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青い石(前編)

夕暮れ時の空き地の草むらは北風に煽られて沖の海原のようになびいていた。
昼の間、ここは近所の子供たちの格好の遊び場になるのだが、こんな時分になるともうその姿はなく、駅舎から北側の住宅地へ向かう近路にと、時折横切る勤め人の影があるばかりだった。
アポロも幼い頃はよくここで遊んだものだ。
草むらの中程に立って、アポロはコートのポケットから美しい青色に透ける鉱石の結晶を取り出した。

「これでお別れになるよ」
手にした石を見つめながら、アポロは優しく話しかけた。
「大丈夫だよ」 
「君のように美しい石はこの辺りの何処にだって落ちていやしないから、きっとどこかの子が見つけて拾い上げるに決まっている」
つぶやくように話しかける声は、遠くをゆく汽車の音に混じって風に流れた。
「通りがかった子がもしも君の好かない風だったときは、そっと草の陰に隠れるんだよ
それで僕は君をこんな草むらの中の、一等良い所に隠すんだからね」

そう語りながらも、アポロはこの青い友達を寒空の下に置き去りにする決心が中々つかないでいた。
それに実際、良い所なんて何処にも見当たらなかった。
草深い場所は永久に誰の目にも止まらなそうに思えたし、踏み固められた剥き出しの地面では気の荒い子供が簡単に見つけてしまいそうだった。
少年は日の暮れかかった空き地で目を凝らして、そのどちらでもない場所を探した。

探しながら、青い石と過ごした様々な風景を思い返していた。
石は去年のある日、不思議な場所で唐突に手に入れたものだ。


それはいつも通りの日だった。
いつも通り製本屋の手伝いの仕事を終わらせると、アポロは古い木造建ての社屋を出て空を見上げた。
群青の空のまん中で、いつになく大きな満月が笑っているのを見て、アポロは一瞬くらくらした。

後はいつものように汽車に乗って、いつものように2つ目のK駅で降りた…と思ったが、そこはアポロの住まいがあるK駅ではなかった。
確かに2つ目で降りたという確信と、見たこともない木造のプラットフォームの光景に挟まれ、あっけに取られるアポロの背中で、湿った蒸気の音と共に汽車の扉が閉じた。
次の汽車が来るまで1時間あり、アポロは駅を出るしかなかった。

小さな改札を抜けると、異国の街角を思わせるような赤い煉瓦塀が行く手を塞いだ。

塀に沿って左を向くと、そこは少し先の公衆便所につながる袋小路になっていて、右を向くと左右二枚の煉瓦塀が向かい合わせに奥まで続き、そのまん中を細いまつくろなタアルの道が伸びていた。
ヒト気はなく、脇に並んだのっぽの水銀灯たちが何か探し物でもするような具合に首を曲げ、足下にオレンヂの光線を落としていた。

ぜんたい、こんな異国じみた場所がいつから隣町にあったのだろうか?
アポロは少しだけ重力が歪んでいるような感覚を覚えつつ、頼りない足取りで見知らぬ街路を歩き出した。
狭い煉瓦塀の一本道は、寂れた商店の並ぶ街路に斜めに刺さって終わっていた。
見たこともない夜の町を前にして、アポロはしばし佇んだ。
それは欧州の古都に見られるような町角で、大変に美しくはあったが、不思議なことに全くひと気がなかった。
幅のある石畳の道路を挟んで、両側に一段高い歩道が伸び、それに沿って様々な装いの商店がそれぞれ大きな硝子窓を連ねていた。
どの建屋も柱や壁にロマネスク風の複雑な彫刻を施し、鉄製の格子や看板は大変に美術的な作りで、一軒一軒がまるで歴史ある教会のように見えた。
所が、まだ夕刻過ぎだというのに街路は閑散としていて、商店の幾つかには鉄格子が降り、幾つかは妖し気な色の光を漏らしてはいたが、皆寝室のように電燈を落としていた。
傍らの店の硝子窓の奥には、剥製やら骨董やら怪しげな品が常夜灯の明かりにぼんやりと照らし出されていた。

自分は一体何処に来てしまったんだろう?
アポロは外灯や家屋から漏れる黄色い明かりに少し酔いながらも、かろうじて幻惑を免れた意識の端で考えた。
ここが隣町でないことは、もうはっきりと分かっていた。
何かの間違いで、どこかにの時空に迷い込んでしまったと考えるのが、一番当たり前に思えた。
歩きながら彼は正気を失わぬよう気を付けていたが、通りには気の滅入る黄色い明かりばかりが続くので、アポロはたまらず狭い横丁に入った。
細い路地の両脇にも幾つかの店があったが、やはり何処も暗く閉ざされていた。
…が、路地の奥に一件だけ柔らかな電灯を灯す入口があった。

入口の上の赤い幌屋根には透過光で不思議な絵柄が映し出されていた。
逃げ込むように中に入ると、いきなり細く急な階段が伸びていて、登りきった所にまた入口があって、さらにそこから直角に薄暗い別の階段が伸びていた。
真っ黒の壁に挟まれた薄闇の階段を上り切ると、踊り場には屋内だと言うのに鉄製の門が立ち、足元は土だった。

室内は薄暗く、洋館造りのような板張りの壁に沿って衝立てに仕切られた座席が並び、中央に巨大な水槽が光っていた。
天井から下がる暗い飴色の硝子ラムプ達はほとんど照明の役割を果たしておらず、かろうじて店内の不気味な調度品を闇の中に浮かび上がらせるばかりであった。

ここは酒場だろうか?

店内を見渡す視界の端の方で、ふと、アポロは色鮮やかな何かに心を奪われた…奪われたような気がした。
驚いて入口から正面に向き直ると、そこには角がRに曲がった妙な形の陳列棚があって、窓の中に色とりどりの鉱物が並んでいた。

石を売っている店なのだろうか?

木枠に仕切られた棚の上に様々な形の升箱や標本箱が並び、その細かく仕切られたそれぞれの枠の中に青や緑や紫や金色やの鉱物の結晶が納まっていた。

そしてアポロはその内の一つが際立った存在感を放っているのに気づいた。
棚の中ほどに飾られた美しい群青に透けるそれは小石程の大きさで、他の色鮮やかな鉱石と並んで木製の飾り台の上に鎮座していた。
何故かアポロには、さっき意識を奪われたのが間違いなくこの石だと分かった。
見れば見るほど不思議な心持ちになる石だった
背後のラムプに美しく透ける蒼色は海の底のようで、見つめていると南国の海を泳いでいるような気にもなった。
アポロは催眠術にかかったように、その青い石を眺め続けた。

やがて石を載せている棚や周囲の展示物はぼやけながら姿を消して、アポロは暗闇の中に浮かんだ青い石と二人きりで対峙しているような気分に囚われた。

青い石は自分だけに見えるものなのではないかとも思われたし、また逆に、石がこちらを見つめているようにも思われた。
二人を取り囲む暗闇はどんどん広がり、やがて遠くに星々を散らした宇宙となった。
宙に浮いた青い石はゆっくりと自転しながら少しづつアポロに迫り、やがてその胸元から心の奥にまで入り込んでくるのではないかと思わせた。

「いらっしゃい」

アポロは我に返った。
自分は今知らない町の店にいて、棚に飾られた鉱石に見とれていたのだ。
改めて棚の中の青い石を見直すと、それは最初見た時と同じに、飾り台につんと置かれているだけだった。

声の方を振り返ると、すぐ後ろにカウンターで仕切られた厨房があって、その奥に、大きな頭と体にはちきれんばかりの黒いベストを着込んで紐ネクタイを付けた、焦げ茶色のヒグマが立っていた。
「ウチはカッフェーだ 何か注文してくれ」  

アポロは口を開けて、風変わりな店主を見ていた  (後編に続く…)

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