石見銀山について
「石見銀山」とは、島根県大田市にある銀山で、その歴史的価値と保存状態の良さから、2007年にユネスコの世界遺産に登録されました。
石見銀山の始まりは、1526年に博多の商人・「神谷寿禎(かみや じゅてい)」によって発見されたことです。
寿禎は銀の鉱脈を見つけ、その後、銀の採掘が始まりました。
戦国時代には、石見銀山は日本最大の銀山として栄え、特に大内氏や毛利氏の支配下で大いに発展したそうです。
戦国時代から江戸時代にかけて日本最大の銀山として栄えました。
16世紀の末には世界の3分の1(!)の銀が産出されていたといいます。
石見銀山は年間で約20トンから30トンの銀が生産され、現在のお金に直すと約125億円相当(!)もの価値になるという話です、すごすぎる・・・。
かつての日本は相当な銀がでていてスペインの地図にも石見の名前が載っているほどだったそうです。
スペイン、ポルトガルも偶然ではなく、その銀に吸い寄せられて日本にやってきたそう。
かつての日本は資源大国でした。
今もどこかの山から金とか銀とかでてこないのかな。
この大量の銀は、日本国内だけでなく、中国やヨーロッパとの貿易にも大きな影響を与えました。
石見銀山の銀は高品質であり、国際的にも高く評価されていたそうです。
「灰吹法」とか、「水銀アマルガム法」という銀の抽出法を使って、高品質の銀を生産していたようです。
江戸時代になると石見銀山は江戸幕府の財政を支えました。
銀山奉行に任じられ石見銀山を管理したのが「大久保長安」という人物です。
長安は元々甲斐の国出身で武田家に使えており、村を治める仕事をしていたそう。
その後、家康の配下になり、その働きが認められ大久保忠隣から大久保の名をもらいました。
石見銀山を管理してかなりの銀を産出し、「天下の総代官」と呼ばれるようになりました。家康は長安の経理の才能を高く評価していたようです。
が、大久保長安は死後不正蓄財を疑われ、7人の息子全員が切腹させられたうえ、長安も遺体を墓から出して磔にされるという、悲しい顛末を迎えます。
また、石川数正の息子康長の娘が、大久保長安の嫡男・大久保藤十郎の正室であったことから、事件に連座して改易され失脚しているそう。
この事件の真相はわかっていません。
本当に不正蓄財していて家康に嫌われたか、家康が岩見銀山の管理を誰かの手に任せたくなかったのか。
あれだけの貢献をしたのに大久保一族は家系断絶ということになってしまいました・・・。
金持ちになっても威張ったらアカンってことですかね。
余談ですが、調べたところ、長安には女子が2人いて、服部半蔵の息子正重と剣豪三井吉正に嫁いだそうです。
この女子2名は処罰の対象とならず、それぞれの夫との間に男子をもうけたので、長安の血脈は外孫の家系に伝わり残りました。
特に服部正重の家系は桑名藩に仕え、幕末まで続いています。
しかし、18世紀後半になると、鉱脈の枯渇や技術の限界により、銀の生産量は減少し始めました。明治時代には、近代的な採掘技術が導入されましたが、経済的な理由から1923年に閉山されました。
大正のころまで、銀が生産されていたんですね。
こうして、石見銀山は現在世界遺産となり観光地となっています。
かつて、日本最大の銀を産出し、日本の経済に多大な影響を与えた石見銀山。
みなさんも一度訪れてみてはいかがでしょうか。