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夢は辿り着く場所ではなく、広げていくものなのかもしれない

お久しぶりです、出海です。
素敵な記事と本を読んで、彼らの言葉がぐさっと刺さり、どうしても書き残しておきたくなったので、久々にnoteを書くことにしました。誰のためでもなく、自分のために。

ライフエンジンというオンラインコミュニティの活動を通じて、今年の4月から、うさぼうさんの10年講座を受講しています。(正式名称は「これから10年の見晴らしを自分の手で切り開き、 思い通りのライフスタイルを構築するための講座」)
お金と時間の使い方の可視化を通じて、日々の見晴らしを良くすることにより、日々の過ごし方を見直し、理想的な未来へ近づくために行動しよう!という講座です。セミナーやオンラインでの相談を通じて、あれこれ試行錯誤しながら過ごしています。

▼10年講座の紹介ページはこちら

そんな中、うさぼうさんが先月からメルマガ的なnoteを始められたので、早速フォローして更新される記事を読んでいます。うさぼうさんは発信するときに相手の顔が見えると安心するそうで、ブラウザでブックマークしてマガジンをひっそり読むのではなく、noteのアカウントでマガジン自体をフォローしています。

先日、このマガジンで岡野 純さんの「LifeEngine of Chicken 臆病者の夢の叶え方」という本が紹介されました。私が参加しているライフエンジン、来月2019年11月23日で4周年を迎えるそうなのですが、この本は2015年に開かれたライフエンジンのキックオフミーティングで純さんが登壇した際の内容が元になっているそうです。
うさぼうさんの当時の参加レポートも読んでみたりして。私がライフエンジンに入会したのは2019年1月のことなので、知らないことが多くて面白かったです。

うさぼうさんのnoteを読み進めて刺さったのは、次の見出し文と、うさぼうさんの言葉でした。

「一歩踏み出せないのは覚悟がないからなの?」
「また、いろいろ理由はつけつつも、結局本気でやる覚悟がないだけなんじゃないかと自分を責めちゃうこともあるかもしれません。」
「そんな方にこそ僕はこの本を薦めたい。」

見出し文が、まぁ刺さる刺さる。私が今まで何度も考えてきたことだから。私には覚悟がないだけでは?やる気がないだけでは?そんな自分は、なんて駄目なんだろう。自己嫌悪と自己否定のループ。そしてさらに動けなくなる。油断すると私がすぐに陥る、とても身近な思考の負のスパイラルです。

うさぼうさんのnoteでは、先入観と原動力の話について、ご自身の活動経験を通じて考えたことを含めて書かれていました。そして特に惹きつけられたのは次の文章です。

「でもこの本を読みながら、自身の軌跡や今の状態をみてみました。純さんが漫画に描かれているのと同じように、夢が叶っている状態以外のなにものでもない、ように感じられました。」
「純さんの本に、生き方に、勇気をもらった僕から次はあなたに。」

夢がかなっている状態以外のなにものでもない、ってどういうことだろう。

うさぼうさんのnoteで純さんの本の内容はまとめられていますが、まとめや要約は、まとめた人が大事だと思う部分が抽出されたもの。もちろん重要な部分が抜き出されているので概要は理解できますが、全体を通して一つの作品だと思います。文脈や文章の流れは自分で読まないと把握し難く、また省略された部分に何があるかも、やはり自分で読まなければわかりません。

自分でオリジナルが読みたくなったので、純さんのコミックスをKindleで読みました。コミックスなので、とても読みやすかったです。

もちろんコミックスの内容はもちろんですが、今の私に一番刺さったのは、末尾の純さんからのメッセージでした。

「弱点やコンプレックスは無理に克服したり打ち消したりしようとせず、ただ「認める」だけで見える世界がかわることもあります。」
「一番良くないのは、弱点をネガティブに捉えたり、見ないふりをしたまま何も行動を起こさないことです。」
「すべての弱みは捉え方次第で武器にも盾にもなると思っています。」
「大事なのは、それを認めて、その上で「行動」に転化することです。」

うさぼうさんのnoteから純さんの本を続けて読んで、最後の純さんのメッセージの内容が深々と刺さり、私は部屋で一人泣いていました。もう3日前のことです。衝撃すぎて、何がどう自分に刺さったのか、自分の中で響いているのか、上手く把握もできない状態でした。でも、自分にとって大きな気付きがあったことだけはわかった。

少し落ち着いてから、うさぼうさんの紹介noteと純さんのKindleコミックスを往復して読みながら、気づきや考えたことをノートにお気に入りの万年筆で書き留めてみました。そして、最終的にこのnoteに書き残しておくことにしました。(今も締切に追われているけれど、どうしても残したかった。)

このnoteを読んでくださっている方にも、何か気づきがあるのではと思います。良かったら是非、純さんのコミックスやうさぼうさんのnoteを読んでみてください。

そして以下は、私が気づいたり考えたりしたこと。

私は何故、停滞感や無力感に苛まれているのだろう。

私がライフエンジンに加入した2019年1月。大学院の博士課程3年目の冬だった。樹木の幹のとある細胞を研究している。本当にやっとのことで博士論文を提出して、学位審査会にこぎつけた。審査会で先生方にコメントや指摘をいただき、追加の解析を加え、本文を修正し、どうにか最終提出をして、内容を認めてもらい、なんとか、どうにか、学位を取得した。本当に沢山の方に支えられたし、めちゃくちゃ迷惑をお掛けした。

今は、指導していただいた先生にプロジェクトを通じて雇用していただき、大学で博士研究員として働いている。(肩書は、特任助教なんてついている。1年間の期限付きだ。)課題だらけの日々である。まぁそんなものか。

昨年度の後半の半年で、私は今まで根拠なく持っていた自信がなくなった。まぁ、空っぽになった。ようやく現実が見えてきて、自分の実力が正しく見えてきたからだろうか。学位を取得したけれど、自信を持って過ごせず、自己肯定感は途轍もなく低い。新しい研究計画を立てるのも、論文を読んで情報を集めるのも、自分の論文を執筆することも。あらゆることが自分の想像以上に上手く進められず、日々、停滞感や無力感に苛まれていた。(昔も今も、締切に追われているタイプだ)

一方で、今年度の前半は、ライフエンジンの仲間に助言を求めてみたり、実際にサービスの利用を通じて手助けしてもらったり。うさぼうさんに相談してみたり。色々と試行錯誤を始めた。学生という身分で居られる期間は終わってしまった。社会人一年生になってしまったのだ。

ひたすらに自分は未熟だと思っているけれど、それでも、研究一筋にはなりきれない。ゲームやマンガ、ピアノや音楽、カフェ巡り。人と話すのも好き。遊びにも行きたい。やりたいことは尽きないし、研究以外にも、好きなことや、やりたいことが私には沢山ある。(甘っちょろいこと言ってるなって、思われるかもしれない。)

そんな私は、自分の時間を出来る限り研究につぎ込んで、自分の力を磨き、研究を突き詰めていくことに憧れていた。

博士課程に進学して一人暮らしを始めた頃、そうすべきなのだと心から信じて、そうしたいと心から思って、昼も夜も休日も関係なく研究室に入り浸った。そして半年ほど経った頃には、大学に行きたくなくて自宅から出られず、最終的にベッドから動けず3日が経過する、なんて状態に陥ったのだ。好きなことを仕事にしたくて進学したのに。憧れた研究者像は、私を潰すだけだった。

それから、幼稚園で習い始めて大学入学後にお休みしてしまったピアノを再開したり。友人と好きなアーティストさんのライブ遠征へ行ったり旅行をしたり。研究以外にも様々な活動をするようになった。友人と遊んだり、仲良い大学の先生方と飲み会をしたり。研究室の後輩と遊びに行ったり。そんな中、学生生活で最後になるという予定で向かえた年明け早々、学位審査も控えているようなタイミングで、何を思ったか私はライフエンジンに入った。

そしてこの半年間、研究や仕事と関係ないイベントやセミナーにも参加してみたり。ライフエンジニアの出演するライブを見に行ってみたり。好きなピアノを通じて、ライフエンジンで企画された音楽会に参加して新たな人々との交流してみたり。TaskChute Cloudというタスク管理ツールのアプリ開発資金を集めるクラウドファンディングのプロジェクトに関わってみたり。よく考えたら結構色々してきたなと思う。(仕事の方は課題だらけだけども…)

実は、音楽会をきっかけに、11月4日(月祝)にライフエンジニアの友人でシンガーソングライターのhaLunaさんのワンマンライブで、カバーを数曲、ピアノ伴奏させてもらうことにもなったりとか。これまた驚き。

昨日ライブタイトルが最終決定になったので、また改めて告知があるかもですが。haLunaさんの素敵な文章が綴られているnoteも、せっかくなのでここに紹介しておいちゃおう。

周囲との比較、憧れや理想像、そして先入観。

まぁつらつらと書いてきたけれども。私は「研究者に対する先入観」をかなり強く持っていることに気づいて愕然とした、らしい。

『研究者は、自分の専門分野について一番詳しいと自負できる自信があって、研究が好きで、研究に付随する作業も好きで、時間があれば研究のことばかりを考えている。』
こんなイメージが、自分の根底に横たわっていた。文末に「べきである」だなんて助動詞をつけてしまいそうなくらいには、結構強く思っていたのだ。

そうじゃない人だって居るのは知っている。私が知っている大学の先生の中には、楽団に所属してコンサートに出演しているような音楽好きで多才な方もいれば、大ファンなアーティストのライブには必ず遠征に行く先生も、硬式テニスの試合に出ていて毎昼休み練習しているような研究者の方もいる。旅行に行くのが好きな人も、漫画やアニメが大好きな人もいる。そんなの普通だ、皆やりたいことは研究以外にだって勿論ある。

そう、わかってはいたのに。自分はそうはなれないということも実感したのに。先入観とは凄まじい。私の中には、研究者に対するイメージが、先入観が、とても強く根付いていたようなのだ。
そしてこの先入観は、きっと、私が最初に思い込んでいた「研究者の理想像」でもあったのだろう。研究に打ち込むのが研究者だって、もちろんそうあるべきだって、どこかで思っていたんだろう。

純さんの本を通じて、うさぼうさんのnoteを通じて、私はそんな先入観で固められた足場に立っていたことに気づいた。そして、その足場は幻想だった。気づいた途端に足場は脆くも崩れ去って、驚いたのだろうと思う。

周囲にいる研究者と、自分の憧れや理想像と、自分を比較して。そこには凄まじい、到底埋められないのではと思えるようなギャップがあるように、ずっと感じていた。でもその根底には、先入観が横たわっていた。私をずっと包んでいた停滞感や無力感は、他の誰でもない私が作り出していた幻想だったと気づいた。

いつだって、自分が事実をどう認識するかで、世界の見え方は様変わりする。そこに在るものは何も変わっていなかったとしても。

私の夢も叶っているのかもしれない

うさぼうさんのnoteを読んで、一体どういうことだろうと思っていたけれど。夢を人に伝えられるほど明確に描けていないけど。今の私もまた、純さんやうさぼうさんと同じように、夢が叶っている状態にあるのかもしれないなぁ、なんて思ったりした。

だって、好きな樹木の研究をしてお給料をいただいているのだ。課題だらけで理想通りに物事が進められていないとしても。研究に関連した作業で苦手なことや大変なことがあって、苦しんでいたとしても。そして、その上で好きな音楽に触れたり、興味関心があることに触れてみたりする日々を過ごしている。こんな現実は、やっぱりある意味、私の夢が叶っている状態なのかもしれない。

追い求める理想は日々変わっていくだろう。現実が変われば理想も変わる。描こうとしている夢だって、とりまく状況によって変わっていくだろう。
夢って一体なんだろう?

ふと思ったのは、夢って、目標地点のように通過できるような点として定められるような、自分の外側にあるものではなくて、進みたい方向を決めるための手掛かりとなる方角を指し示すような、自分の手元にあるものなのかもしれない。方位磁針とか、案内板のような。

そして、自分が今いる場所こそが、夢の中だったりして。

そうだとしたら、夢はどこかにある辿り着きたい場所ではなく、自分の世界として周りに広げていくものなのかもしれないなぁと。思ったり。

広げていく途中で、周りにいる人々の夢と重なったりしたら、なんだか面白いことになりそうだなとか。どこまで行けちゃうのかな?なんて。想像は膨らむけれど、一旦この辺にしておきましょう。

以上は、自分のための覚書のような、気づきを書き留めたnoteでした。目を通していただき、ありがとうございました。

それでは、今回はこの辺で。
また私の気が向いたときに、お会いできればと思います。



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出海(izumi)
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