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読書感想【藤原氏 ―権力中枢の一族】

 倉本一宏さんが藤原氏について論じた本です。
大河ドラマにかこつけて読んでみました。
藤原氏は古代から中世、そして近代に至っても権力を持ち続けた一族です。
1000年にも渡って力を持ち続けた一族の歴史を紐解く内容になっています。

 

・「大化の改新」で名を挙げた「藤原鎌足」


 藤原氏の祖である藤原(中臣)鎌足。
大化の改新で功を挙げ、中大兄皇子と結びつくことによって、権力を手にすることができました。
とは言っても鎌足は入鹿殺害のとき、高見の見物を決めこんで何もしていないのですが。
鎌足が藤原の姓を賜り、藤原氏という天皇家とのミウチ的結合を基本戦略に置いた氏族が、誕生したとされることの意義は大きいと著者は言っています。
そして、後の世の子孫たちが鎌足の功績を利用したことは確かだと。

 鎌足の功績は大きいものがありました。
なぜそこまで中大兄皇子に気に入られたのかよくわかりませんが。
とにかく、鎌足が藤原姓を賜り藤原氏繁栄の歴史が始まりました。

 

・律令国家を作った藤原不比等


 鎌足の次男である不比等。まず、不比等は蘇我氏の女との婚姻で、大臣家としての蘇我氏の尊貴性を自分の氏族に取り入れました。
これによって、藤原氏は蘇我氏の高い地位を受け継ぐ氏であることを支配者層に示すことができたそうです。
藤原氏は誕生したばかりで、鎌足1代で終わる可能性もあったのですが、その危機を乗り越えたことになります。

 また、不比等は娘の宮子と光明子を通じて天皇家と姻戚関係をもち、権臣としての地位を確立した。その地位がまた、藤原氏と天皇家との新たなミウチ関係を生み出し、次の世代の藤原氏官人に高い地位を約束する根拠となったそう。
この頃から、藤原氏は自分の娘たちを天皇家に嫁がせて姻戚関係を結んでいたんですね。
この前の豪族たちも同じことやってましたし、天皇家と姻戚関係を結んで権力を得るというのは伝統ですね。

 そして、持統天皇と不比等やそれぞれの子孫たちが、皇統と輔政を継承することが決定した時点で、律令国家の政権構造は確定した、と著者は言っています。
持統との協力によって作り上げた古代の枠組みは、その後の日本に与えた影響は、きわめて大きなものだった。
「この国のかたち」を作った原初は持統と不比等にあったと言えるそうです。
持統と不比等がタッグを組んで律令国家を作っていったのか。

 不比等は律令国家を完成させ、藤原氏の権力を後の世まで続く基礎を作りました。
その影響は後々の世まで残るものでした。

 

・権力をほしいままにした藤原仲麻呂


 仲麻呂は不比等の孫にあたります。
聖武天皇の死によって、後ろ盾の「光明子-仲麻呂」体制が確立したとされます。
仲麻呂が任じられた大臣に相当する地位は、鎌足や房前が任じられた内臣や内大臣に相応するものと言えるそう。
やがて、橘諸兄が失脚し、権力をほしいままにして独裁化していく仲麻呂。
律令国家の維持ではなく、自分の権力の確立のために恣意的な政治を行なっていきます。

 だが、光明子の死によって、その独裁権力の基板が崩れてしまった。
追い詰められた仲麻呂(恵美押勝)は反乱にうってでます。
しかし、敢えなく仲麻呂は敗死してしまいます。
この結末は、いかに貴族が独裁的な権力を手中に収めても、王権の意思の前には容易に崩れ去るものであることを示してしまった、と著者は言っています。

 この仲麻呂の前例があったから、あの道長といえども天皇家にとって変わろうとは思わなかったのかも知れませんね。
この国ではいかに貴族が強大な権力をもっても天皇家に変わることは許されない、と。


 この後、摂関政治へ道が開かれ、中世になって藤原氏は五摂家やその他の公家に別れていくことになります。
また、各地に武士とも婚姻関係を持ちその血脈を残しています。
現在、藤原氏の子孫とされる家は、五摂家だけでなくかなり膨大な数にのぼるそうです。
かつての影響力がしれますね・・・。

 1000年に渡り権力の中枢に留まり、影響力をもってきた藤原氏。
なぜこんなにも長い間権力を持ち続けたのか、という疑問がでてくるのですが、著者はそれについては触れていません。
自分で考えてみることにします。

 藤原氏、凄い一族です。

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諸葛鳳雛@真・歴史探偵
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