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長編小説 『蓮 月』 その十九

 小林宮司は、廊下側の襖を開けて時間通りに来られた。既に禊ぎ用の白衣を身につけて上から浅黄色の作務衣を着込まれていた。そして少し大きめの頭陀袋を肩に掛けられていた。
「おはようさん、よく眠れたかな?」「はい、ぐっすりと眠れました。ありがとうございます」と静一が言った。唯は「ほんとうに、夢も視ることなくぐっすりと眠れました。おおきに」 「それは、なりよりじゃ・・・では、行きますかなぁ」二人「はい、お願い致します」

 参集殿から出て、神社の本殿で宮司を真ん中に三人並んで拝礼を済ませて、一路お滝場に向かって歩き出した。
歩きながら宮司は「今から行くお滝場は、一般の人が入るお滝場ではなく、ある位の者しか入れぬ秘められたお滝場である。故に禊ぎに入る前に入念なお清めの儀を為さればならぬことを肝に入れて頂きたい」
二人「はい、わかりました。よろしくお願いいたします」白山の奥の院に続く道から、途中細い脇道に入り、暫く歩くと滝の水音が響いて来た。

 お滝場に入るには、小道から、十数段程の坂道を降りなければいけなかった。降り立つとそこは、滝の高さは数メートル、幅は一メートルにも満たない小さなお滝ではあったが、数畳ほどの広さのお滝場と岩陰に二畳程の小屋らしきものがあり、そこで着替えなどを済ませるようになっていた。

宮司は、作務衣を脱ぎ<場>の清めに取りかかった。 頭陀袋から、お塩とお酒を取りだして、お滝場の入口に塩を左右の端に塩を一掴み置き、その間に塩を撒かれた。
そして、 撒いた塩の上を両足で塩を踏み、自分の上半身と下半身に塩をかけて清められた。同様のことを二人は手際よく済ませると、次はお酒であった。

このお滝場には、お滝場の神様(不動明王など)は祀っていなかったが、宮司は持参した酒の蓋を開けて、お滝場の隅々までお酒を振り撒いて清められた。そして、もう一本のお酒をお滝場の正面にお供えされた。

「もう直ぐ、日の出じゃ、此処では陽の光は梢を通してしか視られぬが、お滝場に陽が差し込めば禊ぎを始める・・・暫し待たれよ」禊ぎを終える迄は必要な事だけを話すように
心がけているように二人は感じた。
お滝の流れ落ちる音だけが、時を刻み、時を無にする・・・そしてその囁きは透明な旋律となり、水滴が奏でる音霊が、心を清めて頂いていると二人は感じ、又これ程までの無上の体験の最中にいることが、敬虔な想いとなり、こゝろは澄み切りさらに深くなった。

 自然が目覚めるその時を待つ間は、鳥の囀りや、梢を渡る風の囁き、岩を打ち滑る滝の音霊が響き合って・・・この禊ぎの舞台を盛り上げているようにも感じていると・・・陽がお滝場に差し込んできた。宮司は「では、昨夜の作法通りで禊ぎを始めます。最初は私、二番目が唯さん、最後が静一さん・・・」
宮司は静かにお滝場に礼をして、何やら言霊を唱えて、静かに印を組み祝詞を唱え始められた。天頂に滝の流れ落ちる清流を受けて、微動だにせず宮司の音霊は、その霊場に響いた。二人は教えられた同様の姿勢を保ち、宮司の禊ぎを注視した。やがて最後の言霊を唱え終わると、改めて拝礼をお滝場に向かってされて下がられた。

「視ての通りじゃ、気負う必要はない、出来るだけ自然に構えて、自然に委ねる・・・それだけで良い。前後の拝礼を忘れずになぁ・・・では、唯さんどうぞ禊ぎを受けられよう」
唯は、「はい」とだけ返事をして、宮司と同様の手順で禊ぎに入った。
唯は、さすがに禊ぎを何度も体験しているので、落ち着きのある振る舞いで禊ぎの行に入った。唯の声は、澄み切りよく響き渡ってその場に同化した。そして、宮司と同様に拝礼をお滝場に向かってすると微笑みながら、静一の方に向かって歩いて来た。
一言をと思っていた静一だが、唯は唇に人差し指を立てて無言を貫いた。
宮司が声を出さずに、静一に禊ぎに入るように促した。
静一は宮司と唯に軽く礼をして、作法に則り禊ぎに入った。礼をし、裸足で滝の真下に立ち、印を組み、呼吸を整えて、天頂に滝の清流を受けて祝詞を唱え始めた。

最初の一瞬だけ冷たいと感じたが、清流が軆󠄁全体を包むように落流し、数行唱えると軆󠄁の芯から熱くなり細胞が賦活し、それは瞬く間に軆󠄁全体に伝わり、清流の刺激が途轍もなく心地良く、また祝詞の言の葉と意味がすべて腑に落ちて、何故か歓喜の裡で唱えている自分自身が不思議なくらい対象化されて・・・今までにない体験で、嗚呼、今僕は生きている、いや生かされている・・・生は、自分だけで生きてはいけない・・・生は、自然に生かされ、人に生かされ・・・そして天に生かされているのだ!と叫びたくなった。
そして、この禊ぎは天地人を一体化する波動を呼び込むものではないかと想った。

最後の言の葉を唱え終えて、お滝場に深く礼をして、宮司と唯の二人を視つめた。
宮司は「う~むう~む」と深く頷き、静一が会得した一つの境地がわかるみたいだった。唯もまた、無言で静一に寄り添い互いの両手を握り絞めて、この上ない笑顔で頷いた。

「私から話すことは何も無い・・・二人とも見事であった」
二人は合わせて「ほんとうにありがとうございました・・・」と改めて礼を言った。宮司は供えたお酒で場を今一度清めて、再度拝礼を済ませた。二人もそれに倣い拝礼を済ませた。

 登山道に登り、一路神社本殿での参拝で終わると思っていた二人だったが、宮司は「直会を御存じかな」と穏やかな微笑みを浮かべた。
「まぁ、早朝のこともあり大した用意はしておらんが・・・一時お付き合いを願おう」「何から何まで誠とにありがとうございますと静一が述べた」禊ぎが無事に終えたことの報告と感謝を本殿で済ませると、又参集殿へと導かれた。三枚の座布がおかれ、黒塗りの漆膳に御神酒と肴と汁椀が用意されていた。
昨夜と同じように三人が座り終えると、宮司が、二人に御神酒を注ぎ、自らのものは唯に頼み、三人はそれぞれ盃を両手を添えて「弥栄!」と発して三度に別けて飲み干した。

頃合いを視て、唯が二巾の白地に未来永劫にという意味が込められた吉祥柄の青海波の柄の風呂敷を宮司に差し出した。「これは、今回の禊ぎのご指導を賜った心ばかりの御礼です。どうぞお納め下さい」と深く礼をし、静一もそれに倣った。
「鳴尾女史には・・・いや正確にいうと割烹料理をされている旦那の方にお世話になっておってなぁ・・・う~む、ではこれはありがたく神社への奉納として頂いておく」

「後、一言申しておくことがある。お二人の夢視体質・霊感体質は、過去生の因果もあり、一様に否定しても詮方ないこと・・・むしろ、それに負けじと、あるいはそれを生かして今のお二人の現在がある。今日の禊ぎは一時的にそれらをリセットしたことになるが・・・絶対ではない
。努力を重ねて、今直面する課題を逃げずに立ち向かえれば、自ずと世界は良い方向へと開いていく・・・しかし、どうにもならぬこともある。その時はまた、此処へ来られて禊ぎを受けられれば良い。儂も、後十年位は大丈夫だと思っておるが、こればかりはわからぬ。もしもの時は、この封書を持参されれば、自由に禊ぎを受けられても構わぬ・・・以上じゃ」二人は顔を見合わして宮司に深々と礼をして「重ね重ねのお計らい、その念の入った想いに只々感謝の一言です。ありがとうございます」と静一が言い、唯は「ほんとうに、思いもかけぬお計らいに感激です、ありがとうございます」と言葉を添えた。宮司は、そのふくよかな微笑みを見せて、再び「弥栄!」と盃を空けた。
                         その二十に続く

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