まだまだまだまだ、わからない。
先日、広島仏教学院のオンライン講座で「法話実演」をさせていただきました。
その日の講座を視聴していたのが何名だったかはわかりませんが、聞くところによると受講登録者は400名~(記憶違いだったらすみません)おられるとのこと。少なくとも、人生で一番たくさんの人の前で「発表」をしたことになると思います。
しかも、尊敬する僧侶の先生方が講評してくださるとのことで、原稿を考えるのにかなり苦労をしました。
浄土真宗本願寺派の法話では、かならず「ご讃題」という話のテーマとなる一文を聖典から引用します。いろいろ悩んだ結果、今回は『正信偈』の一節の現代意訳を引かせていただくことにしました。
【ご讃題】
生きとしいくる ものすべて このみひかりの うちにあり
(原文:一切群生蒙光照)
このご讃題をいただいたうえで、「仏さまのものさしと人間のものさし」という内容の話をさせていただきました。
例え話として用いたのが、私の地元である香川県出身の偉大な画家・猪熊弦一郎氏(1902-1993)のエピソードです。
道端に落ちている鉄くずや空き缶にも「美」を見い出し、どんな苦境においても「絵描き」としての幸せを感じ、生き抜いた猪熊弦一郎。そんな芸術家の価値観は、世俗の価値観ーー効率や有用性を重視するものの見方ーーとは大きく異なっており、その有りようがどこか仏様に通じると感じてご法話で紹介させていただきました。
法話の締めくくりで、私は次のようなことを話しました。
「猪熊弦一郎のように、いかなる状況でも美を見い出すような眼を持つことは、なかなかかなわないかもしれません。しかし、幸いにも私たちは仏法にであうことができました。世俗の価値観で視野が狭くなったとき、ふと仏さまのものさし(価値観)を借りて世の中を見てみる。そうすれば、より豊かに人生を生きられるかもしれません。これからも仏法とともに歩んでいきたいものです」
これに対して、先生方から以下のようなご指摘をいただきました。
「仏さまのものさしをもって、自分がより善く生きられるようになるといったことをおっしゃったが、仏さまは善く生きることのできない私たち凡夫を悲しんでおられるのです」
「私たちには、仏さまのものさしを借りることはできません」
とても大事なことを気づかせていただいたと思いました。そして、やはりこれが浄土真宗だなと……
真宗のみ教えを聴いていると、いったんは人生の問題が解決したような気になるのですが、そうは問屋がおろさないのです。「勘違いするなよ」の突っ込みが入ってハッとする。そしてまた聴き続け、「わかった」と思った頃に突っ込みが入り……この繰り返し。
「もうわかった、これで大丈夫」という境地に至った人は、きっと「大丈夫」とすら思っていないのではないかと思います。嬉しくても悲しくても、楽しくても苦しくても、ただそのまんまを受け止めながら生きている。呼吸するように念仏をし、わたしもあなたもなく生きる。仏さまのものさしを借りるとか、借りないとか、きっと考えていないのだろうと思います。
うーん、まだまだまだまだ、わからない。
このわからなさを味わいながら、今日も生きています。
なむあみだぶつ。