挨拶と “わたし”の昔話-前編-
はじめまして。泉水子と申します。
泉水子という名は、中学生の頃好きだった小説の一つから、主人公の名前を借りて付けました。
適応障害をきっかけに家にいる時間が増え、自分を見つめることが多くなったので、『アウトプットがてらnoteに投稿しよう』と思い初めての記事を書いています。
人生を振り返り、適応障害について考え、FXの学びを整理し、好きなものについて語る。そんなふうに、思考の記録として活用していこうかなと。
仕事や繋がりのきっかけのために誰かに向けて書くのではなく、自分をただ整理する。そんなことをしてみようかと。
(誰かに向けて書かないとは言いつつも、わたしがこ林さんに救われたように、いつか誰かの救いになれたらいいな、なんてことは思ったり。笑)
これから投稿するであろう記事たちは、私のこれまでと現在と想いを書き記したものです。
中学生までの“わたし”
私は1998年のある日、大きな湖のある県で生まれた。
私は年中組から幼稚園に入った。『あめふりりんちゃん』と絵本、音楽が大好きだった。
私は小学生になった。読書が好きで運動が苦手で、でも外遊びが好きな子どもだった。勉強もでき、発表が得意で、クラスに何人かはいる先生に好かれるタイプの児童だったように思う。
私は2年生になり、ピアノを習い始めた。音楽が好きだったことと、幼稚園の頃から通わされてたスイミングを辞めたかったことが理由やった。(後に音楽科高校に通うことになるが、未だにピアノはうまく弾けない。)
私が4年生の時、特別支援学級に通級するクラスメイトへのいじめが起こった。発端は、罪悪感とともに今でも覚えている。それは、私が所属していた生活班で、給食の時間に起こったことやから。
この話はまたいつか整理しよう。
私は6年生になり、地元の子ども吹奏楽団に入団した。実は1年前から両親におねだりしていたが、我が家には【習い事は1つまで】というルールがあったので、「1年後もやりたいなら入団して良いよ」と言われていたのである。
『スウィングガールズ(2004)』に憧れていた私はサックスを希望し、テナーサックス担当になった。先生からは打楽器を薦められていたが、この時「サックスがやりたいです」ときちんと伝えて良かったと未だに思う。
私は中学生になった。部活はもちろん吹奏楽部。楽団も続けていた。楽器経験も吹奏楽の知識もあり(恐らく)生意気だった私は初め部活に馴染めず、先輩からも同級生からも正直あまり好かれていなかった。けれど、大好きだった、顧問である音楽の先生のおかげで世渡りを覚えるようになった。
その甲斐あって先輩や同期とも仲良くなり、先輩が引退してからは学生指揮的な役職に就いた。当時、別の顧問の先生に失望していた私は他の楽器を練習し、自ら部員に教えるようになっていった。この頃から『中学の音楽の先生になって、吹奏楽部の顧問になりたい』と思うようになった。家から通える教育大を調べ、そこに入るために県内の音楽科高校へ入り推薦をもらおうと決意したのもこの頃だ。
部活の友達や後輩と沢山はしゃぎ、ぶつかり、幼馴染みの後輩と登下校を共にし語り遊び喧嘩もして、クラスの男の子に恋をして、授業中に本を読んで、愛犬と永遠の別れを告げて、、、
後悔や反省も沢山あるけれど、なんやかんやでとても楽しく充実した中学校生活を送った私は、計画通り音楽科高校に入学することができた。
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こうやって書いてみると、書きながら当時のこと色々思い出して、わたしっていう人間がどないして形成されたか、どんな風に思考が成長していったんか、そういうのが見えてきておもしろかったなぁ。
今思い出す「当時の自分の哲学論」は、幼いところもあり、凄いと思うところもあり。何しか、昔から考える子どもやってよかった、