手伝いもなかった。
ただ、実家には帰らなかった。
「お父さんも、心配してるわよ……」
――嘘だ。
彼は弟さえいればいいのだから。
亜希央は母の言葉を遮るようにいった。
「ごめん。まだ、ヘリの整備中だから、切るよ」
亜希央はそういって電話を切った。
いつの間にか、誘導灯のあかりが辺りを淡い紫に染めていた。
目の前には、滑走路に侵入してくる旅客機の、真っ白なランディングライトが見えた。小牧基地は民間と一本の滑走路を併用している。
亜希央は白い光に立ち向かうように、再び走り出した。
しばらくすると、後ろからこちらに迫ってくる規則正しい足音が聞こえた。その人物は亜希央の隣に並ぶと、いつもの決まり文句をいった。
「飯、食いにいったか?」
五郎はにかっと笑った。
「はい」
亜希央も笑顔で答えた。
走りながら話すのは結構きつかったが、素知らぬ顔でそれ以上ペースは落とさないようにした。自分にも、意地がある。
亜希央ははじめ、空曹長熊野五郎を怖そうな人だと思った。でも、話してみたら全然違った。人間一度は言葉を交わしてみなければわからない。
彼は亜希央がメディックを目指してると知る前から、よく話しかけてくれた。知ってからは、外周道路で会うと必ず声をかけてきた。そしていつも決まって、ちゃんと食べてるのか、ときいてくる。ほとんど挨拶替わりだ。きっと自分の身体が細いから、心配してくれているのだろう。
――この人が父親だったら、どんな風に育っていたんだろう。
五郎には小学生で自分の弟と同じ年代の娘がいる。以前写真を見せてもらったことがあった。こういってはなんだが、お父さんに似なくてよかったですね、といってしまいそうになるほどかわいらしい女の子だった。
もし、彼が自分の父親だったら、
髪は長かった?短かった?
自衛隊には入ってた?
勝手な空想とわかっている。それでも考えてしまうのは、
今の自分に満足してないから――?
亜希央は走るペースを落とすと五郎に「お先にどうぞ」といった。彼のトレーニングの邪魔をするわけにはいかない。
五郎は片手をあげて笑うと、ペースを上げて一気に亜希央を引き離した。
*
「もうやめちまえ!」
「やめません!」
行楽の秋には、決して相応しいとはいえない熱い会話が、山中に響き続けていた。
勇登たち学生は、山岳実習のため岐阜県の山中にいた。山岳実習ではあらゆる状況や現場を想定して、山中に墜落した航空機の捜索、UH60-Jでのピックアップなどを実施する。
山岳実習も2日目に入り、連日の捜索活動で勇登の体はぼろぼろだった。重い装具を背負い、コンパスと歩測で遭難現場を見極めながら、道なき道を登ってゆく。要救助者発見後は、60㎏の要救助者に見立てた人形を背負いながら、険しい山を更に登り、ヘリでのピックアップポイントを目指す。当然、ヘリはいつまでも待っていてなどくれないし、遅れれば要救助者の命が危険にさらされる。
目標時間が迫っている――。
うっそうとして、じめっとした森の中では、学生たちの荒い息づかいさえもかき消す、教官たちの罵声だけが響いていた。
吉海が足を滑らせた。
「できないなら、帰れ!」
道前正則が叫んだ。
極度の疲労からに違いなかった。これまでどんなにつらい訓練も乗り越えてきた吉海が、そのまま止まってしまった。
勇登は額の汗を手の甲で拭った。無理もなかった。
9月、それでも気温は連日30度を超す日が続いていた。山中の急な斜面、背中に背負った大人一人分の重さの人形。
それに吉海は自分が一番若くて体力あるからといって、率先して大変な役を引き受けることが多かった。
立ち上がれない吉海に正則がいった。
「おいおい、どうしたんだ?ついに、やめる気になったか?」
「やめません!」
「じゃあ立てよ。ほら!つらいのはてめーじゃねぇんだよ。背中の要救助者だ!」
正則は吉海の気持ちを知ってか知らずか、檄を飛ばし続けた。
はじめは抵抗していた吉海も遂に黙ってしまった。
バディのジョンは面倒くさそうに吉海を見た。
正則が座り込んでしまった吉海に近づくと、静かな声でいった。
「お前、背中に背負ってるのは、本物の人じゃなくて、人形だと思ってんだろ」
「……ち、がいます」
かすれた声で吉海がいった。
「いや、思ってんだよ!」
正則は吉海の顔を覗き込むと声を荒げた。
ついには、吉海は両手をついて真っすぐに地面を見た。吉海の顔から落ちた水滴が、乾いた土を濡らした。
剣山が叫んだ。
「おい、吉海、顔を上げて俺を見ろ!」
吉海は涙を流しながら首を振った。
「吉海、行くぞ!」
「負けんな!」
宗次、勇登も懸命に励ました。
これまでずっと、テストされてきたようなものだった。
――お前はそれでもやりたいのか、と。
ここでリタイアしたらすべてが終わってしまう。皆それをわかっていた。
剣山は今日一番の声で叫んだ。
「お前がいなくなったら、写真はどうなるんだよ!お前が卒業まで撮り続けましょうっていったんだぞ!」
その言葉に吉海はハッとした。
「頑張れ吉海!こういう辛さは、後で絶対、あの時頑張ってよかった、って思えるから!」
剣山が声を振り絞った。
吉海は両手で一気に涙を拭くと、ゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、五郎が小さな声でぽつりといった。
「青戸のバディの声がきこえなかったなぁ」
ジョンがハッとして、五郎を見た。
「沢井士長、腕立て用意!」
五郎はジョンに腕立て伏せを命じた。
山の斜面でジョンは体を地面に這わすように腕立て伏せをはじめた。五郎が思い出したようにいった。
「ああ、連帯責任だったな」
五郎は他の四人にも、腕立て伏せを命じた。
勇登は心の中で悲鳴をあげた。
喉はからから、疲労のピークはとっくに過ぎていた。気合いだけで動いていた中での、あまりにも理不尽な仕打ち。
全員が必死に腕立てをする中、汗を滴らせながら腕立てをするジョンに五郎が静かにきいた。
「お前は誰かに強制されてここにきたんか?」
「いえ、……自分で選んできました」
ジョンはガラガラの声で答えた。
五郎は学生を見回しながら声を張った。
「そうだ、俺は一度もお前らにメディックになってくれと頼んだことはない。お前らは全員、自らの意思でここにいる」
五郎は吐き捨てるように、それでいて凄みのある声で続けた。
「やらされてる気になってんじゃねーぞ」
――そう、誰も強制などされていない、みな自分の意志でここにいる。
でも、いつのまにか、そんなことも忘れていた。
受かりたくてどうしようもなくて試験で緊張したことも、結果発表までのドキドキと不安、合格をきいたときの喜び、そういったものが勇登の心に再び浮かんだ。訓練の過酷さに心が屈してしまっていた。
五郎の言葉は初心を思い出させると同時に、心に深く刻まれた。
この日、勇登たちはピックアップ予定時間に遅れ、要救助者をヘリで搬送することはできなかった。
*
その日の夕飯は鶏一羽を支給された。
ジョンはさばいた鳥を無表情で網の上に乗せた。
――食べる気分じゃない。
腹はとてつもなく減っていたが、腹が立ってそれどころではなかった。
吉海は鳥肉の焼ける香ばしい匂いを、鼻から思い切り吸うと「うまそう」と笑顔を見せた。焼きあがると少しばかりの素焼きの肉片を、ニコニコして食べる吉海にジョンがいった。
「なに、平気な顔でくってんだよ」
「?」
吉海は発言の意図がつかめず、笑顔のままジョンを見た。
ジョンが突然、吉海の胸ぐらを掴んだ。
「おい、ジョン!やめろよ!」
そういって勇登がジョンの肩に触れると、ジョンは吉海を離して今度は勇登に掴みかかった。
二人はお互いを掴んだまま地面に倒れ込んだ。しかし、力が拮抗してどちらも動けず、そのまま睨み合いとなった。
すぐに剣山が動いた。勇登に馬乗りになるジョンの後ろから脇に手をとおすと思い切り引いた。それと同時に、宗次は二人の間に割って入り、勇登側についた。
吉海は裂かれた肉片を口から垂らしたまま、呆然としていた。
「お前ら!なにやってる!?」
異変に気がついた正則が、地を這うような声を出しながら近づいてきた。
剣山がすぐに答えた。
「な、なんでもありません。ちょっと肉の取り分で、もめただけです。私が食べ過ぎてしまって……、なっ?」
剣山が全員に同意を求めると、全員揃って、うんうんと頷いた。
「……」
正則は全員を一瞥すると、何もいわずに去っていった。
その後は、とても静かな食事の時間になった。それでも、肉片が全く残ってない骨だけが後に残った。
ジョンは誰ともしゃべらずに、就寝用のテントに入った。
*
深夜0時を過ぎたころ、ジョンはひとりテントの外に出た。
――どうしたら、人とうまくつきあえるんだろう。
心が痛くて眠れなかった。あれからみんなが自分を避けている気がしてならなかった。少し孤立しはじめていることはわかっていた。
どこへ行っても、同じだった。
転属しても、入校しても、最後は一人。
皆静かに離れていく。
でも、どうしたらいいのかわからない。
空には星が瞬いていた。それさえも見ずに膝を抱えて座っていると、人の気配を感じた。
すぐ隣に五郎が座った。ギクリとした。
今日時間に間に合わなかったことを責められるのではないかと思った。しかし、五郎は何もいわず、ただ空を見上げていた。彼の周りにはいつになく穏やかな空気が流れていて、不思議な感覚になった。
しばらくして、ジョンは口を開いた。
「……俺、昔から友達がいないんです」
五郎はジョンのほうを向いた。その目は昼間とは打って変わって、どこか優しさを帯びていて「もっと話してもいいよ」といっているように見えた。
「見た目が日本人じゃないから、なかなか友達できなくて、万が一仲良くなっても、俺がすぐ余計なこといっちゃって、空気読めない、ってみんな離れていくんです。けど俺、ずっと友達が欲しいんです」
自分がどうしてこんな話をしているのかわからなかった。でも、やめようとは思わなかった。
五郎は穏やかな沈黙で話を促しているようだった。
「俺、実は子どもの頃、救難隊のヘリに助けられたことあるんです。家の近くの川の堤防が決壊して洪水になったときでした。そのころから人間関係上手くいってなくて、毎日明日世界が終われば楽になれるのにって思ってました。だから、そのときは、もうこのまま死んでもいいって思いました。でも、家の上でヘリが飛ぶ音がして、気がついたら俺は、二階のベランダから必死に手を振っていました。本当は死にたくなかったんだと思います」
これまで誰にも心の内を話したことはなかった。話せる人がいなかった。
「あのときの感動は今でも鮮明に覚えています。俺みたいな価値のない人間でも彼らは必死に助けてくれました。そのとき俺、思ったんです。こんなにあったかいもんははじめてだって。体は凍えるほど寒かったけど、不思議と心はあったかかったんです。本気で人に助けられたことなんてなかったから。俺は勇敢な彼らに憧れました。だから、たとえ自分の命を落とすことがあっても、俺には人を助ける覚悟があります」
ジョンはグレーの瞳を潤ませながらいった。
「今日はどうしても間に合わせたくて、吉海が動かなくてイライラしました。間に合わなかったことが、本当に悔しいんです」
それまで黙っていた五郎が口を開いた。
「沢井、自分の命を落としてもいい、は違うぞ。自分の命を大切にできないやつは、他人の命も大切にできない。俺たちは一度出動したら、何があっても生きて帰ってこなければならない。今している訓練は、自分はどこまでできて、どこまでができないのかを知るためでもあるんだよ。それから、自分ができることと、できないことを受け入れて、それを現場で判断できる人間になることが大切なんだ。お前、助けられたことあるっていったよな?」
「はい」
「もし自分だけ助かって、助けてくれた人が死んでしまったらどう思う 」
「そんなの絶対に嫌です」
「お前が誰かを助けて、その人の体が助かっても、心が傷ついたんじゃ意味ないんだよ。大きな自己犠牲はときに相手の心を傷つける。だから、俺たちは何があっても死んではいけないんだよ」
五郎はジョンをなだめるようにいった。
そんなこと考えたこともなかった。自分の命は価値などないから、どうなってもいいと思っていた。
「それから、救難は決して一人ではできない。仲間の力が集結してこそ成り立つものだ」
五郎は立ち上がると、都会にはない、透き通るような空を見上げた。
「仲間が欲しいなら、相手に対して心を配りなさい。相手が受け取りやすい言葉をかけなさい。一緒に同じ訓練をしているだけじゃ、決して仲間になんかなれない。仲間は自然にできるもんじゃない、つくるもんだ」
五郎は力強く、満天の星空を見ながらいった。
五郎に促されて、ジョンはテントに戻った。本当はずっと人恋しくて皆と仲良くしたかった。
ジョンは確認するようにささやいた。
「仲間はつくるもの」
そして、いつの間にか深い眠りについた。
*
――山岳実習、3日目。
過酷な訓練を終え、勇登はやっとの思いで小牧基地に戻ってきた。
これで夏季山岳救助訓練が終わる。この後、風呂に入って山の汚れを全部落として、好きなものが食えると思うだけで勇登はワクワクした。確かロッカーの中に、ナオからもらったイチゴ味のチョコがあったはずだ。
身体はボロボロ、でも心はルンルンで教官の解散指示を待っていると、指揮所から放送が入った。
「……!?」
放送が終わるころには、全員の魂が抜けていた。
その内容は、山中に自衛隊機が墜落、直ちに救助に向かえ、というものだった。
数分後、勇登たちを乗せたUH60-Jが離陸した。五体の抜け殻を乗せたヘリは、再び先ほどまでいた山中に舞い戻った。
*
日が沈んですっかり真っ暗になったころ、救助活動は終了した。
激務の連続で、勇登の心は折れかけていた。まさかの3泊目。完全に予想外だった。夜は再び昨日と同じテントで寝る。
「まるで、デジャブだ」
そういいながら勇登は用を足すため、少し森の中に入った。
すると、ちょうどジャージ姿の亜希央が森の中から出てきた。疲れすぎて幻覚が見えているわけではなく、今回亜希央は支援要員として訓練に参加していた。
すれ違いざま勇登はいった。
「なあ、お前。まだメディック目指してるの?」
亜希央は立ち止まると「だったら?」と振り返らずにいった。
「いや、大変だぞって思ってさ」
「そんなの見てりゃわかる」
「それも、そうだな」
「ばっかじゃね」
亜希央は不機嫌そうな声でいった。
勇登は構わず、ずっと疑問に思っていたことを口にした。
「どうして、メディックになりたいんだ?」
「オレはヘリに乗って現場に急行して、人を救いたいだけだ――」
そういって振り返った亜希央の目はまん丸だった。
彼女は静かに勇登の後ろを指さした。
何かと振り返ると、勇登の視界に暗闇で目を光らせた何かが映った。
――イノシシ!?
その距離十数メートル。
これならそっと後退すれば、やり過ごせる距離だ。
そのとき、それが一歩前に出た。
「い!」
亜希央が声を上げた。
その瞬間、イノシシが二人めがけて突撃してきた。こうなってしまっては、どうしようもない。
勇登と亜希央は森の中をひたすら駆け抜けた。勇登の全力より、なぜか亜希央のほうが速かった。
無我夢中で走りながら、勇登はまずいことに気がついた。
「おい、亜希央止まれ!そっちは……」
勇登は手を伸ばすと亜希央の腕をつかんだ。
視界の木々がなくなり、目の前に大きな月が見えた。
ああ、今夜は満月か――。
と思った瞬間、二人はそのまま真っすぐに落下した。
*
滝つぼに落ちた勇登と亜希央は、少し流されたところで岸に這い上がった。
「おい、大丈夫か?」
そういう勇登に、亜希央は呼吸を整えながら答えた。
「ああ……」
亜希央は、立ち上げろうとした。
「いっ!」
すぐに口を押えた。足から脳にかけて稲妻のように痛みが走った。
「見せてみろ」
勇登は亜希央の足の状態を見た。
「とりあえず、骨は大丈夫そうだな」
そういうと、勇登は亜希央に背中を向けてしゃがんだ。
「ほら」
「……」
動こうとしない亜希央に、勇登は小さく息をつくといった。
「俺が助けたいんだ。これは俺のエゴだ。助けさせてくれ」
「助けられてばっかだな」
亜希央はそういうと、しぶしぶ勇登の広い背中に乗った。
「おまっ、めっちゃ軽いな」
「……うるさいっ」
亜希央は勇登の背中を、拳の先でぐりぐりした。
亜希央をおぶった勇登は、道なき道を進んでいた。
――せめて自分が怪我をしなければ……。
そんな考えが亜希央の頭に浮かんでいた。
「マジ最悪、ほんと消えたい。こんな足手まといがメディックになりたいとか、ほんと馬鹿」
「そんなこというなって」
救助されてる自分が許せず、亜希央は黙った。
暫くして、勇登が沈黙を破った。
「そういえばお前、なんでいつも男っぽくしてるんだ?」
亜希央は再び沈黙した。その質問を無視することもできた。けど、ここまで醜態を晒して、なんかもういっか、とも思えた。最近は色んなことが辛くなってきてもう限界な気がしていた。
亜希央は上を向いて「ふう」というと、静かな口調で話しはじめた。
「あきおって名前、男みたいだろ。父親が男の子欲しくて、どうしても譲れなくてそうしたんだって。母親がせめて漢字は女の子らしくって、工夫してくれたんだ。親父の口癖は、俺は男の子が欲しかった、だった。だから、子どものころは親父に喜んでもらいたくて男の子になろうとしてた。でも、中学生になったとき、弟が生まれて……。そしたら、ピタッといわなくなった。その瞬間、オレはいらない子になった。……親父なんて大嫌いだ」
亜希央は最後は低い声でボソッといった。
「それからは、父親譲りの頑固なオレが急に女の子になれるはずもなくて、この格好や態度がまるで自分の意志であったかのように振舞った。本当はスカートや、長い髪に憧れてた時期もあったんだ。でもそんなの今更怖すぎるだろ。だから、高校卒業後は整備士の専門学校に行って、自衛隊入って、救難教育隊の整備にきてメディックに出会った。そのとき思ったんだ。もし、あの中に入れれば、こんな自分でも認められるんじゃないかって……。『救いたい』なんて、後でとって付けた理由だよ。……本当は父親を見返したかっただけ」
亜希央は小さな声でいった。
ずり落ちてきた亜希央を、勇登は軽くジャンプして元の位置に戻してくれた。
それまで黙って話をきいていた勇登が口を開いた。
「……お前、いい子なんだな。それも親父さんのこと大好きな」
亜希央は身を逸らすと「はあ?なんだそれ?話きいてたか?」といって勇登の背中をグーで思い切り叩いた。
勇登はその攻撃を無視していった。
「だって、嫌いな奴の期待に応える必要なんてないだろ。好きなんだよ。大好きだから悲しませたくないし、期待にも応えたい。愛情があるからこそ、我慢しちゃうんだよ」
「……」
「子どもの頃って、けっこう親の心わかっちゃうんだよな。俺も母親が悲しむのは嫌だったし、いつも笑っててほしかった。だからお前の気持ちわかるよ」
勇登は肩越しに亜希央を見るとそういった。
「はじめの動機なんてなんでもいい。お前が今実際に頑張ってることのが大切なんじゃね」
「でも、自己中だと思う」
「自己中な奴は手足縛ってプールに飛び込んだりしないよ。お前はすでに人を救ってる。心は立派な救難員だよ」
「なんだそれ」
亜希央は呆れた声でいった。
「心の救難員。なんかかっけー。俺、いいこというな」
勇登は得意げに笑ってみせた。
「男女平等っていうけど、なんでも同じってわけにはいかないと思う。なんていうのかな、あんま男とか女とかこだわらずに、それぞれができることしたらいいんじゃないかな。俺お前がやったようなことできないし。だから、お前みたいなやつが必要なんだって思うし。上手くいえないけど」
亜希央は先ほど攻撃してしまった場所を、勇登に気づかれないようにそっとさすった。
「これまでずっと悩んできたんだろ。もう父親の人生歩くの辞めて、そろそろ自分のために生きればいいさ。今度は他の誰かのためじゃなくて、自分のために自分を変えたらいいんじゃね」
「……変われる、かな」
「おう、当然だ。もっと自信持て」
亜希央は返事をする代わりに、勇登の頭をこつんと打った。
声を出したら、泣きそうだった。でも、急に弟をかわいがる父の姿や、救難員の試験に落ちたことやら、いろんな出来事が思い出されて止められなくなった。
――男の子がいなくて寂しそうな親父を助けたかった。
子どものくせに本気でそう思っていたことを急に思い出した。
自分が男らしくして親父が笑うと嬉しかった。でも弟が生まれてからはすべてが変わってしまった。
彼は簡単に親父を笑顔にできた。自分にはそれができなかった。
どんなに頑張ってもできなかった。
怒りに変わる前にあった消化しきれていない沢山の悲しみが、一気に溢れ出てきて、気づいたら声を上げて泣いていた。
女々しいと思われないように、泣くことさえもずっとずっと我慢してきた。泣いてしまったら、これまで頑なに守ってきたものが崩れ落ちて、すべてが終わってしまう気がした。
それでも、全てを吐き出すように泣いた。
亜希央の泣き声に森の木々もザワザワと答えた。
「それでいいんだよ」
勇登はそう呟いたが、それが亜希央の耳に届いたかどうかはわからなかった。
月明りを頼りに、勇登は黙々と坂を登った。
今日は不意打ちの3泊目で、死にそうに疲れていて、もう動けないと思っていた。けれども、助けるべき命が目の前にあるだけで、人はこんなにも動ける。
背中の亜希央から体温と鼓動、彼女の感情が伝わってきた。
――人ってあったかいんだな。
人形では感じることのなかった血の巡りを直に感じた。
勇登はこれまではどこか漠然としていた「人を救う」ということの意味が、少しだけわかった気がした。
*
ジョンから勇登が戻ってこないという報告を受けた教官たちが、ざわつきはじめたころ、亜希央を背負った勇登はテントに戻ってきた。二人はことの経緯を説明した。
救命救急士の資格を持った五郎と正則が亜希央の足の状態を確認し、明日病院で診てもらうということでこの日は就寝となった。
勇登が着替えて寝袋に入ると、ジョンが「大丈夫か?」と話しかけてきた。勇登は少し驚きながらも「大丈夫だ」と返事をした。その後、ジョンが何かいったかもしれないが、勇登は疲れ果ててすぐに眠ってしまった。
翌朝、亜希央は勇登に「ありがとうな、負けるなよ!」といい残すと、山をおりていった。
「お前はいいのか?」
五郎は明らかに社交辞令でそういった。
勇登は「できます。やらせて下さい!」と強く希望した。
「目の前の山を、勇気と勇敢さをもって登る」
そう五郎が呟いて、勇登はドキリとした。それは、勇登の名前の由来だった。
勇登が口を開こうとすると、五郎が続けた。
「やるといったからには、最後まできちんとやれ」
「はい!!」
勇登は両手でほっぺを何回か叩いて気合を入れた。
――あれ?
勇登は愕然とした。途中、足が急に動かなくなったのだ。
怪我でないことだけはわかっていた。それでも、足がいうことをきかない。まるで脳と身体を繋ぐ回路が切れてしまったようだった。
呆然と空を見上げると、自分がどこにいるのかわからない感覚に陥り、なんだか夢を見ている気分になった。青い空に向かって伸びる木々の間に、なぜかナオや母の顔が浮かんでいた。
子どものころ、由良に空が青く見える理由をしつこくきいた。
彼女は「それは勇登の気分がいいからよ」と答えた。
なんだか今、とても気分がいい――。
次の瞬間、勇登は頬に痛みを感じて我に返った。
五郎に頬をパチパチと叩かれて、自分が気絶しかけていたことに気がついた。
勇登は膝を地面につき、上を向いて口をぽっかり開けていた。
――救助に向かわなければ。
状況を思い出して焦って顎を引くと前を見た。しかし、体の筋肉は、石のように固まり動かない。
五郎は勇登ににじり寄ると、優しい口調で囁いた。
「なあ、志島。もうやめてもいいんだぞ。辛いんだろ。こんだけ暑いし、重いんだから仕方ない。リタイヤしたって誰もお前を責めないよ」
それまで鬼のようだった五郎が突然そんな風に声をかけてきた。
勇登の涙腺が緩んだ。
彼は知っているのだろうか、極限状態でかけられる優しい言葉が一番気持ちを揺さぶられることを。
すかさず、五郎が追い打ちをかけてきた。
「お前は昨日浅井を救った。それで十分じゃないか。なあ、車に乗って帰ろう。車は楽だぞ」
――そうだ、俺はもう十分やった。空もきれいな青に見えてる。自分は間違ってない。
五郎の誘惑は強烈だった。
勇登の心が甘い誘いに傾きかけた瞬間、ジョンが後ろで叫んだ。
「おい、勇登!騙されるな!」
五郎はジョンを睨んだ。
ジョンは構わず続けた。
「今辞めたって、結局おまえは歩いて山降りなきゃならねーんだ。教官はお前をおぶっちゃくれない」
剣山、宗次、吉海が驚いた顔でジョンを見た。
ジョンは勇登の背中を叩いていった。
「だったら、やりきろうぜ!」
その言葉をきいた五郎は、にやりと笑った。
*
山岳実習を無事終え帰隊した五郎は、一人ふらりと屋外の喫煙場所にきた。
――最近、ちょっと吸い過ぎか?
ふと、昔宴会の席で「煙草は体に悪いからやめたほうがいい」と、整備の同期にいわれたことを思い出した。俺が、年に数本だけだよ、といおうとすると、近くに座っていた亜希央が「人には、そうなるに至った歴史があるんです!」といい返してくれたことがあった。その真剣な顔に俺は吹き出してしまって、結局は俺が怒られた。
五郎はそんなことを思い出しながら、煙草に火をつけた。煙草を垂直に立てると、煙はオレンジ色の空に吸い込まれるようにのぼっていった。今日の飛行場地区は夕日で染まって美しい。
五郎は半分ほどになった煙草を、口にくわえた。
煙草の煙は、自分の中にある「何か」によくまとわりついて心地いい――。
救難員の学生時代、俺とあいつは煙草を吸っていた。あいつは俺に、禁煙勝負を持ち掛けてきた。俺はすぐに乗った。ルールは簡単、先に煙草を吸ってしまったほうが負け。どちらも譲らす、俺たちは卒業を迎え離れ離れになった。
そして、十数年後同じ部隊になった。お互い勝負はまだ続いているとすぐにわかった。あいつのことだ、離れていた間にこっそり吸った、なんてことはなかったと思う。
しかし、あの日雪交じりの冷たい雨を見ながら、あいつは急に「煙草すいたいなぁ」と呟いた。久しぶりの単身赴任でさみしかったのかもしれない。
ただ、俺もその気持ちは痛いほどわかった。禁煙に成功したものの、時々無性に吸いたくなった。たが、あいつを思い出して、我慢した。俺が「吸ってもいいんだぜ」というと、あいつは「冗談だよ」といってニヤリと笑った。
その日の夕方、俺たちはヘリに乗って出動した。
あいつがヘリから降下するとき、俺が「戻ったら一緒に吸おうぜ」というと、あいつは満面の笑みを見せた。本当に一緒に吸うつもりだった。
けど、あいつは二度と煙草が吸えなくなった。
それから、俺はあいつと話がしたいとき、煙草を吸うようになった。だから、勝負は俺の負けだ。
優秀なあいつにおれは勝てたためしがない。だから、これでいい。
五郎は煙を吐き出すと、それを見ながら思った。
人はどうして、身体に悪いこれをやめられないのだろう。
いや、違う、むしろ、
身体に悪いと知っているから、やめられないのだ――。
五郎は煙を肺に吸い込んだまま、火のついたそれを、ぐいと灰皿に押し付けた。
この毒が、心の中にある「罪悪感」を、麻痺させてくれるからだ――。
*
「たまには外で撮りましょう!」
山岳実習から戻った夜、吉海が元気にいった。
ついに写真撮影も6枚目に突入し、恒例行事となった。勇登も乗り気で作戦会議に参加した。
会議の結果、前回の訓練で勇登が川に落ちたので、川つながりで撮影場所は基地内の橋の上となった。
教官にばれないように、撮影は人通りの少ない日曜日の早朝に決行することとなった。服装は夏制服。事前にフォーメーションを確認し、素早く上衣を脱ぐ訓練も行った。
決行当日は、何事もないように橋を通過し、さっと脱いで直ぐに撮って、その後はダッシュで帰ってきた。居室に着いてから、写真を確認すると、もう誰が誰かわからなくほど、みんな真っ黒だった。
そのせいかもしれないが、全員の顔つきが少し凛々しくなっていた。勇登はそんな自分の姿を、少し誇らしく思った。
つづく――――――――――――――――――――――――――――――――――
※この物語はフィクションです。実在の人物、団体、組織、名称とは一切関係ありません。