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青い石(後編)

「いらっしゃい」

アポロは我に返った。

自分は今知らない町の店にいて、棚に飾られた鉱石に見とれていたのだ。
改めて棚の中の青い石を見直すと、それは最初見た時と同じに、飾り台につんと置かれているだけだった。

声の方を振り返ると、すぐ後ろにカウンターで仕切られた厨房があって、その奥に、大きな頭と体にはちきれんばかりの黒いベストを着込んで紐ネクタイを付けた、焦げ茶色のヒグマが立っていた。
「ウチはカッフェーだ 何か注文してくれ」  

アポロは口を開けて、風変わりな店主を見ていた

「石を見たり買ったりするのはその後だ」
地響きのように低く重い声だった。

幻惑から覚め、我に返ってから目に写った光景がまた現実離れしていたので、タケルはうんざりした。
どだい、あの汽車を降りてしまった時に、常識的な一切合切をまるごと置いてきたに違いないのだ。これから先は何があっても不思議はない。
そんな気持ちになった。

「こ、紅茶を…」
振り絞るような声で注文を伝えた

「栗は好きかね」
店主は静かに言った

何を言っているのだ。自分は紅茶を注文したのだ。
しかしだからと言って、ベストを着た熊の店主の言葉に抗える訳などない
アポロはかろうじてうなずいた。

店主は黙って後ろを振り返り、瓦斯コンロに火をつけた
アポロは仕方なく、大きな水槽の横の赤いビロードのソファに腰を下ろした。
目の前に大きな蓄音機のラッパが突き出し、その上に木が生え、枝にフクロウが留まってしきりに首を回していた。
怪しい雰囲気だったが、しかし不思議と気持ちに馴染む場所でもあった。
漂う空気は何処か懐かしく、子供の頃好きだった、田舎の祖父の埃っぽい書斎の匂いに良く似ていた。
アポロはしばし、その記憶を探っていた。

傍らの水槽には蛇のような魚が何疋も泳いでいて、大きな流木の周りを舞っていた…が、ふいに床板が軋む大きな音がすると、魚達はバネのように弾けて流木の陰に隠れた
狭い通路いっぱいの巨体を揺らして、店主がティーカップとポットを運んできた。
縁に金彩を施したきらびやかなチャイナセットがモグラ程もある指先につまみ上げられ、丁寧にテーブル台に並べられる様を、アポロは見つめていた。
そして食器を置いた後も店主はそこを動かず、座席の脇に立って、ラムプよりも高い位置にある両の目から少年を見下ろしていた。

仕方なくアポロはポットを持ち上げて、カップに紅茶を注いだ。
カップの中の赤い波紋から香ばしい焼き栗の香リが漂ってきた。
このクマが森で集めて来た栗を紅茶に漬け込んだのだろうか。
不思議に思って、タケルはクマの店主の顔を見上げた

「さっきあんたのことを見つめていた石はマリンフルオライトだ」
大きな岩が崖を転がり落ちる音のような声だ。

「石たちは皆自分から持ち主を探すから気をつけなくてはいけない
一方的につかまれば、虜にされてしまうからな

石は自分と相性の良い相手を見つけると、その心に取り入って、自分の存在をアッピールしてくる
もちろんそれは至極まっとうな石との出会い方ではある
だけれども…  よく覚えておくんだ
石に買われてはいけない
あんたは石がどんなやつかをしっかりと見極めて、選ぶ必要がある
正しく選べば、正しく石と友達になれる
あんた達はその辺の法則を知らないから、簡単にモノに所有されてしまうんだ」

「選ぶ…」
アポロは独りごとのようにつぶやいた。

「そう 最初が肝心なんだ
石に呼ばれたら、先ず挨拶をして、少し話をする

連中はウソをつかないから少し話をすれば、一体どんな腹の色をした奴なのかおおよその見当がつくというものだ」

「友達に…なれるんですか」

「もちろんだ
正しく関係を作れば、良い友達になれる
そのヘンは人と同じだ
後は互いに敬意を持って付き合えば良い」

「友達作るの あまり上手くないから…」

「それならいずれこじれるかもしれない
やっぱり人と同じだ
石は嫌みを言わないから、そうそう喧嘩にはならないが、それでも飽きられてしまえば放って置かれるだけだ
もしも、そんな具合になって来たのなら、きちんと手放してやった方が親切だ
石の方から出ていくのは大変なんだ
部屋でホコリを被り始めたら、あんたの方から手放してやってくれ」

「いつか…飽きるんですか?」

「そりゃあ、そういうことだってあるだろう
人と同じだ
出会いはとても新鮮なんだよ
初対面では、少し気が合っただけで無二の親友に出会えたような気分にもなるだろう
最初、とても楽しいのは互いの気を交換しているからだ
自分の体に合った新しい気が外から入ってくるのはとても嬉しいものだし、こちらの気を与えるのもそうだ
しかし、どんなに気が合う友達とでも、長く付き合うには適度な間が必要だ
絶え間なく近くにいれば、いずれは嫌になってしまうだろう
長い時間を共にすると、もらえるだけもらってしまうから、もう自分の体に相手の気がすっかり混ざってしまう
気の交換が終わってしまうわけだ
後は自分の中に持っているものが外から入ってくるだけだ
こうなると、もう堪らない
顔を見るのも嫌になるだろう
だから付き合いは程々にした方が良いし、もしも仲がこじれたら別れも必要だ
石の場合はこじれる前に人の方が飽きてほっぽり出してしまうことが多い
しかし、これはあまり良いことではない
石は部屋に置いておくだけでもエネルギーを発しているから、それがもう心地よくなければ手放すべきなんだ
そうして、出来れば他の人間の手に渡るように手放してやるのが一番だ
一度採掘された石は簡単には土に戻れない
もしも石を持ちたいのなら、あんたは気のやり取りのことを覚えておいて欲しい
関係性というものは、総てそれだ
人に入れてもらったお茶は美味しいだろう
そのポットには、私の気が入っているんだ」

喋り終わると、店主はトレンチを脇に抱えて通路を戻っていった

少し考えてから、アポロはまたショーケースに向かった
青い石は先程よりも一層親しげに見えた。
眺めているうちに、やがてまた闇が二人を取り巻き始めた

実はその後のことを、彼はあまり覚えていない。
きっと紅茶と石の代金を払って、青い石を手に入れたのであろう。
それからあの店を出て、あの駅から汽車に乗って家に帰ったのだろう。
実際、翌朝家のベッドで目を覚ました時、アポロは昨晩の出来事が全くの夢そのものであると信じて疑わなかったのだ。
机の上に無造作に投げられた鹿革の鞄とその脇に転がったマリンフルオライトを見つけるまでは。

そして思った通り、その日その場所にあの駅はなく、汽車はいつも通り2つ目で仕事場のあるG駅に着いてしまった。
もとより、いつでも行ける場所ではないような気がしていたから〜ほんの一欠片の期待を抱いてはいたものの〜アポロはべつだん驚くこともせず、その日はまっすぐ仕事場に向かったのだった。
栗の甘い芳香の記憶だけが、確かな輪郭を持って、鼻腔の奥にとどまっていた。


草むらを探すうちに日はすっかり落ちてしまった。
紅い夕焼け空は家々の屋根に切り取られた地平線近くまで押しつぶされて、そのすぐ上にはもう群青の星空がのしかかってきていた。
「こんなに暗くては、もう場所を探すことが出来ない  明日にするのがいいだろうか」
そうつぶやくアポロに、石が応えた。
「置き場所なんて何処でもいいんだよ 全ての出来事は天体の運動と共に運ばれるんだ」
アポロは青い石を見た。
(本当にそうかも知れない)
素直にそう思えた。

そして、こういうきざな台詞をもう聞けなくなるのかと思うと、少し寂しくもなった。
もしかしたら、彼とはもう少しやっていけるんじゃないか。
何処からかそんな気持ちもこみ上げてきた。
が、思い直したようにアポロはぎゅっと目をつぶって青い石をおでこにあて、声に出さずに何かをつぶやいた後、大きく振りかぶってから、空き地の暗闇を貫くように力いっぱいそれを放り投げたのだった。

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