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樗堂一茶両吟/蓬生の巻 34
貰ふたる鯛ハ戸棚にかさるへく
女房去して禅学に入 樗堂
名ウ四句、亭主謙遜の辞、素顔で応じた花前の句。
〇
女房
とら女こと羅蝶。とら女の婿が樗堂。
去して
寛政元年にとら女は亡くなりました。
禅学に
爾来、相応の暮らしに心がけながら、
入
問答の日々に入っております。(いたって不調法、行き届かぬことがあったことでしょう。)
〇
もろふたる/たいはどだなにかさるへく
にようぼさりして
ぜんがくにいる
客人の挨拶に応じた亭主の持成し、ひたすら実情を述べ謙遜に徹していたのです。
〇
廉屋の専助ととらは、家業の酒屋を営みながら、樗堂と羅蝶としても知られていました。その妻を失った傷心は長く続いていたのです。だからと云って、豫洲松山二畳庵の亭主のことですから、迎えた客人に不快なおもいをさせることは、おそらく無かったことでしょう。
すでに知られているように、家業は専助、町年寄りの勤めは政範、俳諧は樗堂と、それぞれの働きに、凡そ阻喪などということは、微塵たりとも見せることはなかった評判の婿養子だったのですから。
〇
そうした商家の亭主が、ひょいと口にした一句のなかに、ひとりの男の生き様を見せていたのです。
歌仙という文藝が照射した<素顔>の男、それをどうとらえるか ? これまた、千人いれば千の読み取りが可能です。
松山では、ここに云う「女房」にふれられていることが多く、
亡妻か喪にありける中
かれか愛せしもの何々
なと指を倒すに
諸泣や池の蛙の夜もすから
と。
『樗堂俳句集』を紹介しながら、後日編纂した、羅蝶遺句集『夢のはしら』の序文などが示されていました。
〇
細事ながら
「禅学に入」について少しばかり。
その一
松山入りして、一茶は多くの歌仙を巻いています。麦士と巻いた「梅の木」に、
酒の料はかた帯をやほどくらん 麦士
晋子にみさを見する雪の日 一茶
思出て聖霊まつる年の暮 士
と。
麦士は、石手寺に芭蕉句碑「花入塚」を建立した立役者の一人でした。その「打ちよりて」の歌仙に、
思はぬ舟に昼の汐待 銀杏
氣色まで曹洞宗の寒がりに 桃隣
焦す畳にいたく手を焼 彫棠
と。
これらから、其角、禅、樗堂へと連なる俳諧の流れを知るのです。
その二
やや遅れて、文化四年(1807)のことながら、
亡僧還化向甚麼処去師曰火後一茎茆とぞ 萩に侘び露にかなしむ 一世の風流を一書に遺せり 夫が根ざし家に茂りて いと芒穂にあらハるのあまり 令郎月人子に伝ハりぬ されバ今日の俳諧 俳諧の今日ありて 是非に片雲のあとをとどめず 虚実一如の自然に遊バむを 霊若遥に億土を隔て聞バ ひとり花台に微笑して 黙頭むや否やをしらずと 霜を懐ひ懐ひ 南無霜夜集に序す
と。
◇樗堂(息陰)序文「南無霜夜集」
禅の修行は「公案」にありました。
その原型は「問答」にあり、前句に付け句で応じる俳諧とも近い。と、考えられていたのです。
ル・クレジオの初期の作品に「モンド」がありました。"Mondo"は「問答」だったのです。その少年が小説のなかで、最初に発する言葉が、
「僕を養子にしてくれませんか ? 」
と。
そして、この短編小説の最終の言葉が、
いつまでも たくさん
◇ル・クレジオ「海を見たことがなかった少年 モンドほか子供たちの物語」岩崎力・佐藤領時・豊崎光一訳。
〇
寛政七年正月
貰ふたる鯛ハ戸棚にかさるへく 一茶
女房去して禅学に入 樗堂
歌仙行で見せた俳諧師樗堂の一面だったのです。
■画像は、『樗堂俳句集』(愛媛県立図書館)