とくとくの水麦士一茶/梅の木のの巻
Berjaln-jalan, Cari angin.
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ひそひそと透見をすれば皃の露
我を恨の釘をうつかに 一茶
初ウ十句、これで、泥仕合にならなかった、そのわけは。
〇
我を われ・を、私を。
恨の うらみ・の、怨み、憾み、怨恨、格助詞「の」の方向は<私>に向けられている、と。
釘を くぎ・を 尖った先が首筋あたりに迫る。
うつかに 打つ・かに、<恨みの釘を打つ>で、人形に釘を打ちこむ秘儀をさし、「かに」は<かのように>の短縮形で、句が切れる。
〇
ひそひそとすきみをすれば/ かほのつゆ
われをうらみのくぎをうつ かに/
鬼気迫る人情劇の展開に驚かされてばかりではいられません。
歌仙の運びからすれば、前句は手探りの小手打ちのような捌きだったのですが、これが受けの一茶にはかなり効いてたようで、普段、こころのひだに隠されていた<つかえ>のようなものがここで一気に吐き出されていたのです。
「透き見」がよほど堪えましたかな、なんなら差し替えてやり直しましょうか。
いやいや、それには及びません。差し障りがなければ、このまま治定頂ければありがたいのですが、、、、
おそらく、こんなやりとりが交わされていたとみているのです。
確かに「雨月物語」が世情で話題になるご時世とは云いながら、<我に恨みの釘を>の人情句は、はるかに時代を超え「存在することの罪」を意識した近代の<こころの在りか>を示していたのですから。
気儘な旅の暮らし故、人様の恨みを買うことの無きようにつとめてまいりましたが、それでも身から出た錆、思わぬ難儀にも会ったりするものですから、、、、
それは、それは、御苦労なことで。
例えば、この句に「かに」の語が無かったとしたら、歌仙という文藝の<捌き>からして、おおよそ成立しない付け句でした。
尖った釘先が首筋まで迫った瞬間、これが伝聞、あるいは想像であったと思わせるコトバで句を切っていた読み筋、カメラワークの冴えがここにあったのです。このことで、付け合いが泥仕合になることなくむしろ<つかえ>もおりて爽やかに進めることができていたのです。
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連句と映画のアナロジーを指摘したのは寺田寅彦です。麦士一茶の預かり知らぬ後の代のことでした。
8.11.2023.Masafumi.