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フッガー家について

「フッガー家」という一族を聞いたことがあるでしょうか。
フッガー家とは、15世紀から16世紀にかけて、ドイツ(当時はバイエルン公国)のアウクスブルクを中心に財を成した一族です。
宗教改革の前後にヨーロッパで最も繁栄した一族だったそうです。
16世紀は「フッガー家の時代」なんて言われるとか。
イタリアのメディチ家と比較されるそうですね。
15世紀末から16世紀になるころにはメディチ家を上回る豪商となったそうです。

 今回は、そんなフッガー家について書いてみました。



 
フッガー家の繁栄 


 フッガー家は、15世紀に現在のイタリア・ヴェネツィア製の香料・木綿・麻織物の交易により財を築き上げ、その財を基にして、現在のスイス連邦・チロル地域の銀山の経営権を独占しました。勢力はハンガリーにまで至り、銅山の経営者を取得し、銀と銅の商いで巨額な富を得ました。

 やがて金融業を始め、神聖ローマ帝国・スペイン王国・イタリアのローマ教皇を筆頭に多大な融資を実行しました。商業的な要素を含んだ高利貸金貸業の始まりと言われています。
金融業で巨額の富を得て、現在のオーストリアのハプスブルク家の財政を支えましたが、17世紀に融資先の神聖ローマ帝国の財政破綻により、債務回収不履行により、フッガー家は衰退しました。

 以降は貴族として存続し、画家のアルブレヒト・デューラーらを招くなど、メディチ家みたいに芸術家のパトロン活動を行ったそうです。

 

富裕者ヤーコプ


 フッガー家の中で特に有名な人物は、「ヤーコプ・フッガー」です。
彼は「富裕者ヤーコプ」と呼ばれ、フッガー家の財産を大きく増やしたことで知られています。

 ヤーコプ・フッガーは、鉱山業や金融業を拡大し、ヨーロッパ全土にわたる商業ネットワークを築き、香料や織物などの貿易を行いました。特に、ヴェネツィアやアントワープなどの重要な商業都市に拠点を持ち、国際的な取引を行いました。
彼は神聖ローマ帝国の皇帝マクシミリアン1世やカール5世に多額の融資を行い、その影響力は非常に大きかったそうです。

贖宥状の利益がすべてフッガー家の手に


 また、フッガー家は、ローマ教皇や高位聖職者に対しても融資を行い、その影響力を利用して贖宥状(免罪符)の販売を促進しました。これにより、教会からも利益を得ました。

 贖宥状の利益はすべてフッガー家のものになったそうです。
以下がそのカラクリです。

 贖宥状の収入のうち、半分はマインツ大司教アルブレヒトの取り分となり、もう半分はマインツ大司教の贖宥状販売を許可した教皇の取り分となる。ただし、アルブレヒトの取り分は、大司教叙任時の上納金のための借金の返済のため、そのままフッガー家へ渡る。
教皇レオ10世の取り分は、これもまたフッガー家への借金返済のため、結局フッガー家へ渡る。これらの金の流れは帳簿上で行われるのであって、実際に金で一杯になった代金箱はフッガー家の者が持っていくのだった。

 こうして、名目は「聖ペテロ大聖堂の建築資金」として発行された贖宥状の売上は最終的にフッガー家の懐におさまった。ただしこの仕組は秘密であり、あとになってフッガー家の帳簿からわかったのであって、当時の人々でこれを知っているのは関係者に限られ、ザクセン選帝侯やあのマルティン・ルターも知らなかったことである、とのことです。

 贖宥状の利益がすべてフッガー家のものになっていたとは知りませんでした・・・。
ルターも驚いたことでしょう。

 

フッガー家没落の原因


 繁栄を謳歌していたフッガー家も没落の時を迎えました。
以下がその主な理由です。
  
・フッガー家はスペイン王室に巨額の貸し付けを行っていましたが、スペイン王室が財政危機に陥り、債務を返済できなくなったことが直接の原因です。

・新大陸から大量の銀がヨーロッパに流入したことで、ヨーロッパの鉱山経営が悪化し、フッガー家の収益が減少しました。

・顧客であるスペイン王室やフランス王室が戦争で貸付金を踏み倒すようになり、フッガー家の財政に大きな打撃を与えました。

 これらの要因が重なり、フッガー家は事業を解散し、以降は貴族として存続することになりました。
要は、王様が借金を踏み倒したことが原因ってことですね、豪商も国家権力には勝てない、と。

 

現在のフッガー家


 ヤーコプの家系は「ユリのフッガー家」と呼ばれます。

 フッガー・バーベンハウゼン家(ヤーコプの甥アントーンの三男の子孫)はアンセルム・マリア・フッガー・フォン・バーベンハウゼンが1803年に帝国諸侯に叙せられ、バーベンハウゼン侯国が成立したが、直後の1806年にバイエルン王国へ併合された。以後は陪臣化しフッガー諸家と共にシュタンデスヘルとして続いた。バーベンハウゼン家の子孫には、第2次大戦時のドイツ空軍少将レオポルド伯などがいます。

 他にフッガー・グレト家(アントーンの次男の子孫)、フッガー・キルヒベルク=ヴァイセンホルン家(アントーンの兄ライモントの子孫)など各家があり、キルヒハイム宮殿はアントーンの息子ハンスの家系の居城として現在も用いられている、そうです。

 「野呂鹿のフッガー家」は、フッガー家の一系統で、1462年に皇帝から「野呂鹿」の紋章を授与されました。この系統は15世紀末と16世紀末の破産で衰退しましたが、子孫は第二次世界大戦終了までシレジアに居住していました。
その後はどうなったかわかりません、たぶんどこかに子孫がいるんでしょう。

 現在のフッガー家は、バーベンハウゼン家、グレト家、キルヒベルク家の3つの家系に分かれており、それぞれがフッガー財団を通じて活動を続けているそうです。
今でもドイツに住んでいるとかで。
アウクスブルクにあるフッガーライという福祉住宅地は、フッガー家の子孫によって運営されており、現在も多くの人々が住んでいるとのこと。この住宅地は、創設時と同じ家賃で提供されており、歴史的な文化財としても観光客を集めているそうです。

終わりに


 かつて、あのメディチ家以上の財を有していたフッガー家。
没落はしたものの、その子孫は現在も残っています。
しかし、なぜメディチ家以上の力をもっていたのに、フッガー家はそんなに有名じゃないんでしょう・・・?
メディチ家は超有名ですが、フッガー家は世界史のテキストにちょろっとでてくるだけですし、参考図書もわずかしかでてません。

 謎、ですね。

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