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長編小説 『蓮 月』 その九

 家に着くと、用意してあったのかすぐにキッチンから酒と肴が出された。今日は酒が久保田万寿で、肴は鰻と胡瓜の酢の物・モッツァレラ チーズを大葉に巻いたものと湯剥きしたミニトマトの梅酢和えだった。
陶芸教室の講座の帰りに錦市場に寄って、色々見繕うのが日課だと後から聞いた。
「お疲れ様でした」と互いに微笑みながら盃を合わせて、ゆっくりと味わった。

「一ヶ月待たなあきまへんやろか?」思わぬ言葉が飛び出して、静一はまじまじと唯の顔を視つめることとなった。不意にこゝろに(天の思慮)という言葉が浮かび、その「言葉を言うべきかどうか迷いながら「一回り違いの同じ辰年、九月一八日生まれ、しかも今年は満月・・・それってほとんど奇跡の様な話だよね」唯は少し哀しげに
「すんまへん・・・何かそんなことよりもっと大事なことがあるように感じてしまって・・・すんまへん」
「いや、どう言えばいいのかな?僕にも不安があります・・・ほんとうに来月結ばれるのが良いのか?それは赦されるのか?」
静一はきっちりと正座に座り直して
「今、ここであなたと一つに結ばれるなら、何が起こっても、すべてを喪ってもかまわないと想う気持ちもあります・・・でも・・・でもね僕達の物語は、僕達だけの物語ではなく、何か大きな力が働いているような気がするんだ・・・」間を置いて、水を飲み
話を続けた「この現実世界と夢の世界は、それでも絡み合っていて・・・うまく言えないけど・・・」唯は目を伏せて沈黙を守っていたが、箸を置くと静一の胸に身を寄せた。
そして語り出した「物語に意志があるのかないのか?二人の意志が物語を創っていくのか?ようわかりまへんけど・・・こうして二人は惹かれあっていて、こうして傍にいて、こうして抱いてもろうて・・・こうして(唯から静一の唇に近づけて)愛をかわして・・・今はこの幸せで胸が一杯やさかい、他の事は考えられしまへん」静一は大きく頷きもう一度口づけをし、この香りは杏に似ていると感じられた。

 しかし、二人はそれ以上お互いを求めようとはせず、CDのお琴の演奏が途切れた処で二人は自然と離れ<・・・で今晩はどうされますか?>と唯がサインを送った。
「未だ未だ最終電車まで時間がありますから、今日はお暇します」
「そうどすか?ほな、ウチ車で送ります」静一は少し笑って
「いや、お酒を飲んだら其れは駄目ですよ。お手数ですがタクシーを呼んで下さい」
「ああ、そうどしたなぁ・・・すっかり忘れてしもうて・・・それやったら、もう一献盃を空けましょう」「そう来ますか、唯さんは・・・」「ええ、そういきます」唯のお酌を受けながら、静一は数えるほどの逢瀬を重ねたに過ぎない関係なのに、別れを惜しむように唯は静一を視つめ、酒を飲み干し、酔いのなかでその哀しみをまぎわらしているのがよくわかった。しかし泊まれば夜から朝の時間がお互いに辛い。
さてさて何か良い形はないかと考え倦ねているその時、初音がヌゥと顔を出した。全く初音の気配を二人は感じていなかった。
とがめるような声で「お母はん 何!」と小さく叫んだ。
「おお、これはこれは静一はん。お邪魔どしたなぁ・・・いや、何や美味しい漬物を貰ったもんやからお裾分けに来ただけや」それを聞き、少し和らぐ唯は「そうどすか、それはおおきに」初音は座卓を見回して「丁度、酒の肴にもってこいやなぁ、私が盛り付けますよって、あんたは座ってぃ!」と言うや御厨に足を運んだ。
「来る時は必ず連絡入れるのが暗黙の了解やなのに、おかしなお母はん」と場を宥める唯であったが・・・静一は、あの夢以来、どうも初音に対しては自然なかたちで話が出来そうになく・・・この間をどう対応すべきかと思案するが、所詮夢のなせること・・・小難しく考える必要はないと思い立ち・・・「お母さんは、とてもアクティブですね」と、間の抜けたことを言ってしまった。唯は、どう返事をすべきか迷っていると・・・ほどなく、初音が唯が創ったと思われる蓮の葉を少しモダンに湾曲した碧のお皿に載せて、漬物の盛り合わせを持って来た。
「さあ、さあ、静一さんどうぞお召しあがりやす、どれもこれも美味しいおまっせ」「はい、ありがとうございます、では頂きます」静一は小皿に何種類かある漬物を取り箸で一つずつ置き、それからゆっくりと口に運んだ。トマト・茄子・瓜・オクラ・赤と黄の焼きパプリカのピクルスが盛られており、それぞれ漬け方が違っていて、味わってみると、初めての食感と味わいで絶品だった。
「お母さん、これは凄い、いけますね」と初音に話すと、初音は優しい顔で頷いた。「そしたら、静一はん、またそのうちにゆっくりお目にかかりましょう。先斗町の演芸場の近くで、美味しい甘党の店があるさかい、そこで、白玉ぜんざい一緒に食べまひょう」と「ええ、是非是非お話を・・・」初音は深く頷き、二人に礼をしてそさくさと帰って行った。
「ほんま、なんちゅうお母はんやろう」唯は、謝りながら少し恥ずかしそうであった。親は子に対して、想いの優しさを一方通行で、小さな支配の力を振る舞うものだと改めて思い知った一幕であった。初音の土産で少し酒を飲んだが、互いに酔うことは出来なかった。
時は22時を少し過ぎた頃、唯は突然「静一さんの家を視たい」と言い出した。
正直驚いた静一だったが、多分初音の闖入がこゝろを乱したのだと感じて「かまわないけど、この時間だと帰りの電車がもうないよ・・・またゆっくり来れば」「いいの、泊めて・・・どうせ来月までは・・・なんだから」と片目を瞑った。「う~ん・・・」と後の言葉が直ぐには出てこなかった。それほど部屋は散らかってはいないが・・・こゝろの準備がと躊躇う気持ちより唯と一緒にいたいといいう想いが強く、「じゃぁ、来ますか?僕の生活と仕事の拠点を隅々までご覧あれ・・・」
唯は喜び一杯の顔をして「じゃぁ、タクシー呼びますね」と電話を入れ、唯は麻地の紅殻色のサマーコートを作務衣の上から引っかけて用意をした。10分程でタクシーが迎えに来て、二人は乗り込んだ。座席に座るやいなやどちらかともなく手を握り絞めたまま沈黙した。
そして、今一度出会いから今日までの流れを反芻するように、二人の物語を客観的に視て考えて・・・お互いが相手の話を補足するように語り合った。この連鎖・繋がりはなんと説明すればいいのだろう?二人は運命を<宿命さだめ>に変える努力をしているみたいという処で話が落ち着き、車は頃合いを図ったように静一の家の近くに着いた。 

 静一の家屋はメゾネット形式になっており、1階がワンフロアーのリビングにキッチン・トイレがあり淡い碧と黄色の2色で明るく、2階は、濃いワインカラーとホワイトで寝室と書斎シャワールームとトイレもある。
案内をしながら「春になれば、ここから視える桜並木はまあまあ良い感じだよ。この色彩でON.OFFを日常と非日常を別けているつもりだけど・・・どうかな?」
唯は丹念に一部屋一部屋を探訪し、説明を聞いてこのスタイルを気に入った。
静一は、2階の寝室で唯が休めるようにシーツを交換して、パジャマ・タオル大小・歯磨きセットを枕元に置いて、1階で酔い覚ましのハーブティーを飲んでいる唯に、「はい、何時でも休めますよう」
「おおきに・・・もっと早う来たらよろしおましたなぁ」
「少しは気にいりましたか?」
「私の世界もよろしおますけど、こういうスタイリッシュな空間も落ち着きますな」
「初めてだからですよ、たまに来る位が丁度いい、毎日だと飽きますよ」
「其れって、たまにしか来るなってことですか?」
「まさか、そういう意味ではありませんよ」
「すんまへん、今日の唯は何やかやと絡みますなぁ」
「そんな日もありますよ、気にしないで下さい・・・今の唯さんにぴったりかどうかわかりませんがこの曲を聴いて下さい。でも、その前に音響メーカーの友人がクラシック音楽はタンノイ、ジャズはJBLとかと言われて、中古のスピーカーなんですが、それぞれ一つずつ。アンプは真空管アンプのメーカーのものでLUXMAN・・・ごめんなさい、こんな含蓄を述べても・・・」遮るように唯が言った。「かましまへん、もっと静一さんのこと知りたいよって」と唯の顔は爽やかに綻びた。
「では、マイルスのスケッチオブスペインのB面からSOLEAを聴いてください・・・」とレコードプレーヤーに針を置いた。

 高いトランペットの音色が響き、フラメンコのリズムであろうか小太鼓?の細かい律動が何かに導いていくように鳴り、深い静寂の中、ゆっくりとした呼吸のように始まるトランペットの音色が、遠い記憶を呼び覚ます深い哀愁を帯びた叫び・・・そのものだ。一音一音が、情熱的でありながらも、どこか寂寥感を漂わせるマイルスのトランペットは、聴く者を深い内的世界へと誘う。

 静かに聴き惚れていた唯が、この曲のサビの高みで涙をみせた。
そして声を堪えて泣き出した。曲が終わると、唯はぽつりと言い放った。「静一さんは寂しいお人どすなぁ・・・ウチかて寂しい人間やけど・・・」静一は何も答えず、次のアルバム・キース・ジャレットの
<ケルンコンサート>をかけた。唯が投げかけた答えがこの曲だった。
ただ、抒情に流されるのではなく、その奥底に秘めたる情熱が息づいていると唯は感じた。
                          その十に続く

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