桜 レクイエム Ⅲ
『・・・まだ伝えておきたいことがあるの?』
『僕が自死する1週間前に兄さんを呼んだこと覚えている?』
『勿論、あの日のことはよく覚えているさ』
『じゃあ、もう一度此処で演じてみない?』
『それは・・・どういうこと・・・演じるって?』
『うん、つまり、僕が兄さん役を演じて、兄さんが僕・・・つまり弟役
を演じるという こと』
天空からの花びらは二人の会話を静かに見守るように一定のリズムで降り注いでいるが音は立たず静寂そのものだ
『じゃあ、舞台は君の馴染みの居酒屋の小上がりで、君は枝豆を肴にハ
イボールを少し 飲んでいて、ジョッキーを視つめている。そこに僕
がやって来る』
『そうだね・・・シーン①だ』弟は右手を僕の左手の上に置いた
兄役の弟:『待たせたね・・・急だったから少し・・・』
弟役の兄:『いや、無理を言ってごめんね』
兄役の弟:『久しぶりだね、正月も会えなかったから』
弟役の兄:『そうだね・・・久しぶりだ』
兄役の弟:『何を飲む?』
弟役の兄:『寒いから熱燗でお願い』
兄役の弟:『わかった』カウンターに向かって『親父さん熱燗一合お願
い』
程なく運ばれた熱燗をお猪口を兄に渡して注ぐ仕草
弟役の兄:『とりあえず、乾杯かな』
兄役の弟:『そうだね、乾杯!』
お猪口とジョッキーを軽く当てて二人飲み干す
弟役の兄:『で、話して・・・』
兄役の弟:『うん、いや・・・暫く会えなかったから、なんか会いたく
て、話がしたくなって・・・』
弟役の兄:『そうか、僕もそうだよ。よく連絡をくれた、ありがとう』
二人顔を見合わせて微笑む
兄の独語:そうだ・・・この時既に弟は決意していたのかもしれない
兄役の弟:『兄さん結婚するんだって・・・』
弟役の兄:『いや・・・まだ確定ではないんだ』
兄役の弟:『でも、するんだろう・・・おめでとう』
間
弟役の兄:『まいったなぁ・・・嗚呼ごめん・・・もうこれ以上は続け
られないよ』
兄役の弟:『どうして?』
『だって、もうわかったよ・・・あの日君は打ち明けようと思っていた
んだね・・・気がつかなかった・・・何か違和感はあったけど、久々
の再会の喜びが大きくて』
『いいんだよ・・・言ったところで何も変わりはしないもの』
『最後に、一番よくわかってくれる人と会いたかった・・・ただそれだ
けなんだ』
『もっと、伝えておきたいことがあるかな?』
『いや、これ以上は言えない・・・もう良いんだ・・・十分だよ』
『ほんとうに?』
『ああ、ほんとうに』
『どんなに忙しくても、疲れていても一日一回は僕のことを想ってくれ
ているもの』
『それは、兄弟の絆として、送り人としては当然のことだよ』
『ありがとう・・・ありがとう・・・そろそろ還らないといけないん
だ』
『そうかい・・・また逢えるかな』
『逢えるよ・・・桜の季節になれば・・・その時だけはまた逢える』
『わかった・・・じゃあ、僕も還ろう』
お願いだから・・・と弟を強く抱きしめたかったが・・・虚身の彼を
抱きしめること は出来なかった。
只、微笑んで、頷いて・・・そしてさくらのはなびらだけが残った
肩を軽く叩かれて覚醒した。雛僧が心配そうに僕を視つめていた
『大丈夫ですか?風邪を引きますよう』
『あぁ、ありがとう疲れて少し眠ってしまったようだ』
『お使い?』
『ええ、まぁそんなところです。ではお気をつけて・・・』
『ありがとう・・・またよろしくお願いいたします』雛僧は寺に向かっ
た。
居住まいを正し夢での弟の対話を反芻し、夜空を見上げた。
望月も桜もこの季節だけの深い染み渡る風情を秘かに私を包み込んでくれていたので、その月と桜に向かって思わず『桜レクイエム・レクイエム・・・レクイエム・・・』と・・・・・・・・・・了
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