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こだわりにこだわりすぎない

発達凸凹ちゃんで「こだわり」がある子は多い。
そして彼らにとって「こだわり」は「安心」だ。
でもその「こだわり」に、こちらがこだわりすぎちゃいけないんじゃないかなっていう話。

長男が小学校低学年の時。
彼は、漢字ドリルを「塗って」いた。
漢字ドリルのグレーのなぞり書きのところを、せっせと鉛筆で。
もはや、国語じゃなくて、図工の授業。
教えてもなかなか直せない。
グレーの部分が全て塗られていないと気持ち悪いのだ。

それから少し成長して、なぞり書きできるようになったけど、今度は筆が入るところを、カクって大きく書くから、そこが一画になって画数増えてる。笑

小学校高学年から中学までこんな感じ

どうやら彼の「きれいな字」は
なんていうか、こういう、
強そうな、ガッチっとした字なんだろうな。(語彙力なくてすみません)

でも、それじゃあ、漢字テスト、バツになっちゃうよー
と何度も話すが、彼はどうしても譲れない。


そして、中学3年生になって、受験を目指した時に、塾の先生が早く書きなさいと促した。

濃く強く書くと、書字に時間がかかる。
時間制限のある試験を考えた時に、それはとてもマイナスになる。

それだけでなく、これは私も講師になって初めてわかったのだけど、学力が高い子は、決して字がきれいではないことが多い。
もちろん本番では、そこそこきれいな字が書けるのだけど、演習中はさささーって書くのだ。
つまり『早く書ける=演習量が上がる=成績が上がる』という、ある意味、あたり前の方程式。

そこで、しばらく長男と早く書く練習が始まった。

まずやってみせた。
同じように書かせてみる。
でも、彼は今まで書いてきた書き方しか知らないから、なかなか直せない。

ぐるぐる丸を書いたり、ギザギザを書いたり、よく幼稚園生がやっているような、運筆の練習もやった。
シャーペンをもっと優しく持ってとか、薄い字で滑らせるようにとか。

でもこれは、早く書くという「技術」の習得である一方で、
本質は、彼の中のこだわりを緩めることだったと思う。

時々、イライラして、癇癪を起こすこともあった。
なんでこのままじゃダメなの?と涙ながらに訴えられたこともあった。

こう書きたい。これがきれい。こうであるべき。
価値観やこだわりを変えるのって、大人でも難しい。

長い目で見て、無理して今、変えなくてもいいではないか、という人もいるだろう。それも一理ある。
最初にも書いたが、発達凸凹ちゃんにとって「 こだわり=安心 」でもある。
私も当時は、とても葛藤した。


でも今、高校2年生になった彼は、早く柔らかい字を書けるようになっている。
もちろん他の子と比べたら、まだまだ濃く強く遅いのだけど。

現在のノート

でも、あの時、いいじゃないか、彼はこの書き方で。と放っておいたら、今があったかなと思うのだ。
こればっかりはわからないよね。
放っておいても、今の字を書いていたかもしれないし、昔の字を書き続けていたかもしれない。

ただ確かなのは、あの時より、今の方が、生きやすそうに見えることだ。


昨今、自己肯定感が叫ばれて「ありのままの自分」を大事にしようという言葉をよく見かける。
私もその言葉大好きだけど「ありのままでいい」とは、「成長しようとしなくてOK」って意味ではないはず。

発達凸凹ちゃんの世界では、本人の努力より、周りの配慮を促すものが非常に多い。
もちろん、配慮もサポートも環境づくりも、とっても大事。とっても必要。
そこに異論はない。

だけど、それができない場所だってある。
誰だって、いつでも自分の思い通りの世界であるわけがないのだから。

だから私は、発達凸凹ちゃんだからこそ、少しずつ、苦手なことにも、慣れていく機会をと思っている。

そんなわけで、私はいじわるだけど、こだわりだと知っても、少しずつ少しずつ負荷をかける。
これは人によっても、その時の調子によっても違うから、本当に微妙で肌感覚。
そして何より、その子との間に信頼関係がないと逆効果なので、時間かかるんだけど。

そして、子供はこちらが思っているより、ずっとずっと力を秘めている。
無理だとこちらが思って接するから、できないだけのことも多い。

今、苦手なことが、今より大丈夫になる日は、きっと来る。
それは明日かもしれないし、10年後かもしれない。

こだわりの多くは、自然と少しずつ緩んでいく。
それを待ちつつ、少しずつ引っ張ってあげて、できることを増やしてあげたい。

少しずつ。少しずつ。

そのほうがきっと、生きやすくなるからね。

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