小説「武光と懐良(たけみつとかねなが)敗れざる者」36
第七章 第三勢力の策動
四、
高瀬湊(たかせみなと)の遊郭は猥雑な活気に満ちている。
異人も僧も船頭も武士も、誰もが明日のためには生きておらず、今日の命を生きていた。
今日得られる快楽に全心身を打ち込み、狂態の限りを尽くす。
そんなエネルギーのただなかに、懐良親王がいる。
初陣の興奮がまだ冷めやらず、血がたぎって抑えられない親王だった。
「もっと騒げ、飲め!狂え!」
宿も兼ねた最高級の遊郭の広間で渡り白拍子たちに舞わせ、懐良は従ってきた中院義定や五条頼氏らをしらけさせたままに、遊女たちと狂態を繰り広げ、酒におぼれた。
遊郭の周囲は親衛隊士がかためており、高瀬の湊全域に武尚(たけひさ)の手勢が出て警戒にあたっている。
「宮様、今夜は私を抱いてえ」
「良いとも、お前も抱いてやる、お前もじゃ」
遊女や白拍子(しらびょうし)たちがキャーと嬌声を上げる。
美夜受(みよず)が忘れられない親王だったが、振り切るしかなかった。
「美夜受、私はお前なぞに未練は持たぬ!」
美夜受は武光を想い、それでも武光の元には戻らず、つましい暮らしをしている。
それは美夜受の武光への屈折した操立てと察していた。
虚しかった。武光のしたことも、おのれが立たされた立場もだ。
大盃からがぶがぶと飲んだ。
中院義定(なかのいんよしさだ)と五条頼氏(ごじょうよりうじ)が眉をひそめているが、二人とも親王の痴態を止めることはできない。
いくさのただなかに飛び込んで、生死の境をさまよった親王が抑えの利かない興奮から、常態に戻ってこれないことが分かっているからだ。
今夜は気が済むまでとことん行かせてやるしかない、と思っている。
「さあ、誰からわしと睦み合う?」
懐良は女たちを引き倒し、裸に剝(む)いていく。
その時、突然人影が入ってきた。
「みっともなか、それが宮様の飲み方なの?」
なにっ、と懐良が朦朧(もうろう)たる酔眼を向けた。
「お前は?」
立っていたのは東南アジアの国のどこかの民族衣装を着て髪飾りを付けた異装の女だった。
「おお、そこもとは」
中院義定が声を出すと、明美は明るく愛想のいい笑いを見せた。
「以前お目にかかりましたね、お久しうございます」
博多の海商宗一族の娘、今は十八となった明美だ。
「お前は」
酔った頭で思い出そうと指さす親王に、明美が言う。
「初めてのいくさで死地をくぐられたとさっき聞きしました、でも情けない、その程度のことで正体をなくすほど酒に飲まれて」
「なに!」
懐良がふらつきながら立って行って明美の腕を捕まえようとする。
が、明美は逆に親王の腕を取り、逆を取ってねじ上げてしまう。
「い、痛い」
「何をするか、無礼者!」
頼氏が立っていこうとするが、中院義定が抑えた。
「九州南朝の頂点に立ち、全軍の命を預かろうというお方がこれでは無様に過ぎましょう、お目を覚まさせて差し上げます」
「放せ!」
叫ぶ懐良を引き立てて部屋を出ていく明美を、皆が呆然と見送る。
明美は廊下伝いの離れに取った自分の部屋へ懐良を引きずって行って、戸を開けると中へ突き放した。中院義定と五条頼氏が慌てながらついてきたが、それへ明美がニヤッと笑った。
「親王様を朝までお預かりいたします、周辺の警護をお頼みいたします」
と言って中へ入り、中から戸を閉めた。
中院義定と五条頼氏は顔を見合わせるが、義定は頭を掻いた。
「やむなし、親衛隊の配置を変えよう、わしらは朝まですぐ駆け付けられる位置で待機するがよかろうな」
「はい、ですな」
二人が笑った。
明美の部屋では懐良が正体不明となって延びている。
それへ明美が化粧のために汲み置かれた盥の水をぶっかけた。
「な、なんじゃ!」
ずぶ濡れとなった懐良がさすがに目を覚まして見回した。
懐良の前に明美が立ち、笑っている。
「お前は、…明美というたな」
「あら、覚えてた」
明美が懐良の濡れた水干を脱がせにかかった。
「なにをする」
「お風邪を召しますでしょ」
なすがままに裸に剝かれた親王を見て、明美が顔を近づけ、濡れた髪を搔き揚げてやり、美術品を品定めするように、まじまじと顔を眺めやった。
「色、白か」
懐良は少しだけ醒めた頭で明美を見直し、その屈託のない美しさに気が付いた。
明美がさらに顔を近づけ、唇を合わせた。
しばらく口を吸いあい、懐良は明美からの好意を感じ取り、自分もまた強く惹かれていることを悟った。舌を絡めあっているうちに二人は考える力を失い、求め合った。
二人は奥の間に敷いてあった布団の方へ絡まり合ったまま移動した。
激しい時が過ぎて、力尽き、親王も明美も素裸のまま天井を見上げた。
若い二人の体をしたたる汗は透明に輝いている。
やがて懐良の口から自分でも思わぬ言葉がついて出た。
「…船長者殿、か、…明美、お前にはどう生きようかという迷いはないのか?」
明美が懐良の顔を怪訝に見やった。
「お前たち海のものはいいな、海では自由であろう」
「宮さまも海にお出なさればよい」
懐良は海の者どもの暮らしをイメージしようとしたが、経験不足から何も思い浮かばない。
「…分からない、…どこへ行けば、どんな生き方をすれば私はまっすぐに生きられるのか、…武光のように」
虚ろな瞳でそういう懐良の顔を、明美が見つめた。
翌朝の高瀬湊の桟橋に明美を見送る懐良の姿がある。
背後には中院義定と五条頼氏が控え、親衛隊士たちが遠巻きにさりげなく警護している。
湊では多くの船が荷下ろしや荷積みに忙しく、水夫たちが荒々しく立ち働いている。
明美は船に乗り込む前に懐良を振り返った。
「お別れね、寂しいな」
懐良が問う。
「博多へ帰るのか?」
「はい、父の名代で来て、良い商いができました、菊池の殿様との計画も着々と進んでおりまする、いずれ父と菊池へも訪いいたしましょう」
「武光の計画か」
「あの方なら私らの見たことのない世界を見せてくださるかもしれませぬな」
海賊に理解を示し、手を取り合う南朝菊池武光に夢を感じている明美らしい。
「武光の見せてくれる夢、…その時、わしは思うさま生きていられるであろうか」
「…今は思うさま生きておられぬと?」
覗き込まれて懐良は話を変えようとしてふと見やる。
懐良は船で明美を待つ、明らかに海賊衆と思(おぼ)しい半裸の男どもを見やる。
「…お前は女だてらにあの海賊共が恐ろしゅうはないのか?」
明美は海賊たちを見返り、けらけらと笑う。
「可愛い奴らでございます、海でなければ生きられぬ不器用な男たち、あいつらと海へ出れば、そこは何者にも抑え込まれぬ我らの天地です、宮様、一度海へお出なされませ」
「…海か」
「今すぐ私と共に参られますか、何もかも捨てて、海へ」
「海へ」
かなたの有明海の方を見やる懐良。
「海で生きれば、何もかも忘れて自由に生きられる、…というのか」
明美はじっとその顔を見るが、この宮様にそれはできない、と瞬時に見切っている。
身を翻して飛んで、明美は海賊衆の腕に掴まれ、船の人となった。
もやいが解かれ、船が出港していく。
太陽は間もなくすべてを焼き尽くすほどに燃え上がるだろう。
かなたの大海原の方へ、商船が遠ざかっていく。
親王はじりじりと汗をかきながら、じっとそれを見送って立ち続けている。
船の甲板からは明美が懐良を見つめてくる。
夏の明るい空を背にして明美の姿が影になり、その表情が消えた。
懐良はいつかもこんなことがあった、と思い返していた。
背景に溶け込んで、大事な女性の姿が消えていった。
あれは、母だった、と懐良は久しぶりに母を思い出していた。
自分の思う女はみんな溶けて消えていく、と、そんな気がした。
もう一度、明美と会うことはあるのだろうか、とぼんやり考えていた。
《今回の登場人物》
〇懐良親王(かねながしんのう)
後醍醐帝の末子。南朝巻き返しの最後の希望となって征西将軍とされるも流浪の果てに菊池武光に迎えられ、やっと希望を見出す。武光の支えで九州を統一、やがて東征して皇統を統一するか、九州王朝を開くかの岐路に立たされる。
〇五条頼氏
頼元の息子。
〇中院義定(なかのいんよしさだ)、持房親子
公卿武士、侍従。
〇宗明美(あそうあけみ)
対馬宗一族の別れで海商となり博多の豪商長者となった宗家の跡継ぎ。
奔放な性格で懐良親王と愛し合い、子供を産む。
表向きの海外貿易、裏面の海賊行為で武光に協力する。
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