贅沢の書に見える「顔」 ~小池陽慈『スマホ片手に文学入門』を読んで
今回も小池陽慈先生から笠間書院『スマホ片手に文学入門』をご恵贈いただきました。
一体全体どういう刊行ペースなんですかね。あの人、大学院にも所属して研究してるんですよ。もちろん本業の予備校講師をする中で。そういう環境にいながら、どんどん本を創り続けている。
それでいて、6月にある場所でお会いしたときに、岩波『思想』5月号の巻頭文として掲載されていた岡真理の「ガザは甦る」という論考がすごかったんですよ~という話を小池先生にしたら、「あれまじですごかったっすよね~」と、もちろんチェックしていて、「この人、雑誌にまで目を通しているだと…!?」と失礼ながら驚愕しました。驚愕のインプット量によって良質なアウトプットが裏付けられているんですね。敵わねぇ。
ということで、『スマホ~』も読ませていただきました。前の記事にも書いた通り、小池先生は出版社を利用して「学参の皮を被った哲学書」を刊行し続ける怪物みたいな方なのですが、今回は少し趣が違って、「究極の贅沢の書」を生み出してしまいました。
「贅沢」の書
本書のテーマは、「小説に登場する言葉、その当時の文化、そして理論を端末などで調べながら、近代文学を解釈していく」というもの。第一章が芥川龍之介「ピアノ」、梶井基次郎「桜の樹の下には」、宮沢賢治「やまなし」の三本の小説を順番に解釈していく、という構成です。
この本の最大の特徴は、多くの紙面を割いて、小説を一本ずつ丁寧に解釈していく、というものです。
いや、そんなの普通じゃない?と思うかもしれませんけど、やっぱり理論入門書って、「文学理論をたくさん紹介する」っていうことの方が主たる目的なので、そこで行われる解釈がものすごく断片的なんですよね。そして「理論を説明するために作品を持ってくる」という構成をとるので、一つ一つの解釈が生きた解釈にならない(廣野由美子『批評理論入門』(中公新書)まで行けば話は別です。あそこまで一つの作品を理論によってしゃぶり尽くす理論書もない)。
そこをいくと、この『スマホ~』は、「解釈のために理論を使う」ということを実践しています。「ピアノ」、「桜の樹の下には」、「やまなし」という、掌編並みの短さであるにも関わらず、内容が難解で語りの構造が複雑な小説を、言葉を調べることで、また語りなどの理論を用いることでその物語像を立ち上がらせていきます。
しかも、題材となる三本の小説(「やまなし」は詩?)の全文も掲載されています。どの作品も4~5ページの短編小説なのですぐに読める。いずれも青空文庫に公開されているので、スマホでも閲覧することは可能ですが、書籍の中に入れ込んでくれているおかげで、作品に触れることと小池先生の解釈を読むことがオールインワンで完結しています。これもまた贅沢。
そう、この書籍を表現する言葉って「贅沢」が最も適切だと思います。小説も読める、理論も学べる、用語の調べ方も学べる、小池先生の解釈も読める、という一冊の中に様々な要素が含まれています。
もう一つの贅沢は、この「速さ」が要求される現代の中、一冊の書籍の中でたった三本の小説をじっくりと紙面を使って解釈され尽くされている、という点です。じっくり解釈されるからこそ、いろいろな要素を含めることができる、とも言えます。「じっくりと一つの作品を吟味する」という「当たり前なこと」が当たり前ではなくなってしまうほど、多忙を極める現代社会の中で、その当たり前のことが書籍の中で実現しているのです。
もう少し、この書籍が持っている「遅さ」という特徴を掘り下げてみましょう。
「遅さ」の書
私の最近のテーマは「遅さ」です。どんどん空間的にも精神的にも時間が加速していく時代の中で、人が書籍を読む時間は削減され、書籍の方も「コスパ」を求められます。つまり、「速く答えにたどり着く本」ですね。
しかし、速さを追求しすぎてしまうと、読者の中に「価値観の層」がなかなか形成されません。価値観は単一的になり、そして価値観同士が分断されていく。本来の世界は、簡潔で簡易な論理で説明できるものではなく、もっと芳醇なカオスを湛えています。つまり、優れた書籍は、一つの答えだけを読者に伝えるものではなく、時には多くの葛藤、矛盾や迷いを抱えながら、その矛盾をも読者に提示することで成立しています(専門書ですら)。拙速な結論にたどり着き、その他の考えを排除することはしません。私が読んできたフェミニズムの書籍にもその態度は多く見られました。社会正義のための思想を解説する人々の中にも、フェミニズムの限界や弱点を自覚せざるを得ない瞬間があり、しかしその葛藤も言語化しています。
この実践のためには「遅さ」が必要です。結論を遅延させる「遅さ」、議論を深める「遅さ」、「強い≒弱い」という等式から解放されるための「遅さ」。
そして、この『スマホ片手に文学入門』には、優れた「遅さ」があります。問いを積み重ね、一つの答えめいたものにたどり着いても、その答えからまた新しい問いに出発していく。時には、自らの読みに懐疑的になり、他の可能性も提示する。決して自分の解釈を「真理」として絶対視しない。
さらには、自らの信条すらも絶対視しないという語りも見られます。
この本は最後バルトの文芸批評に繋がっていきます。これは同じ笠間書院から刊行された『"深読み"の技法』でも主題として取り上げられているものです。小池先生の解釈の根底を支えている理論の一つとして、小池先生の書籍に反復して登場します。つまり、生の「作者」を仮構して、その「作者」を絶対視することで、読みが権威主義になっていくことから脱却していくという実践。それは読みの実践でもあり、あらゆる権威主義から距離を取るために必要な実践でもあります。
しかし、この根底を支える信条からも小池先生は距離を取ろうとします。
このように、テクスト論的な読み方からも距離を置きながら、作者に含まれている「固有性」を捨象することの危険性、そして「固有性」を読み取ることでしか実現し得ない批評の可能性にも言及しています。これも、小池先生の読みを支える重要な実践の一つです。
「作者の顔を見る」ということ
「作者」という文脈から離れてテクスト論的な読みを深めていくと、結局そこに見えてくるのは「作者の顔」だったりするんですね。「顔」というのは「作者の固有性」と言い換えてもいいと思うのですが、でもやっぱり「顔」という表現が一番しっくりきます。
私も、教員になりたての頃、小説を授業で取り扱う際に「作品と作家は別物である」という立場から授業を行っていました。「作者は~」とか「漱石は~」とかいう主語は意識的に使わないようにしていたし、「作者に囚われてしまうと、作品の解釈が閉じてしまう」と思い込んでいました。
もちろん、ある側面ではそれは正しいのですが、一旦作者や作者の同時代的なコンテクストから離れて解釈を進めていったとしても、そこで語られている言葉はどこまで行ってもそれを書いた人の語彙から生まれ出るものであり、それを書いた人の時代的コンテクストから生まれ出ているということは完全に否定できません。『こころ』を「明治天皇の崩御」という時代的コンテクストから離れて解釈できないように、です。だから、最近ではむしろ積極的に「作者は~」という主語を使うようになってきました。(でもそれは「(客観的な作者に到達することは絶対にできないけど、テクストの固有性を十分に読み切りたいから、その代名詞として使わざるを得ない)作者は~」という省略が含まれていますが)。
『スマホ』に収録されている小池先生による「やまなし」の解釈を読み進めていくと、最後に見えてくるのは、教師であり、作家であり、宗教家であった「宮沢賢治の顔」であり、さらには宮沢賢治の作品を通して、作品を解釈すること、吟味することの楽しさ、重要さを語ろうとしている「小池陽慈の顔」なんです。もちろん、それは主観的なものでしかない。客観的なそれぞれの顔ではない、ということは間違いなくそうなんですけど、でもやっぱり「顔」が見えてくる。「顔」が見えてこない作品は、おもしろいかもしれないけど、切実ではないかもしれない。太宰の作品が今もなお読まれるのはこれが理由だと思います。つまり、「太宰の顔」が見えるから。作品から見つめ直されるという感覚、レヴィナス的な「顔」ですね。
これは小池先生にも直接申し上げたのですが、やっぱり「やまなし」の「幻燈」の個所を「教師が生徒に、世界の認識を深化させてほしいと伝えている」と解釈するのは、小池先生も言うように、強引であるという感は否めません。むしろ、この結論が先にあって、その証拠をテクストの中から拾い集めてきたような印象を受けました。
しかし、たとえそうだったとしても、この書籍の筆者には、そう語らなければならない必然性があった。その必然を読み取れることが大切なのだと思います。必然性があるからこそ、「顔」が見えてくる。そして、その「顔」こそが、批評という実践において最も重要なキーワードなのではないか。賞賛するにしても、批判するにしても、「顔」が見えなければ批評はできない。
どうしてこんなに「顔」が見えるのかというと、小池先生が自分の悩みや葛藤や不安をすべて言葉にして曝け出しているからなんですよね。学参でこんなに作家が悩みを吐露している本ってないと思います。ていうか、だめでしょ(笑)
でも、悩んでいない小池先生の書籍は、小池先生の書籍ではない。悩んでいるからこそ、葛藤しているからこそ、小池先生の顔が見えてくる。他の学術参考書とはまったく別なものになる。小池先生が、なんの屈託もなく一冊の書籍を完成させてしまったら、それは何かが終わってしまったときなんでしょう。でも、たぶんそんな瞬間は訪れない。多分小池先生は生涯悩みの渦の中でぐるぐると翻弄されながら、その翻弄の中で藁にも縋る思いでつかんだ言葉をぶちまけながら書物を編んでいくんでしょう。私の中にはそんな確信があります。がんばれ小池先生。
というわけで、なんの文章なんでしょうか、これ。完全に友人の小説を読んだ感想みたいな感じになってますね。
全然客観的な書評じゃないんですけど、弟子として、友人として、小池先生の本を読んできた人間の読書感想文でした。『マンガ』も楽しみ!
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