おさしづから見る人間心。
天理教の原典といえば
おふでさき
みかぐらうた
おさしづ
であるのは言わずと知れたこと。
おさしづと言えば
教祖や飯降伊蔵を通して口述された教えを筆録されたものを指す。
明治8年頃に教祖より【扇のさづけ 言上の許し】を頂き、悩める者に親神天理王命の言葉をお取次ぎされた。
その中に、親神様の神意を説いたものを【刻限】といい、人々の悩みなどの問いかけに対しこたえたものを【伺い】という。
祭典講話などで引用されることも多く、特に人々の悩みについて書かれた【伺い】に関しては、特に引用されることが多い。
その反面、同じ悩みであっても、その対象となる人物の成人によっても諭された内容が違い、オーダーメイド医療に近い側面を持つために、絶対的に当事者に合った答えにならないことも言えると私は考えている。
やっと。本題。
注目されがちなのは、おさしづのお言葉であるのは言うまでもないのだが、今回は違う側面で考えて見ることにしたい。
それは【願いの筋】です。
つまり。何についておたずねしたいのか。
ということ。明治21年に世界初の天理教の教会である郡山大教会が出来て、教会設立にあたり数多の教会に【おさしづ】が出され設立に至っている。
この教えの特質上『ない命を助けて頂いた』という信仰初代は多い。それ故に、明日の命も危ういという急務ともとれるお助けを要される場合が多い。
で。願いの筋を見てみるとする。
無論、現在に比べ医療の発展は乏しいし、人々が公平に医療を受けることが出来なかった時代。
すがる思いで入信された者は多かったであろう。
【縁談】 【歯痛】 【頭痛】などそこまで急務なお助けを必要とされない願いの筋があるのに気が付く。
それとは裏腹に、この教えは伸び開けて行った。
これは助けの実があがった証拠でもある。
そこで、私は考えた。
たとえば。大阪など御屋敷に近いところの信仰者は、帰参にそれほどの時間が掛からないが遠方の信仰者は数日も歩いてやっと御屋敷へ着く訳で。
病に伏せる者が、その旅路を行き交うことは難しい。そこで【御供】を渡し、取次ぎ人である布教師に、それらを託して『この度の身上は何上に……どうか親神様のお言葉を頂いて来てほしい』と懇願されたのではないだろうか。
しかし。いざ御屋敷に到着すると託された布教師は自らのことや自分の近しい者の悩みを聞いてしまう。そして、帰りに【はったい粉のごく】や【おいきのかみ】などを頂いて帰宅。
悩める者から『親神様はなんと??』と言われると「コレを…」と先程の【はったい粉のごく】などを少し分け与える。
しかも、ご守護頂いてしまう。
そして何も知らず、我がことを願ってくれた布教師は【理の親】である!となり、親神様や教祖に次いでヒエラルキーの上部に崇められてしまう状況が作られてしまう。
だが、この【おさしづ】が筆録されているということ。今となっては明治40年に飯降伊蔵が出直すまでにおさしづを直接、頂いた者は現在、生存していない。当時のそのような自分本位な願いの筋を立ててしまった者がいたとしたなら、それを咎める者もいないし、その事実を知る者もいない。
ただ、そこにはどんな願いの筋があったのかだけが記されているだけ。
きっと、こんなしょうもない考察してるのは私だけだと思う。
それでも、私はこの人間らしい行動に興味が湧いてならんのです。