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長編小説 『蓮 月』 その参
陶芸教室からLiveのJazz Barは歩いて10分ほどの処にあり、予約を入れてあったので、二人は前方の正面の席に座わることが出来た。「お酒は何にしはりますか? あっ僕も京言葉に?」唯は破顔して「初心者になりはりましたか?」「いや、そういう訳ではありませんが・・・言葉の伝播は強いですね「静一さんは何を?」「僕は、最初の一杯はブラッディメリーです」「ほなら、私も一緒で」「つまみは野菜ステックとナッツとチーズの盛り合わせでどうでしょうか?」「はい、それで結構です」お酒とつまみが運ばれてきて、二人は軽くグラスを当て小さな音を鳴らした。
その余韻が納まると、囁くように、唯の耳元で「唯さんとのご縁に乾杯」「はい、乾杯、おおきに・・・おおきに」唯は子供が初めて動物園か遊園地に来た時みたいな顔をして無邪気な振る舞いをしている。
彼女は、気取らぬほんとうの姿を視せるために一枚衣󠄂を脱いでみせているような気が静一はした。
最初の演奏は20時半に始まる。今日のバンドはピアノ・ベース・ドラムに女性ボーカルが加わってのセッションだった。静一はリクエストカードに 「The first Time when Your Face」をお願いしてあったが、それはファスートステージの最後にボーカリストが名前を読み上げて、静かに歌い出した。唯はこの歌のメッセージを理解したみたいで、静一を微笑んで視つめた。静一はグラスを持ち、再び唯のグラスに軽くあてた。
そして、二人は視つめあいながら飲み干した。
演奏が終わり、拍手をしながら・・・「どうしますか?セカンドステージ聴きますか?」「いいえ、十分堪能しましたし、少し夜風にあたりとう思いますよって、歩きまひょう」「わかりました、ではそうしましょう」精算を済ませてBARを出て御池の方へ歩き出した。
歩き出すやいなや、唯は静一の腕を奪うようにして手を組んだ。そしてリクエスの冒頭のフレーズを口ずさんだ。「すごい・・・もう覚えたの?」「頭だけです・・・頭だけ・・・」その冒頭のフレーズを何度もハミングして、そして意を決したように言った。
「私の家に寄りませんか?タクシー跳ばしたら30分も掛からへんし
・・・」
時間を確認すると21:12の数字が光っていた。最終電車には十分間に合うと判断して「いいんですか? 」「ええ、何か作品を視て貰いたくなって・・・ご無理言いますけど」「いいえ、大丈夫ですよ」
丁度御池の大通りに出た処だったので、手を上げてタクシーを拾い、彼女が行く先を伝えた。その間も唯は手を回したままで、指を絡めて強く握った。
静一は心なしか鼓動が早くなって、今の今の状況を確認するのに少してこずった。
北山の駅から暫く走り山手の方を進んだ処でタクシーを止めて、そこから坂道を登り切った処に唯の家があった。古い家屋と離れのモダンな別棟が対比をなして佇んでいた。
右側の別棟へ進み扉を開けた。そこは陶芸の作業場ならではの轆轤や土を捏ねる作業場であり、土の匂いがした。奥の方の別室に案内されると唯の作品が個展会場さながらに、並べてあった。一つ一つの作品は入魂という言葉がふさわしく、気品と研ぎ澄まされた創造への精神性がその空間を張り詰めたものにしていて息を飲んだ。
「一つの作品を創ったらくたくたになりませんか?」「確かに、身も心も大きな空白に包まれますわ・・・でも来た人に喜んでもろうたら疲れは取れますわ」「無で創り、人に喜んで頂く・・・良い仕事をなされてますね」「あまり褒めたらあきまへん、わておちょうし乗りやさかい」二人は笑いながら互いの瞳を凝視した。静一は眼を逸らして、今一度作品を丹念に視りことにした。そして、一つの作品に惹かれた。それは楕円の卵形で高さが二十糎・最大幅が直径十糎で、蝋燭が立てられるように中が刳り抜かれて、燈がほのかに届くように小さな楕円や丸い円が数カ所あり、藍緑色の地に萌黄色の花弁が鏤められていた。これは蝋燭の燈で幽艶な雰囲気を醸し出すに違いないと静一は感じた。
「この作品は、非売品ですか?」「何故、そうお思いに?」「何だか、特別なような気がして・・・」「はい、非売品です・・・私の想い入れが詰まった作品です・・・作家が自分の創ったものに執着するなんてとお思いでしょうが・・・創作の節目節目で自分自身がどのような想いでその道を辿ったのかを知る為には欠かせない一品です。かんにんしておくれやす」
「あぁ、謝るなんて・・・全然大丈夫です」「今、作品は年二回春と秋の個展の時のみ販売しています。勿論個別の特注もさせて貰っております」「そうですか・・・じゃぁ、急ぎませんので、僕の為に一品創って頂けませんか?」「よろしおますけど、秋の個展があるさかい、どうやろ・・・霜月か師走になりますがかましまへんか?」
「ええ、大丈夫です、急ぎませんので宜しくお願い致します」
「ほなら、この盃差し上げますよってお持ち帰り下さい。私の気持ちどす。どうぞ受け取っておくれやす」「ありがとうございます。大切にします。でも、まずこの盃にお酒を注ぎたいですね」「そうどすか ほなら一杯飲みましょうか」
二人は別棟から渡り廊下を歩いて母屋へ移った。中央に壺庭があり小さいながらも四季の庭草が質素に植えられていた。母は時たま寄るが、今は旅に出かけていて、週末に帰る予定だと聞いた。
庭の正面の和室は八畳ほどの広さに床の間があり、掛け軸と花が生けられていた。掛け軸は墨一色の濃淡で文字が抽象的に描かれていて、花は中心が淡い紅いに白の五弁が広がる木槿が一輪・・・唯が創ったオブジェ的な花瓶に生けられていた。
「用意しますよって ちょっとお待ちください」「はい・・・」
暫くして、金糸雀色(かなりあいろ)の作務衣に着替えた唯がお酒とお水を盆に載せて戻ってきた。
「ほな飲みましょうか」と言って盃にお酒を注いだ。此処へ来てから何となく緊張の糸が解れないので「固めの盃ですかね?」と少し茶化して言ったが、唯の表情は変わらず「私の創った盃でお酒を飲むのは初めてです・・・なんや特別な感じがしましてなぁ」
視つめ合う二人。そして同時に飲み干す二人。「これは辛口秋鹿の純米酒ですか?」
「ほう~よう当てはあったわ、その通りでおます、日本酒がお好きですか?」「いや、たまたまです」「もう一つどうぞ・・・」一気に飲み干す静一。微笑ましい眼差しでジッと視る唯、そして表情を変えずに「弐階がゲストハウスになってましてなぁ・・・今日はもう遅いし、お話もしたいから泊まっていっておくれやす」唐突のように思えたが静一のこゝろの奥では望んでいたことだった。少し逡巡した間を置いて「わかりました、お言葉に甘えさせて頂きます・・・でもほんとうに良いのですか?留守中に上がり込んで・・・そのまま泊まるなんて」「母は踊りのお師匠さんでお稽古がほぼ毎日あるので、東山のマンションに住んでいます。此処はわての作業場兼隠れ家みたいなもんやから・・・気にしはらんでよろしい」その言葉を面倒くさそうに言いながら「私、こんな音楽しか聴きませんのや・・・ちょっと聴いておくれやす」その音楽は深い哀しみを讃えた旋律で、魂が根刮ぎ震えるような代物だった。
多分、上妻宏光の演奏だと感じたが初めて聴く曲だった。こんな旋律を聴いたら闇の世界に沈み込み上がって来られなくなるのではないかと感じて、唯を視つめた。唯は無防備に座っていて、座卓を飛び越えて抱きしめたいという衝動に駆られた・・・が耐えた。しかし唯が隣に座り身体を預けるに至っては自然に抱きしめられた。唯は泣いていた・・・涙が幾筋も頬を伝って流れていた。その泣き顔に唇を合わせた・・・震えていた。只々抱きしめる他はなかった。嗚咽が激しく身体が小刻みに震えるのを抑えるように力を込めて抱いていた。
涙の意味は知るよしもないが・・・唯が泣きやむのを静かに待った。
唯に寄り添うように風が吹き渡り北山の森がシンクロして揺れ動いているように感じた。やがて、風が鳴り止むと唯も泣き止めた。「ごめんなさい、今日初めて会ったばっかりやなのに・・・」「いいえ、大丈夫ですよ。何か僕のこゝろまで洗い流されました。ありがとうございます」「いややわ、お礼言われるなんて・・・よしておくれやす。でもこのままややこのように抱き続けておくれやす・・・もうしばらく・・・もうしばらく」
腕の中で眠るように微睡んでいた唯が、急に覚醒したように身体を離し、隣の部屋の襖を開けた。畳の上に畳を敷いた和の寝台が視て取られ緋色の綿布が掛けられていた。
その四に続く