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小説「武光と懐良(たけみつとかねなが)・敗れざる者」56


十二章 落日


 
一、
 
東征の失敗は九州武士団のコントロール失敗につながっていった。
南朝による皇統統一はかなりに困難である、との認識が九州全域に広がっている。
大友にせよ、島津にせよ、様子見しておとなしくしていた豪族たちは未だ明白な反旗を翻してはいないけれど、きっかけがあれば再び反抗ののろしを上げかねない。
味方となっていた豪族たちも離反していく空気感が醸成されていた。
武政や武安たち若手は実質的に征西府の実権を握り、諸豪族にしきりに征西府への忠誠を呼び掛けていた。すでに領地召し上げ等の強硬策は不可能となっており、下手に出ての合力要請という弱腰な対外政策をとらざるを得ない状況だ。
征西府の行く手には暗雲が垂れ込めており、北朝に対して勝利を掴むことはもうできまい、という観測を菊池一族を含めた内部ですらし始めている。
それを立て直せるものは我ら若手しかない、と武政や武安は思い定めている。
そんな情勢の中、南朝側の後小松天皇は崩御され、寛成親王(ひろなりしんのう)が長慶天皇(ちょうけいてんのう)として即位された。
その長慶天皇は南北朝の争いに対して強硬派であったため、北朝側からの和睦交渉を相手にせず、緊張が高まった。
そんな情勢の中、凋落甚だしい征西府の巻き返しを図るには、と、武光や城隆顕、宗明美は思案を巡らせ、一つの結論にたどり着いていた。
最後の切り札は九州王朝実現の基盤を作り、長慶天皇に遷座頂くことしかない。
長慶天皇の遷座が無理なら牧の宮懐良親王、もしくは良成親王に帝位についていただく。
南朝は吉野と大宰府九州王朝とに分裂するかもしれないが、それがやれない限り、征西府に先行きはない。そのためにはなんとしても明を切り札として味方につけねばならない。
その点に関して武光が宗明美の力を借りて必死の下工作を繰り返していた。
それを武政たちは無視しており、菊池の行く末についても、征西府の運営に関しても、二度と武光や城隆顕に采配は振るわせぬという空気感が出来上がっていた。
そんな空気感を打開できるチャンスを武光はしぶとくも狙っていた。
 
博多の津の桟橋に懐良親王と武光、城隆顕の姿がある。傍に明美がいる。
「ついにここまでこぎつけましたな」
彼らが見守る先で大勢の明国の捕虜が明の軍船に乗船していく。
明の人々は倭寇による海賊行為のため、海上や大陸の村で捕虜にされ、奴隷として連行されてきて売り飛ばされた人々だった。日本の各村で奴隷として家畜同然に使われたり、博多の悪場所で遊女や下女として生きてきた。明側の要求により、征西府の責任において返還がなされることになっての今日だった。明側の軍人たちが船上からその有様を監督し、征西府の海軍衆が睨み付けるように緊張感の中で対峙している。
今では征西府の海軍顧問とでもいうべき存在となった明美が言う。
「七〇人、やっと搔き集めましたよ、これで明への面目もたちましょう」
「ぬしには苦労を掛けた、明美殿、こなたのおかげじゃ」
武光が明美に礼を言うのは、明側の要求に応える為に、宗家の尽力で日本で使われる奴隷たちを各地から集めてくることができたからだった。
ここまでこぎつけられるとは思っていなかった、というのが武光の本音だった。
始まりは赤間ヶ関の海上で関門海峡を通過しようとする不審な大型船を、南朝側海軍の厚東(こうとう)一族の船が拿捕したことからだった。
それは京都に向かう明の使節団であった。
中国では元が滅び、洪武元年一三六八年に明国が建設され、南京を首都とした。
太祖洪武帝(こうぶてい)は即位するや東アジアの周辺諸国に対して特使を派遣し、明国を中心とする朝貢(ちょうぐ)体性を復活させようとした。洪武帝は京の室町幕府に倭寇の取り締まりをつかさどる実力がないとみて、九州征西府をかつての大宰府と同じ権限を有する機関と認め、これと交渉しようとした。洪武帝は大宰府へ楊載(ようさい)という使者を寄こして臣従せよと迫った。懐良をあえて「日本国王」と呼び、朝貢貿易を餌に倭寇取り締まりを要求してきた。だが、倭寇海賊を最大の財源とする征西府は初めこれを拒否、朝貢せよという高飛車な態度に対し、無礼者!と懐良親王はこれを蹴った。
「もし必ず寇を為さば、すなわち将に命じて狙征せんのみ、王それ之を図れ」
とあって、懐良親王を王と呼んだが、あまりにも高圧、として懐良は請けがわなかった。
それで洪武帝は仕方なく京の北朝と連絡しようと図ったのだ。
赤間が関での拿捕(だほ)により、これを知った武光は焦った。武光と城隆顕があきらめきれずに執着する「九州王朝」構想を実現するためには、この機を逃せない。
万に一つの巻き返しの道がこれだ、と思った。
「こちらが拒絶し、かりに北朝と結ばれてはこちらの地の利を生かせませぬ、洋上の制海権を見せつけ、しかして恭順の意を表し、国交を開くのです!」
二人の必死の諫めが功を奏し、ついに懐良は矛を収めた。
東征失敗以来、懐良はただ意固地になっていた。その胸に大きな穴が開き、虚無の風が吹き抜けていたのだろう。若き日の虚無以上の虚無ではなかったか。
この頃の懐良は精神的に不安定だったのかもしれない。
写経や神社仏閣への奉納寄進を繰り返し、兄である後村上天皇の冥福を盛んに祈っている。おそらくことごとく自分の思いが成功すること能わず、征西府の勢いが傾きつつあることの責任が自分にあることを突き付けられ、心神喪失しかけていたのではないか。
今、博多の津のその情景を見やる懐良の表情は思い詰めて暗い。
その表情を見て武光の胸は痛んだ。
だが、懐良を気遣っている余裕はなかった。
武光たちの説得を入れ、親王は処断を思いとどまり一転、使者の趙秩(ちょうちつ)を歓待して送り返し、洪武帝は喜んで征西府に再度使者を送ってきた。
その国書により洪武帝は懐良親王を「日本国王」に奉ずるといって寄こした。
それに対し、懐良親王は「臣」とおのれを規定した親書を返した。
武光たちの指示だった。親王は傀儡(かいらい)のように動かされた。
プライドを捨て、武光の言に従って明の力を利用することに同意したのだ。
今、その誠意の表し方として、急遽日本にさらわれてきていた民国の捕虜をかき集め、返還しようとしていた。武光にすればへとへとな思いであった。
衰退していこうとする征西府を必死に盛り返そうとする努力を、肝心の懐良が分かってくれない。何度投げ出したいと思ったかしれない。近頃は懐良への怒りさえ内側にある。
とはいえ、次第に親王にも九州王朝のイメージが理解できつつはあった。
明を後ろ盾にし、北朝を軍事力、経済力で圧倒してこの国最大の政権とする。
その先に九州王朝があり、皇統統一がある!
明美の海洋商社も親王の東征失敗では大打撃を受け、一旦は商いが傾いた。
しかし、征西府の海軍顧問となったことで再び商機を取り戻しつつあった。
その桟橋の上から明美が異国の言葉で船頭たちに指示を叫ぶ。
「捕虜は奴隷ではない!礼を失した扱いはするな!」
今、大勢の倭寇海賊の被害者たち、民からさらわれてきた七十人の人々が船に乗り込み終わった。これが征西府再建への第一歩だった。
「あとは果報を待つばかりです、明の洪武帝に送る親書で新たな外交の道筋や交易が図れ申す、時です、時さえ味方につけられれば」
武光が浮かない顔の懐良に言った。
「叶いますよ、お二方の思い、きっと神に届きましょう」
明美があえて言い切り、保証した。
武光のかつての九州王朝構想が実現できる道筋が立とうとしていた。
城隆顕は懐良がうつろな表情のまま、うなずくのを見た。
 
宋一族の明美の部屋で、武光と城隆顕、明美が酒を酌み交わしている。
若手たちから浮いてしまっている彼らには、長年の苦労を分かち合ってきた戦友、という意識がある。自分たちのしてきたことが正しかったのか、間違っていたのか、若手たちからの疎まれようでは自信を持つことはできないが、かといって否定はしたくない。
そんな思いを共有していた。
「牧の宮様、…お顔の色がすぐれず、お痩せになって」
武光、明美、城隆顕の三人には親王の無気力が心配だった。
「…東征の失敗がよほど応えておられるのでしょうね」
明美がため息をついた。
この場へも誘いをかけたのだが、親王だけは親衛隊の護衛で太宰府に戻られた。
近頃は引きこもってやえを相手に酒ばかり飲んでいるらしい。
「あの気鬱が決定的なものにならなければよかじゃがのう」
城隆顕が言うが、三人とも同じ心配をしている。
武光も城隆顕も明美と親王のいきさつは知っているが、明美はさばさばとしたもので、数人の愛人がいるらしいが、いまさら親王とどうにかなぞとは思っておらぬらしい。
その明美はむしろ親王を思う武光の心配をしていた。
この荒くれものの純情は一途に懐良一人を思い詰めているようだ。
近頃の武光の心労はかかって一点、牧の宮懐良の気鬱にあった。
その見方は城隆顕も同じで、二人は征西府の存在意義も、菊池一族の向かうところも、武光の想いの中では懐良の存在抜きでは考えられないのだとみていた。
武光は牧の宮懐良を弟以上の存在として胸に抱いているのだと思った。
しかし、そのことについて武光自身が口にすることはない。
である以上、周囲はただ見守る以外になかった。
そして城隆顕のもうひとつの心配は若手の不満の気配だった。
「若い奴らはおいたちの仕事について、批判は一人前ですがのう、しかし」
城隆顕が苦笑して言う。
「批判をすることと実際に腕を振るうこつは違い申す、奴らにうまか運営ができればよかつじゃが、諸豪族どもの己がってな欲と工作にうまい対応ができるか、おいには心配でござるよ、征西府のつまづきにならねばよいが」
「…なに、実地にやらせてみるしかあるまいよ」
という武光はごろりと横になった。すでに三人ともしたたかに飲んでいて、酒が回ったのか、武光はいびきをかき始めている。
ここのところ武光は明美と共に捕虜を集め、明からの使者に対応して条件交渉を続けてきていた。武政たち若手の未熟な采配に、陰から心配をし、自分のコネでカバー工作をするという離れ技まで展開してきていた。疲れているのだろうと、城隆顕と明美は思った。
城隆顕に酌をしながら憂い顔の明美がいう。
「武光様、若手からは浮いておられるようですね、大丈夫でしょうか?」
「武光の棟梁は菊池中興の祖と言われ始めておる、菊池の民人からの支持は絶大ですのじゃ、そのうえ征西府も武光様が作り上げたもの、じゃからこそ次の世代には疎ましい」
城隆顕は武光の業績のすごさに対し、若手がシャカリキに自分たちの世代を主張したがっているとみている。どちらが正しいとは言えない。それぞれのやり方があり、うまくかみ合う方が成功するだろう。
「最悪なのは分裂して敵に付け込まれることでしょうな」
「はい、その敵とは北朝勢でもあり、九州南朝勢でもありましょう」
「そういうこつでしょうな、…要は周囲はみな敵ばかりというこつ、…となれば内部が一致団結するしかなかじゃが、…おいの見るところでは武光の棟梁に遠慮があるばい」
「武光様に遠慮?」
「武政にでござるよ」
「それは?」
「棟梁は武骨もんで、こげな荒くれじゃが、息子はかわいいのでござろうよ、やはりのう、…じゃが、武門の長であり、諸族を率いねばならぬ立場上、甘か顔はできぬ、とはいえ、若いもんの気持ちを無碍にはしとうない」
「まあ」
「棟梁は武政にすべてを譲る気ですのじゃ、今すぐ引っ込んでもよかと思いよんなはるじゃろう、…その一方で」
「え?」
「…武政にやり切れるのか、…そいを棟梁はじっと見ておらるっとです」
城隆顕が武光の苦悩を思いやってため息をついた。
「…」
明美は城隆顕の言葉で、武光の父親としての複雑な本音を知った気がした。
自分も親として息子に何一つしてやれなかったとの思いがある。
武光の寝顔に疲れを見て、胸がつまされた。
城隆顕がさらに言う。
「…以前棟梁が言うておった、…武政は本当は優しい大人しいおのこじゃとな、…本来なら、菊池一族を率いるだの、征西府を運営するなぞという荒ごとの似合う子じゃなか、…そう見ておられるのでござるよ、…じゃが、えにしはむごい、武政は武光様の息子に生まれついた、…家を背負い、一族を背負うていかねばならぬ、…その置かれた立場と重圧とで無理をして別人格になってしもうたと、…そう言うており申した」
「そうですか、…武政さまもお辛いでしょう」
「生きるというこつは生半可じゃござらぬわい、誰であろうとな」
明美は軽いいびきをかいて眠る武光の顔を見つめた。
「武光様は武政殿をつぶさぬために、自分を押さえている、…そういうことなのですね」
「それでうまくいけばよいが…」
と、城隆顕がつぶやいた。
博多の一角に静かな夜が更けていった。
 
今川了俊がこの物語に登場してくるのは一三七〇年、建徳元年九月になってからだ。
京の今川邸は管領細川家の屋敷からほど遠からぬところにある。
足利義詮の位牌に読経をあげる僧形の今川了俊の元に管領細川頼之からの呼び出しがかかった。今川了俊四六歳。法名が了俊で、貞世が本来の名だ。
二代将軍足利義詮の死去に伴い出家して了俊と号した。
細川邸に伺候した今川了俊に対して、細川頼之は九州探題の役を打診した。
「九州へ赴いてくれぬか」
じろりと、了俊は目線を返した。
「…征西府の賊どもを退治せよと申されるのですな」
「危うい噂がある、…征西府が明国と外交の道筋をつけようとしておるらしい」
今川氏は足利氏の同族支流で、三河の国を本拠として勢力を張り、吉良、今川氏の遠祖となった一族だ。了俊の父は五郎範国、遠江の守護として活躍した。
今川貞世、二〇歳のころには「風雅集」に歌が掲載されている。
武技には縁がなく、九州の荒くれたちとは全く肌合いの違うインテリ武士といえた。
鎌倉近郊で暮らし、知行地の遠江とを行き来して育った。
細川家は今川家と同じく三河の国が本貫地で同郷のよしみがある。
細川頼之は足利三代将軍義満の管領として幕政を指導する立場にあった。
現在室町幕府の最高実力者なのだ。その細川頼之がじっと思い詰めている。
「明国が征西府を正式な日本国と認めてしまえば事態は複雑になる、交易の利も征西府を潤すであろう、そうなれば由々しき事態じゃ」
だが、慌てるそぶりもなく、今川了俊は庭の花など眺めて目を細めている。
でありながら、シビアな状況を指摘した。
「征西府退治は相当な難事業、…先の鎮西探題斯波氏経も逃げ帰り、渋川義行は着任さえできず逃げ戻ってまいりました、…とんだお鉢が回ってきたものでござりまする」
細川頼之はううむと眉をしかめた。
本州における南朝軍はほとんど制圧したもの、九州では明と手を取り合って独立国家をさえ名乗ろうとしている南朝軍最後の砦、征西府。そのしぶとさだけが南朝の命綱であり、 それだけに一筋縄ではいかない強敵であることは明白だった。
「これをなんとしても叩き潰せ、放置すれば力をつけ、こちらを圧倒してくるであろう」
との足利幕府の焦りが、今日の今川了俊呼び出しの事態になっている。
「お受けは致しまするが、条件がござりまする」
「条件?」
「資金に糸目はつけてくださいますな、それから招聘する各豪族どもに位階や褒賞、領地のあてがいを行いますが、その一切の権限をわたくしにお任せいただくこと、…いかが?」
おしろいの顔で見やる了俊の冷徹な目に、頼之はたじたじとなった。
今川了俊はこれを絶好の機会、ととらえていた。九州をその手中にする。
細川頼之からの呼び出しと同時に、了俊は脳内に絵図を描いた。
だが、あからさまにそれを見せる男ではない。
「さらに、身共を安芸守護に任じていただきたく」
「安芸の?」
「西国の豪族どもを束ねるのに、その役職が役に立ち申す」
にやりと笑った。
細川頼之はその後政権内部で幹部級の談合を持ち、今川了俊の条件について検討した。
明国と九州征西府の結びつきを恐れ、この征伐に運命を賭けようという足利幕府と北朝天皇はあらゆる財力、あらゆる軍事力を今川了俊に預けることとした。足利幕府にとっても賭けだった。
了俊の狙いは図に当たった。
足利幕府の権力財力を最大限に引き出し、西国の諸族への支配権を確立、その力でもって九州を平定、その地に君臨する構想を練り上げた了俊なのだった。
了俊は九月二日、幕府引付頭人の要職を辞して、ひとまず領国遠江に帰り、九州遠征の準備を整えた。同時に了俊は慎重に九州各地の豪族勢に通知して支援を依頼した。
中国、・四国の豪族らにも支援要請をした。
そしてついに今川了俊、西下の時が来た。
長大な軍勢の列が仕立てられた。
その真ん中、優雅な輿に乗り、大軍勢を従えて西下を始める今川了俊の姿があった。
「散る花をせめて袂に吹きとめよ そをだに風の情と思わむ」
和歌を詠みながら、泥臭い九州へ下ることに辟易している様子をみせた。
「九州か、…遠いのう」
だが、その内心ではほくそ笑んでいた。


《今回の登場人物》

〇菊池武光(豊田の十郎)
菊池武時の息子ながら身分の低い女の子供であったために飛び地をあてがわれて無視されて育つ。しかし父への思慕の思いを胸に秘め、菊池ピンチの時救世主として登場、菊池十五代棟梁として懐良親王を戴き、九州統一、皇統統一という道筋に菊池の未来を切り開こうとする。
 
〇懐良親王(かねながしんのう)
後醍醐帝の末子。南朝巻き返しの最後の希望となって征西将軍とされるも流浪の果てに菊池武光に迎えられ、やっと希望を見出す。武光の支えで九州を統一、やがて東征して皇統を統一するか、九州王朝を開くかの岐路に立たされる。

〇城隆顕(じょうたかあき)
菊池一族の別れで城一族棟梁。抜群の軍略家で有能。最後まで武光に夢をかける。
知的な武将。
 
 〇宗明美(あそうあけみ)
対馬宗一族の別れで海商となり博多の豪商長者となった宗家の跡継ぎ。
奔放な性格で懐良親王と愛し合い、子供を産む。
表向きの海外貿易、裏面の海賊行為で武光に協力する。

〇今川了俊
北朝側から征西府攻略の切り札として派遣されたラスボス、最後の切り札。貴族かぶれの文人でありながら人を操るすべにたけた鎮西探題。
 
〇細川頼之
北朝側管領。
 
 

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