関東から九州へ移住して見つけた新しい暮らし③
4月から菊池市の「地域おこし協力隊」として働き始めました。
市役所の観光課に配属になり、仕事は自分で見つけて決め、上司の了解を取って実行するというものでした。
いきなりでは無理だろうというので、当面市の状況を把握し、おいおい絞り込んでいけばいいというのです。
自分としては観光面から現況を見ていきましたが、歴史を見てみるとここには菊池一族の歴史があるのだということが分かってきました。
しかし、パンフを見ても、現地のゆかりの地についても、どうも不得要領です。
地方には大体その地の勃興や盛衰を担った地方豪族の歴史があるものですが、観光としてよそから人を呼び込めるほど際立ったものがあることは稀です。
これが京都名古屋方面であるなら戦国時代の勇将たちが綺羅星のごとく存在していて、観光面にはすでにどの武将も動員されています。
まあ、新しく掘り起こすようなことも見つからないので、地域おこし協力隊の仕事としては成立しにくいでしょうがね。
九州には大友や島津などの勢力があり、戦国時代や幕末における活躍などは知られていますが、熊本と言えば細川氏や熊本城を作った加藤清正くらいのもので、これらの人たちのこともよく知られています。
菊池市に菊池一族の歴史があるとはいえ、それを掘り起こしたところで観光客誘致につながるようなエポックな話題につなげられはしまいという気持ちがありました。
実際、これまでの観光事業に菊池一族が有効に役立っている形跡はなく、市民の皆さんに聞いてみても菊池一族の存在自体が知られていないようで、誰も詳しく答えられる人はいませんでした。
それでまあ、菊池一族のことはおいおいやろうという考えになり、自分としてはまず好きなことから手を付けようと思い立ちました。
それが「アートフェスティバル」の立ち上げでした。
自分はTV,映画の業界で飯を食ってきましたが、そこでは物語りを物語る、という仕事をしてきました。
子供のころ、父親の映画好きにつられて洋画を見まくって、その魅力に取りつかれて、長ずるに従い、自然に映画のストーリーをあれこれ作り出すことに取り付かれていました。
もう一つ取りつかれていたのが絵を描くことで、漫画から油絵まで描きまくっていました。
油絵は先生について個人レッスンを受け、漫画は当時の雑誌に望月三起也先生や石森章太郎先生の漫画教室の連載などがあって、デッサンやアクションの描き方など、夢中になって勉強しました。
自分は人生を絵を描くか、ストーリーを物語るかして築いていきたいと思ったのですが、若い頃はミーハー心が勝って、華やかに見えた映画の世界に進もうとしました。
それで紆余曲折を経てまずTVのシナリオライターになり、やがて映画を監督させてもらえるようになったのでした。トレンディドラマの第一号作品を書かせてもらうめぐりあわせもありました。
いろいろ楽しいお仕事をさせて頂きました。一方で、年を取ったら絵を描いて過ごしたい、静かに自分の絵を完成させることに残りの人生を使いたい、と思っていたのです。
で、TVや映画の世界でやれることはやり切って、もうそろそろいいかとなり、直接のきっかけとして原発爆発によりリタイアを決めたのです。
そんな流れの中から、残りの人生は絵を描いて生きていこう、死んでいこうと思うようになっていたのです。
そんな事情があったので、菊池市に移住したのも田園暮らしの中で静かに絵を描きたい、という目的であったこともあり、地域おこし協力隊の任務として、この菊池市に「菊池アートフェスティバル」を立ち上げたらどうだろうというアイデアにつながったというわけでした。
ところがそんな矢先、アートフェスの準備に入る直前、熊本大地震が発生したのです。
熊本市内の家から菊池に通っており、やっと引っ越しの支度が整って明日は引っ越し、という夜でした。
とてつもない揺れが来て、上さんと二人で家を飛び出しましたが、近所の方々も飛び出してこられて青ざめています。後で聞けば皆さん家が歪み傾き、大変な状態だったそうです。
わたしたちは引っ越し断念か⁉となりましたが、業者さんがトラックを出せるのでどうしますか、と言ってくれ、行っちまおう!と決断、引っ越しを強行しました。
それが幸いしました。
引っ越して菊池新生活のその夜、本震が来たのです。
しかし、菊池市はたまたま被害が少なく、私たちの新居は床の間の梁が一本、かたんと斜めになっただけ、断水もせずなんなくやり過ごせました。
感動したのは本震の最中、私と上さんはキャンカーに避難して新たな揺れに備えていたのですが、お隣の消防団の肩が血相を変えて駆けつけてくれ、玄関を激しくたたき「橋本さん、無事ですか⁉」と、飛び込んでいかんばかりの勢いで心配してくれたことです。
新しい住処の周辺の皆さんの温かい気持ちに初めて触れた瞬間でした。
その後、この地区の住民の皆さんはどの人も暖かく親切で、実に住み心地がいいということが分かってきて感激を強くしました。
反対側のお隣さんからはお世話になりっぱなし、皆さん畑で採れたものを持ってきてくれ、なにくれとなく心配してくれます。
上さんは婦人会の皆さんと年に一度の旅行に行ったり、お友達がたくさんできました。
まあ、それは後のことで、当時は新しい住環境に救われた!と胸が熱くなったものです。
でも、熊本市内の前の家では周辺の道が寸断され、一日ずれていたら引っ越しは不可能、下手をすれば避難所暮らしになっていたところでした。
市内にマンションを借りていた娘は数日は避難所から避難所へさまよい、私たちとは連絡も取れず、安否不明の状態でした。
その娘を助けて一緒にさまよった人たちを招いて近所の温泉に入ってもらい、温かいものをご馳走してあげることができたのはせめてものことでした。
その間、市役所としては被災民の方の救済が任務となり、私たち地域おこし協力隊も自衛隊の方々と一緒に支援物資の受け取り仕分けなどに駆り出されました。
しかし、今から考えると、その全部を私は楽しんだ気がします。
不謹慎でしょうかね。
でも、何か青春時代がよみがえったような気持がしていたんです。
若い頃はずっと自分の人生を掴みたい、やるべき運命の仕事を掴みたい、才能を使いきって死にたい、と思い詰めて無我夢中で生きてました。
結果からすれば他人には目もくれず、己の目的だけに汲々としてゆとりのない生き方でした。
人と生きる喜びを分かち合ったこともなければ、人様のために何かを尽くすというような行動原理は一切なかった。
それが菊池に住んだ途端、周りの人たちの温かさに触れ、またそれに対して自分が応えて尽くすということも経験させてもらえ、新しい人生の価値観に出会えたような気がしたのです。
自分が年寄りであることを忘れ、若い人たちに張り合って、市内の復旧作業に駆り出されたりして懸命に働く。
これまで体験したことのない経験に、新鮮な喜びを感じました。
その体験が、私に菊池愛、みたいなものを授けてくれた気がします。
それまでは見知らぬ異郷、他国、物珍しい暮らしを体験できる、という感覚でいたものが、自分にとって何か大切な場所、まさに自分が生きるべき土地、という実感に代わっていったんですね。
昔、担当させてもらった「スケバン刑事・少女鉄仮面伝説」というドラマに自分が書いたセリフ、「母校愛はある、愛とは愛する意思のこと」というフレーズがよみがえりました。
「郷土愛はある、愛とは愛する意思のこと」とでも直しましょうか。
はっきり私はこの菊池市を愛し始めていました。
さて、震災の余波が収まってきて、私はミッションに戻りました。
「菊池アートフェスティバル」の準備と実行です。
ここから楽しくもしんどい、大勢の方たちとの新たな出会いや関りが始まっていくのです。
それは次回また書きますね。