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あの日から10年~新緑の宝蔵院にて

新緑が美しい伊豆。
家族でご近所の二人の方のお墓参りに出かけた。
ちょうど10年経っていたことに気づく。

当時大学生だった娘も一緒に
伊豆高原に一泊してアートフェルティバルを楽しんだ後のことだった。

その時に書いたブログ記事を、ここにも残しておきたいと思う。



2014年5月9日 母の日に寄せて
「どうぞ安らかに眠ってください」


嬉しい時があれば、悲しい時もある。
楽しさと、つらさ、 喜びと苦しみ。

人生は、プラスマイナスゼロになるようになっている、っていうことを
いつからか実感しながら生きるようにはなっているのだけれど

あの
本当に楽しかった2日間のあとに

こんなことが待ち受けていたとは。

まだ、信じられない思いでいる。

・・・・・
5月5日、伊豆でも長い揺れを感じ、不穏な朝を迎えた。

雨模様で、気持ちも少し湿りがちな一日。
夕方近くになって、夫が駅まで娘を送って行った。

わたしはちょっとさびしい気持ちを紛らわすために
いただきものの筍で、筍ご飯を作ったり、
甘夏ピールを作ってみようかと、レシピを調べたりしていた。

義母と夫と3人で、
いつものように休日の夕食を終えて
甘夏の皮を茹でていた頃のこと

ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴って出てみると

「大変!お隣の、○○○さんが亡くなったって。」

「え!?」
にわかには信じられず、体ががくがくして、言葉も出ない。

お隣の奥さんである○○○さんは、まだ五十代半ば。
明るく、元気な方で、先日も、お話したばかりだった。

フラダンスを習われていて
その日もステージがあって、幕間に苦しくなって病院に運ばれ、無事手術を終えたものの、その後容体が急変したのだという。

知らせを聞いた皆さんがお隣に集まり、まだ病院から帰ってくるには時間がかかりそうだからと、一時解散をして帰宅してから間もなく

救急車の音がして、近くで停まった。

国道沿いなので、事故か何かだろうかと庭先に出る。

様子を見に行った夫が、蒼ざめて

「□□くんだった。□□くんが、倒れた。」

やはり、夫より年上の、五十代半ばの方で、夫は翌日、いつものように、その方と一緒にゴルフに行く約束になっていた。

夫が、消防署にお勤めのお友達に連絡をとって様子を聞いたが
心肺停止状態で意識もなく、極めて危険な状態だとのこと。

そうこうしている間に
病院から○○○さんが無言のご帰宅をされた。
眠っているようなお顔に呼びかけても返事はなく、目を真っ赤にされたご主人やお子さんたちの姿に、これが現実のことなのだと思い知らされる。

今後の日程などをうかがって帰宅して間もなく

□□さんが亡くなられた、という知らせが入った。

呆然とするばかりだった。

夫もわたしも、椅子に座ったまま、言葉も交わせずにいた。

何がなんだか、わからなかった。

夫が泣いているのを見たのは、何年ぶりのことだっただろう。

キッチンに行くと、甘夏の皮が水につけたまま、そこにあった。
ああ、こんなことをしていたのだった、と思った。

○○○さんのお通夜は、9日に行われた。

ホールには、ハワイアンの音楽が流れ
入口には、新調したばかりだったというブルーの美しいフラダンスの衣装が飾られ、
たくさんの家族との写真の中で、今もそこにいるように、笑顔をふりまいていた。

祭壇もハワイアンのような明るい花々で楽しげに飾られていた。

ご主人もご本人も、地区の顔ともいえる、すてきな方である。
わたしも、結婚以来ずっとお世話になり、いつも頼っていた。
お料理が上手で、旅行も好きで、よくいただきものをした。

ご子息はそれぞれ、学生時代、野球のキャプテンとして活躍されたこともあって、弔問の列は会場に入りきれなかった。

翌日の火葬の斎場も、泣きはらした多くの人たちで会場が埋め尽くされた。

葬儀では、ご子息二人が、ギターを抱えて「蕾」を歌った。

「お母さんは、楽しいことが好きだったから。」

一緒に歌ってくださいと、歌詞の紙が配られて、泣きながら口ずさんだ。

後ろの席から

「○○○ちゃん、幸せだったよね。」

という声が聞こえた。

・・・そんなふうにも思った。

精進落としのお料理をいただいて一度帰宅してから

今度は違う会場へ、□□さんのお通夜に向かった。

工務店を経営されていたうえ、ご本人のお人柄もあって人脈が広く、
また、お子さんも、一番下の息子さんはまだ中学生という3人兄妹だから、
こちらも果てしなく続くかと思うほどのお焼香の列だった。

毎週末には二人で打ちっぱなしにいっていたという夫は、勤務先の環境整備などに関しても、□□さんのお世話になることが多かった。

「いろんな人と、□□くんがつないでくれたんだよな。」
つらくて、やるせなくて、悲しさの中にいる夫に、かける言葉もなかった。

新入社員としての1ヶ月で、さすがに疲れが出て少し体調を崩していた息子も
9日の夜にかけつけて、双方のお悔みに出席することができた。

帰宅してからのリビングに、息子がいてくれることで、悲しみの空気が少しやわらいで、ありがたかった。

明日は我が身という気持ちが、今たぶん、ご近所の多くの人の中にある。

どういう形で来るかわからない最期のことを、少しでも考えておかなければとも思う。

縁起が悪いとか、そういう気持ちではなくて、自分の人生をしっかり見つめるためにも。

また日常が戻ってくれば

日々の慌ただしさの中で、この日の思いも薄れていくのだろう。

でも、そうしたくはなかったから、今日、この記事を綴った。

命がつながっていく、年に一度の母の日に、すべての想いをこめて。

○○○さん、□□さん。本当にありがとうございました。
心よりご冥福をお祈りいたします。


10年経った今も
思い出の中のお二人は、そのままの笑顔で心の中によみがえる

いのちは長くはなかったけれど
とても素晴らしい人生だったことをあらためて感じる

今わたしたち家族にできることを
わたしたちなりに頑張りながら
日々を大切に生きていきたい

・・・・・新緑の宝蔵院にて



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