北見薄荷の人文科学(4);知的魅力満載の北見ハッカ産業史概略(平成・令和)
大学基礎化学実験のもつ文理融合のポテンシャルについての私の考えは後に回し、その前段階として、北見薄荷のテーマがどういう文理融合を示し得るのかをお伝えしたいと思います。今回は・・・北見薄荷が終焉した後の時代の動きの象徴といえる2つのノーベル賞受賞研究を紹介します。
1.不斉合成技術の開発
(2001年ノーベル化学賞)
北見ハッカ工場が閉鎖となったのは1983年。奇しくもこの年は、薄荷にとって新たな時代の幕開け、ともなっている。以下は高砂香料株式会社代表取締役社長、桝村聡氏のトップメッセージより(太字は和泉による)。
(https://www.takasago.com/ja/aboutus/greeting.html)
「1983年には、野依良治教授(2001年ノーベル化学賞受賞 、現当社社外取締役)の協力を得て、不斉合成法による l -メントールの工業化に成功し、不斉合成技術は当社の根幹の技術のひとつとなっています。また、香料で培われた技術を医薬品などファインケミカルの分野にも応用し、豊かな社会づくりに広く貢献してまいりました」。
これまでの化学合成では2つの光学異性体のうちL-メントールだけを作ることは不可能で、D-メントールも一緒に合成された後、そこからL-メントールを分離していた。でもこれでは完全に分離するのは不可能で、少量のD-メントールが混在した状態の出荷となるため経口用途では使えなかった。
それが、野依良治氏が中心となったプロジェクトの最初の成果として、BINAPと呼ばれる有機金属系触媒を用いることによってL-メントールを100%選択的に合成することが可能となった。
・・・・・・・香料市場において天然メントールは合成メントールに勝ち目はなく、ほぼ、復活の道は閉ざされたと言って良い状況となった。
2.メントールによる冷感発生メカニズムの解明
(2021年ノーベル医学生理学賞)
薄荷にまつわるエピソードは、2001年で終わったわけではない。2000年代に入ると、カプサイシンによる温感・痛感発生を司るイオンチャネル(簡単に言うと、カプサイシンとの接触によって辛い、痛い、熱いと感じるために皮膚表面に埋め込まれたセンサー)の発見が発端となって、遂にはメントールのひんやり感発生のメカニズムまでが解明されている。
その最初の発見に対し、ノーベル財団は医学生理学賞をDavid Julius氏、Ardem Patapoutian氏の2名に授与した。以下は『今日の日経サイエンス』2006年9月号より。
(https://www.nikkei-science.com/page/magazine/0609/pain.html)
「新しい鎮痛薬の研究の多くは,痛みのシグナルが発生する末梢に注目したものだ。侵害受容器の末梢側にある侵害刺激を検知する分子は,体内のほかの場所ではほとんど見られない。こうした分子をブロックすれば,他の生理学的プロセスを阻害して副作用を引き起こすことなく,痛みのシグナル伝達を遮断できる。トウガラシの辛み成分やプロトンに反応するカプサイシン受容体,膜電位の変化に応じて開閉するナトリウムチャネルなどがそのターゲットだ」。
この記念碑的な感覚受容体の発見が発端となって、ついには冷感を司るたんぱく質(TRPM8イオンチャネル)の発見とメントールによる冷感発生のメカニズム解明にも至った。以下は『今日の日経サイエンス』2021年10月5日号より(太字は和泉による)。
(https://www.nikkei-science.com/?p=64951)
「その後,2000年代にはTRPV1と類似のセンサータンパク質が多く見つかった。それぞれ活性化する温度や化学物質が異なっており,たとえば30℃未満の低温で活性化するTRPM8は清涼剤のメントールの結合によっても活性化する。膵臓で機能するTRPM2は食後の体温上昇を受けて活性化し,インスリンの分泌を促すこともわかってきた。TRPV1とその類似タンパク質は痛みや熱の情報を脳に伝えるだけでなく,体内の生理機能を制御するスイッチの役目も果たしているようだ。炎症性や神経性の痛みを抑える鎮痛剤や消化器官の疾患治療法などの開発に,この知見が応用されている」。
現代社会は、バイオテクノロジー技術を駆使して、有効かつ安価なひんやり感の制御まで成し遂げようとしている。
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