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芸術祭の「こむずかしさ」と「会場の広さ」はトレードオフの関係にある

いま日本は芸術祭が大流行り。都会も地方もそれはもう雨後のタケノコのごとく芸術祭を立ち上げるという過当競争真っ只中。まさに群雄割拠である。

そして「どの芸術祭も参加アーティストは同じ顔ぶれじゃないか?」とか「来訪者誘致のための観光イベントなんじゃないか?」とかいろいろと言われたりもして、なかなかに業が深い問題であることよ。と思ったりもする。

そんな芸術祭バブルな状況だが、自分としてはわりと好意的なのだ。

アートを観るという目的がいままで行ったことのない土地に出向くきっかけになっていてけっこう楽しんでいる。
主催者の手のひらの上で踊らされてるというか、まんまと罠にハマった感はあるが、それもまたアートとの向き合いかただと思っている。

前置きが長くなってしまったかもしれない。

本稿は芸術祭の意義とか是非とかそういう話を言いたいのではないのだ。

これまでいろいろと芸術祭に参加してきた結果、ひとつの仮説を立てるに至った。そのことについて語りたい。

まず、結論からいう。

芸術祭において、物理的な移動の距離と作品の難解さは反比例している。

なぜか。それは肉体的な疲労と精神的な疲労が反比例しているからである。

言い換えると、ひとが感じる疲労度の総量は一定で、それをどう使っているかが違うということである。

主に都市型の芸術祭である横浜トリエンナーレや愛知国際芸術祭などは、難解で考えさせる作品が多いように思う。
都市型芸術祭の役割が、現代アートを媒介にして、ひとや社会の現状やありかたについて思索する機会を提示することにあると思う。

もともとの意図がそうであったかどうかに関わらず現状ではそのような作品が中心になっている。展示する場所があまりとれないために展示できる作品にもある程度の制限がかかるために、それに見あった作品を選択した結果ともいえるかもしれない。
だから観終わったときの精神的疲労はかなりある。もちろんそれが満足感にもつながってはいるのだけれど。

一方、郊外型の芸術祭は、単純に「うわー、すごいなあ」と純粋にアートの存在感を楽しむことタイプの作品が多いように思う。広い屋外に大きなアート作品がある異化作用が新鮮な驚きを提供する。

越後妻有大地の芸術祭はその典型的なケースだろう。正直、展示できる土地があるからこそ大きな作品も置けるし、面的に展開することも必然なのだと思う。その出会いの感動こそが郊外型の芸術祭の魅力だと思う。その分、移動距離が尋常ではないのだけれど。

以前、市原アートミックスに行ったときのことである。この芸術祭は市原全域を舞台にして作品が展開しており、移動距離も非常に大きかった。が、作品は考えさせる作品が多かった。

そこで感じたのは、
あちこち駆けずりまわってただでさえ疲れているのに、作品をみて頭を使うの正直しんどいわ…
ということだった。

つまりはそういうことである。

ひとはこころとからだの両輪が補いあい、競いあいながら生きている。

そしてひとはひとつなのである。だからエネルギーの出どころもひとつ。

だから、物理的な移動のためにエネルギーを使うと、頭をはたらかせるエネルギーはなくなっているし、その逆もまた然りというわけだ。

というのが今回の仮説だ。

仮説ではあるけれど、実感としてはわりと的を得ている気がしている。

これが正しいとすると、アートイベントを計画する際、どういうタイプのフェスにすべきか会場と内容のバランスで考えることで、鑑賞者が満足し、かつ文化的意義を見失うことのない企画設計ができるのではなかろうか。

自分は、これからも芸術祭に参加するためにいろいろな場所に行くと思う。そして、そこで今回提示した仮設の真偽について検証検討してければいいと考えている。

初出 24年12月6日

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