小説「武光と懐良(たけみつとかねなが)敗れざる者」50
第一〇章 豪雨災害
二、
とてつもない集中豪雨であったという。
菊池川一帯に大きな被害が出ているとの報告は受けていた。
災害被害が気になって、武光と武政、緒方太郎太夫は高瀬の津を見てから船で菊池川を遡上する予定だ。高瀬の津は聞きしに勝る被害を受けていた。
「これは」
武政が驚いて見回した。衝撃を受けている。
武政は物事に動揺しすぎると、武光は見ている。
それだけに武光は武政の力量を測りかねていた。いくさではまずまずの成績を上げているが、全権をゆだねていいのか。いずれは武光の後継としてすべてを取り仕切らせようと思っているからこそ、あらゆる点への目配りや配慮のできる器量を望みたかった。
高瀬の桟橋はすべて流され、船が打ち上げられて川から遠く離れた森にまで運ばれて無残に腹を見せていた。港の商館も水に浸かり、商品を台無しにされ、荷車が家の屋根に乗っていた。被害は大きかったが、高瀬武尚は気力をみなぎらせて復興事業を指揮していた。
「兄者、菊池の被害はここの比ではないらしか、その目でしかと見てやらんば、のう」
「分かった」
高瀬では武尚(たけひさ)の館に泊めてもらって色々聞かされた武光は、問題は菊池だという武尚の言葉に送られて、翌日、武政、太郎太夫と共に船の上の人となっている。
甲板上に寝転んで、傍らには颯天の二代目がいる。太郎が飼い葉をやる芦毛の二代目は初代よりは気持ちが穏やかで優美な体躯をしている。武光自身がむき身の野太刀から鞘に納まった名刀のような落ち着きに変化しているように、馬との向き合い方にもそれなりの変化があるようだ。その武光は菊池川の流域の荒れ果て方に胸が騒いだが、菊池に入り、七城に差し掛かって、さすがにはっと息を呑んだ。
「こいは…!」
山鹿から七城に入ると、菊池川は迫間川と合流する。そしてそこへさらに木野川が流れ込む。それでなくとも湿地に悩まされがちな一帯だったが、今の情景はすさまじい。
「三本の川からの土石流が暴れ回っていきよったですばいた」
太郎が説明したことによれば、川上でも土石流が奔流となって木庭辺りで平坦部に出た途端川は決壊、赤星や深川は氾濫した濁流に押し流され、まともに残された家の方が少なかった。菊の城は少し高台にあって水には呑まれなかったが、水の中に孤立した状態だったという。改造されつつあった深川の湊もずらり並んでいた船着き場が壊され、船の修繕用ドックには土石が流れ込んで最早使い物にならない。修復にはどれだけの時間がかかるか。
川ざらえは可能なのか。問題は山積みとなっているという。
馬渡城までしか船は入れず、船を降りた武光は馬渡城(まわたしじょう)主蛇塚氏に出迎えられた。
「深川まではとても船で行け申さぬ」
「分かった、仕事に戻れ、おいたつはよか、自分で行く」
佐保八幡宮まで流されてしまった深川までは遡行できないので、武光は馬渡城の桟橋で船を捨て、馬の武政、太郎や警備隊を従え、颯天にまたがって隈府(わいふ)の菊池本城に向かった。武光が構想した惣構えは隈府の守山から切明にかけて高台を形成している。総じて構えの中は無事だったが、菊池川沿いの被害は想像を絶した。そして迫間川(はざまがわ)は惣構えの端辺りまでは断崖に防がれて隈府の街は守られた。だが、神来(おとど)や神尾の辺りは氾濫にやられて家々が流されてしまっている。
本城御殿に入って報告を受けた武光は今更ながら被害の大きさに息を呑んだ。
翌日から、太郎に案内させて現状視察に向かった武光と武政は、自分たちの目で被害をいちいち確認しながらつのる衝撃に胸を塞がれる思いだった。
菊池川の上流山間部では谷が深いために川の決壊はないが、その代わりにがけ崩れが起き、多くの城が崩落、部落が土砂に埋まってしまっていた。
「掛幕城(かけまくじょう)の一部、元居城(もとおりじょう)の下部も崩落、麓の集落が呑み込まれて消えてしまい申しての」
情けなく説明する太郎はさらに、下流域、七城にかけての氾濫は広大な地域に及び、それが木野川の流れと合流するあたりでは手の付けられない泥の平原と化したことを告げる。
「菊池川沿いでは馬渡城が、迫間川沿いでは増永城、正光寺城が流されて壊滅状態じゃでのう、城周辺の集落も、ぜーんぶ泥に呑まれてしもうたつばい」
生き残った者は廃材や流木にむしろをかけて雨露をしのぎながら、復興作業に従事していた。名主も小百姓もない、泥にまみれて身分の上下など区別がつかない。
このあたり一帯は火山灰の台地である。無論阿蘇の振りまいたものだ。
農民たちは忌み嫌ってニガ土と呼んだ。干ばつになれば何もかもを焼き尽くし、洪水となればすべてを灰の泥が呑み込んでしまい、固まれば石のようになって耕すことが不可能になる。今はまだ泥が粘りついて廃屋の片づけさえ許してくれない。
突然前方で女の奇声が発せられた。
地行者とは加持祈祷をする女行者だが、その女行者が狂ったように祈り騒いでいる。
呆然となり、暗澹(あんたん)と眺めやるしかない武光だった。
「もはや祈るしかなか、ちゅうこつですばい」
武光たち一行は増永城主西郷氏の役人が年貢の取り立てをする場面に遭遇する。
「黙れ!水の被害にことよせて、納めるべき年貢をごまかすというのはそりゃ通らぬわい!」
「そいは無茶じゃ!このありさまの中で、おいたつは今日食うもんがなかじゃぞ!」
必死の形相で年貢は払えないと抗議する百姓を役人が鞭で打ち据える。
「嘘ばこけ!そういうたところでお前らが米やみそを隠しておるとは承知じゃ、ぬけぬけ言い訳抜かさずと、さっさと納めるべきものを納めんかあ!」
打たれながら百姓は激しい憎悪の目で睨み上げた。
駆け寄りざまその鞭を取り上げ、武光は役人を足蹴にした。
「馬鹿め、力づくで民を抑えきれると思うか!」
「た、武光様!?」
みながはっとなって武光を見やった。
「この期に及んで救済ならいざ知らず、税を取り立てようとはなんごつか!?民あっての領主じゃというこつが分からんか!」
相手が武光と知って役人はひれ伏したが、武光は鞭で役人を打ち据えた。
「親父様、おやめくだされ!」
武政が武光の手を止めた。それを武光は振りほどく。
役人にさらに迫ろうとした武光に武政が必死に立ちはだかった。
「親父様、ここは西郷家の領地でござるけん、菊池家棟梁と言えど、お口出しが過ぎますまいか」
あえて領民たちの前で武光に逆らって見せる武政には対抗意識があるようだ。
「この惨状の中で民を絞り上げるこつは道を外れておる、見逃すわけにはいかぬばいた!」
武光はさらに役人に迫ろうとするが、武政が武光を押しとどめた。
「西郷家には西郷家の家裁があり申す、そこに親父様が手を突っ込みなされては、西郷家の立つ瀬がござらぬ!そもそも、武家が甘い顔をしては領地経営は成り立ちますまい、九州諸族への対応といい、親父様は甘すぎるのでござる!」
武政は理詰めで攻め込み、武光がその瞳に怒りの炎を燃え立たせた。
「武政、わしを批判するのか⁉」
武光が仁王立ちとなって睨み付け、武政はひるんだ。
武政の中に幼いころの父への恐怖心がよみがえった。
子供心に、鬼のように強く、鬼のように恐ろしかった父、武光を恐怖した日々。
立ち尽くして言葉を失った武政を、武光は押しのけた。
「西郷家は領民の命より家の台所が大事か!?申せ!民を苦しめて主家は立ちいけるのか⁉答えんか!」
鞭うたれて泥の中を逃げ回ってはいずりながら、それでも役人は悲鳴のような声で叫んだ。
「年貢はわが西郷家の懐を潤すものではありまっせんけん!」
「なんじゃと!?」
「征西府の戦争資金だすけん!」
えっ、と武光の鞭が止まった。
役人は征西府から各領主に割り当てられた戦費のために、供出しなければならないノルマがあり、何はさておいてもそれだけは収めよと菊池本家から達しがあるのだという。
「貴方様の命令なのでございます!」
役人はうずくまってガタガタと震えたが、勇気のある男だった。
愕然となって武光は立ち尽くした。
言葉を失い、立ち尽くしながら、東征のための資金調達はまさに自分の発令であることを思う武光だった。取り立ては猶予する、と、口をついて出かけたが、武光は思い起こした。
「…予定している東征の準備、怠りなく進めよ」
そう言った親王の熱い眼差しが武光の脳裏によみがえる。
数か月後に迫る東征こそ、親王が人生をかけて成し遂げんとする大命題だ。
それを思うと年貢の猶予を言い出せず、鞭を役人に返した武光だった。
「菊池へお戻りか」
そこへ歩みだしてきたのは一人の尼だった。
武光が見やると、尼僧の姿にたすき掛けで袖をまくり、全身泥まみれになっている。
美夜受(みよず)の尼は正観寺の僧たちと復興作業に出かけてきていた。
背後には手を振る大方元恢(たいほうげんかい)や僧たちが泥まみれでいる。
美夜受が武光を見据えて言う。
「征西府が太宰府に進出して六年、いよいよ盤石を得ましたな、…菊池の民が喜んで支えたから、…じゃが、今はそれどころではない、年貢を猶予するというて下さい」
答えることができず、武光は立ち尽くした。
すると太郎がもろ肌を脱ぎ、おつきの護衛兵に太刀を預け、泥の中へ入っていき、廃材撤去作業に加わった。それを見て、武政も作業に加わっていった。
「た、武政様、およし下され、緒方太郎太夫さまも!」
「ご本家様がそこまでせずとも」
驚く村人たちは恐れ多いと止めに入るが、武政は構わぬといって作業を続ける。
「どいておれ!」
武光が自分も諸肌脱ぎとなり、作業に加わった。
武光のがっしりとした肉体がしなり、作業がはかどりだした。
「お、おらたちも」
村人たちは、がぜん力づけられ、作業に熱を入れた。
役人も鞭を投げ出して作業に加わる。
皆に連帯感が生まれ、廃材が次々に撤去されていく。泥の渦が掻き出され、住まいの跡や家と家をつなぐ道が姿を現し、際限ない復興作業のはかがわずかだけいった。
その夜、作業団の野営地へ、武光たちはそのまま泊まり込んだ。
「棟梁様、こげなところではお体に障りましょう、ともかく本城御殿へ」
本城から来た将士や郎党が武光に城へ戻って休んで下されと頼むが、朝から作業があるから時間が無駄じゃと、武光は復旧作業用の仮小屋に寝転ぶ。
「野営地で寝るのはおいたち武家の日常たい」
そこへ美夜受が盆に乗せた薄いかゆを持ってくる。
「棟梁様、お召し上がりくだはりませ」
武政が受け取って武光と太郎に渡してやる。
三人、がつがつと食い始めた。
そんな武光をじっと美夜受は見つめた。
「征西府は菊池のものが予想もせぬほど大きくなり申したな」
「まだ途中ばい」
「…途中とは?」
「それは…」
「京へ攻め上られますか?…皇統統一を果たし、…そのうえで」
「ともかく途中よ」
武光はさらなる高みを目指し、尼はその危うさを指摘する。
「仏門ではこの世に常住のものはないと申します」
「…すっかり仏者のものいいじゃな」
「九州でいくさ神に歯向かえるものはもうおらぬとか、ですがのう」
既に島津、大友、少弐も歯向かいをやめた、しかし、敵は次から次へと湧いてくる。
それを尼は指摘した。戦いには果てがなく、その間にも人は衰えていく。
「見果てぬ夢は人を飲み込むのではなかでしょうか、貴方も親王様も」
恵良惟澄(えらこれすみ)は既に亡く、武澄(たけすみ)も赤星武貫(あかぼしたけつら)もなく、貴方は一人、大丈夫なのか、と言いたげだ。
「そうかもしれぬが、わしは進むしかなかけん、ただ」
次の世代が育って居る、と武光は武政を見やった。
かつての燃えるような情念で敵を求めた時代は遠く、近頃は征西府に関わる人々の立つ瀬を思う武光だった。そして犠牲にした人々のことを。
「…あまりにも多くを犠牲にした、…生の喜び悲しみを、わしが断ち切った」
武光は美夜受の気持ちを推し量っていた。
「…取り返しのつかぬ境涯に追いやったものもある、…さぞ恨んでおろうがな」
美夜受は武光が自分のことを言っているのだと察した。
「…若すぎたんじゃわい、…おいには大事なものをどう扱えばよいか、分かっておらなんだ、…悔いておる、…どれだけ悔いても今更どうにもならぬ、…おいは」
無理なことをさせたと、自分の身勝手を反省している武光だが、美夜受は笑う。
「甲斐なき繰り言はおやめなさるがよか」
ズバリと切り捨てられて、武光は美夜受の態度にたじたじとなった。
美夜受が踵(きびす)を返してその場を離れ、武光は椀を置いて後を追った。
太郎がそわそわして追いかけていこうとしたが、武政がその袖を引いてとめた。
「野暮たい」
と言われて、太郎はもじもじしたが、我慢して腰を下ろした。
武政は去った武光を、耄碌(もうろく)したな、と思っている。
大保原合戦(おおほばるかっせん)の頃の猛り立った猪武者の面影は、もはや、ない。
武政はかゆを掻きこんだ。
美夜受は泥だらけの工事現場に歩いて行った。
泥をかぶったあしの原が広がる河原にまで美夜受は歩き、武光がついていく。
「親父様の夢は、まだ見ますか?」
「ああ、…もはや見んな」
大保原の戦いで憑き物が落ちたように、父の夢は見なくなっていた。
受けたトラウマが浄化され、傷を癒す為に戦いを求める必要がなくなったのかもしれない。それよりいくさのために死んでいった多くの命が気になり始めた。
自分の身勝手があれだけの人を死に追いやったのではないか、との疑念である。
昔より神社仏閣に通うことが多くなっていた。
美夜受は、あなたはそれでよい、という。
「じゃが、あなたの夢を支えた菊池のものがこの困難に出会う時、あなたは年貢を猶予することもせぬのですか?」
痛いところを突かれ、言葉を呑む武光。
征西府の目指すところは東征であり、皇統統一、そのために準備してきたのだ。
「…今は金が要る、食料もじゃ、兵糧が要る、…ここをこらえて貰わねば」
冷たい怒りの目で武光を睨む美夜受だった。
「あなたの性根が見えましたばい、…結果、あなたのいく道は身勝手なわたくしの道にすぎぬ」
「!」
「僧籍に入って座禅を繰り返すうち、やっと気が付きましたばいな、…あなたが私を親王様に差し出したお気持ち、…菊池の為に親王様のお力を借りたいと、親王様の機嫌を取り結びたかったかと思うた、でも違うた、…あなたは本当に親王様を想うたのばいな」
「…なに?」
「あなたは苦しんでおらしたじゃろう、じゃっど、好きな女を差し出した苦しみではなかった、…好きなお方が私と睦(むつ)み合うことに苦しんだのです」
唖然となって美夜受の尼を見返す武光。
「益体(やくたい)もなかことを申すな」
「あなたが本当に想ったのは私ではなかった、あなたが想うたのは!」
抜刀して脇差しを突き付けた武光。
真に激昂(げきこう)していた。
「親王様に対し、不敬な想いをわしが抱いたというのか!それ以上言えば!」
斬る、とまでは言葉が出なかった。どこかに図星を突かれた動揺があったからだ。
美夜受は一切の怯みを見せず、武光を睨みつけた。
「あなたは私を使い捨てた、自分の想い人の為に、…菊池の人々に夢を見せ、すべてを賭けさせた、多くを死なせた、宮様ただ一人のために!…その犠牲を全部背負うていかねばなりますまい、でなければ、あなたは地獄にも辿りつけぬ」
尼は凄絶な目で睨みながら、武光をからかうように笑った。
「地獄の果てまでいかっしゃれ」
武光は激情に突き上げられながら、なすすべがなかった。
近くに積み上げられた修復資材の影に大方元恢が座っていた。
聞いてしまって、大方元恢はため息をつく。
《今回の登場人物》
〇菊池武光(豊田の十郎)
菊池武時の息子ながら身分の低い女の子供であったために飛び地をあてがわれて無視されて育つ。しかし父への思慕の思いを胸に秘め、菊池ピンチの時救世主として登場、菊池十五代棟梁として懐良親王を戴き、九州統一、皇統統一という道筋に菊池の未来を切り開こうとする。
〇大方元恢(たいほうげんかい)
博多聖福寺の僧だった時幼い武光をかくまい逃がした。
後、武光が聖護寺を菊池一族の菩提寺として建立した時開山として招かれる。
〇美夜受・みよず(後の美夜受の尼)
恵良惟澄の娘で武光の幼い頃からの恋人。懐良親王に見初められ、武光から親王にかしづけと命じられて一身を捧げるが、後に尼となって武光に意見をする。
〇緒方太郎太夫(おがたたろうだゆう)
幼名は太郎。武光の郎党。長じては腹心の部下、親友として生涯を仕える。
〇菊池武政
武光の息子。武光の後を受けて菊池の指導者となる。