エイプリルと黒い穴
昨日屋根裏に巣くっていたネグロジリスが 一匹残らずこの家を去った。
連中は災害を予知する。
この家も、もう間もなくと言うことか。
老いた父の横たわるベッドの脇の分厚い窓硝子には昼間だというのに真っ黒な闇がへばりついている。
十ヶ月前、西の空に現れた小さな黒い雲は幾日もそこを動かないばかりか、少しづつ膨らみ始め、やがて空間にふわりと空いた巨大な穴となった。
穴の広がりは大地に及び、先月には隣町をすっかり呑み込んでこの村の縁にまで達した。
人々は慌ただしく村を去り、付近には穴の中から現れ、辺りを徘徊するヒトカゲと呼ばれる得体の知れない黒い人型の影が時折見られるばかりとなった。
「スープができたよ」
「……」
「随分と静かになったね」
「……」
「ほとんどの村人は移っていったよ 残っている人は余程の事情がある人か生き残ろうとする気のない人だけだ」
「お前はどっちなんだ」
「僕は動けない父さんの世話をしているんじゃないか いないと困るだろう」
「今さら何処へ逃げようとも余命わずかなこの身だ 親しんだこの地で最期を迎えたい しかし お前は違う」
「それならその最期の日までは父さんも食事を取らなきゃ」
「その日が来れば お前はここを発つのかい?」
「人の心配よりも自分の身体のことを考えて 父さんが動けるようになれば二人でここを出ることだって出来るじゃない 僕は缶詰めを調達してくるよ」
路地に出て振り返ると、西側の視界の大部分を墨色の闇が覆ってしまう。
それはまるで真昼の時間の真ん中を裂いて夜の空間が現れたような、何とも不気味な光景だった。
斜向かいには赤い煉瓦造りの家屋が建っている。
二階の角部屋の格子窓には、もう何日も前から白いレースのカーテンが引かれたままになっていた。
僕にはその様子が、闇の光景なんかよりもよほど非現実的で不可思議な出来事のように感じられた。
(アステラ…)
中央広場の噴水はとうの昔に乾いて鳩の糞にまみれていたけれども、背中の丸まった独り者の老人の姿だけは、そこに造り付けられた彫像のように、賑やかだったあの頃と変わらず池の縁に腰掛けていた。
広場の向こうの通りの奥には、犬に吠えられ慌てふためく見知らぬ男の姿が見えた。
「こんにちは ヘンザ あの男は?」
「ヒトカゲだろう さっき広場を横切るのを見たよ」
「奴らは一体何者なんだろうね」
「さあな シャーマン(霊媒師)達はあの闇が冥界に通じていると言うよ」
「じゃあヒトカゲは幽霊なの?」
「さあな」
「違うよ あれはそんなんじゃない あいつらからはもっと邪悪なものを感じるよ きっとニヒリストだ 腹が空いて犬を食おうとしたんだ そうに決まってる」
「なあエイプリルよ 早くここを去ることだ それとも病んだ親父の伴をして 穴の中にまで行くつもりか」
「…よく分からないんだ でもどうせ人間はいずれ冥界に逝くんでしょう?」
「お前はまだ若いじゃないか」
「若いとどうなのさ 皆あの世のことを忌み嫌うけど こちら側にはあの闇の奥を知っている人なんていないじゃない」
「…」
広場を後に通りに出ると、その両脇に廃墟となった商店が立ち並び、店先には腐敗した食物に埋もれるようにして、魚の缶詰やら酒瓶やらが転がっている。
僕はその幾つかを拾い集めて鞄に入れ、そこを後にした。
僕は死にたいんだろうか?
死ぬ理由なんて何もナイけど、生きなきゃいけない理由が同じくらいナイ。
ただあの雲があらわれるまで、僕はこれ程晴れ晴れとした気分で毎日を過ごしたことはなかったように思う。
もしもあの時アステラが僕を選んでいてくれたなら、僕の気持ちは今とは違っていたろうか。
いつしか僕は村境いの、あの巨大な暗黒の穴が迫り来るその際に立っていた。
手を伸ばせば届きそうな程近づいても、僕は眼前に拡がるその闇穴の奥に何物を見出すことも出来なかった。
ここに入ると人はどうなってしまうのだろう?
ヒトカゲになるのかな。
それとも消えてなくなるのかな。
見つめていた闇穴の中から、唐突に、一体のヒトカゲが飛び出してきた。
僕は反射的に声をかけた。
「ねえ! 君!」
こちらを不思議そうに見つめる漆黒の顔面がほんの少しだけ口を開いた。 「あ゛」
「ねえ!」
慌てて穴に逃げ込んだヒトカゲを追うように、僕は思わず右手をその闇の中に差し入れた。
こちらよりも少しだけ冷たい空気を感じ、それをゆっくり引き抜いてみたが、闇の中に入った手首から先はこちら側に戻ってはこなかった。
失われた手首のヴィジョンと残像のように残された右手の実感がなぞなぞのように絡まり、僕の頭脳は渦巻いた。
眼前には巨大な暗闇がそそり立って、僕を見下ろしていた。