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阪神淡路大震災から30年

1995年1月17日未明のことを今でも鮮明に思い出します。
当時は震源地から離れた京都伏見のマンションの9階に住んでいましたが、かなり揺れました。鉄筋コンクリートの建物がギシギシと音を立てて軋み、部屋全体がシェイカーになったかのように振り回される感覚がありました。
本棚が倒れ、棚の本が一斉に転がり落ちてきました。
その下で寝ていた私は間一髪で立ち上がったので直撃を避けることができました。
眠ったままだったら大怪我をしていたかもしれませんが、本震が来る少し前にゴオオッという不気味な地鳴りが響いたので目覚めていたのです。
「なんだこの音?」と思っているうちに激しい揺れがきました。

本震がおさまった後に窓の外をみると、送電線の高い鉄塔がキュインキュインという音をたててしなり、送電線がビュンビュンとむちうつように激しく揺れていました。
しばらくは停電をしていましたが、外が明るくなってからようやく通電が回復し、テレビを見て兵庫県のすさまじい状況に言葉を失いました。

鉄道が止まったままなので、車で勤務先の新聞社へ向かいました。
前日に、会社が主催する全国女子駅伝が行われていましたが、複数のチームが地元に帰る手段が見つけられずに苦労していました。まだまだ被害の全貌は明らかになっておらず、「とりあえず行けるところまで行ってみよう」と、いち早く運転再開した京阪電車に三条駅から乗られた西日本のチームもありました。
そうこうするうちに、神戸の新聞社の人たちが、新聞づくりを止めないために、京都の私たちの新聞社へ着のみ着のままやってきて新聞づくりをはじめました。広告を担当する人たちは、神戸からは来られず、東京支社の人たちが京都へやってきました。
わたしは、神戸の新聞社から来た人たちの宿泊先を確保するために京都市内のいくつかのホテルと交渉をしました。

午後になって被害の状況が次第に明らかになってきましたが、死傷者の数が、速報のたびにどんどん増えていくことに戦慄を覚えました
夜のテレビニュースで長田の町に炎が広がる様子が映し出され、なす術の無いやるせなさを感じました。

旧関西学院チャペル(現在の神戸文学館)

今の神戸を見ると、ほんとうに多くの人の努力で復興をしてきたのだと感慨深いものがあります。
ただ、あの瓦礫や炎の中で失われた多くの命、夢や情熱を抱いたまま断ち切られた思いがあったことは決して忘れてはいけないと、今日新たに胸に刻んでいます。

新長田駅前に立つ鉄人28号



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