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人たすけたらわがみたすかる

天理教とは、どんな信仰ですか?
と聞かれたらどう答えますか。
という練合があるとします。

私の回答は
「私にとって最高の教えです」だけ。

『私を見てください』などという二代真柱氏のようなことは、とても烏滸がましくて言えません。

でね。
『人たすけたらわがみたすかる』という教えです。
という方よくいますし
よく聞きます。

なんて言うか。

わかるよふむねのうちよりしやんせよ
人たすけたらわがみたすかる

おふでさき3号47

の引用はわかるんですが。
その…天理教のキャッチフレーズのような扱いに
最近、もやもやした気持ちでいっぱいです。

聞こえが良く。爽やかに感じます。
だけど、それを実感している方がどれ程いるだろうか。と感じます。

私は、自営業で便利屋をしてます。
人手が必要な作業は1時間当たり3300円頂いています。
『高いなぁ』と思った方。これは時給ではなくて商品としての値段なのです。
で。依頼される方は、困っている人が依頼してきます。
お金のある方、生活困窮の方、生活保護の方など様々な方から依頼が来ます。
そこで、生活困窮の方には救済として金額を下げます。ですが、それでも全国の最低賃金よりは高いです。これはビジネスだからです。

で、本題。
私は困っている人に支援をします。
私は困っている人からお金を頂き生活できます。

これで「人たすけたらわがみたすかる」になるのです。
それだけのことです。
ただ、そこに教祖が教えた【おつとめ】【おさづけ】と信仰的教理が加わることが真実の助けに繋がる訳です。

例えばどうでしょう。
昨晩より何も食べていない方がいます。
【おさづけ】を取次ぎました。
【おつとめ】をしました。
【かしもの・かりもの】の話をしました。
お腹は減ったままです。

でも、今の【お道】のやり方はそんなことが多い。
まずは、何か食べさせる。
その上で信仰的なことをするべきと思います。

もし。
その人に食事を与えたなら
私の晩飯はなくなってしまうかもしれません。
でも、私は昼食を食べた。
その人は昨晩から食べてない。
だったら、私の方が我慢できます。

そこで得られた喜びを原動力に
そこで助かった人が人を助けることができるようになったら最高ではないだろうか。

私の家も私で4代目の信仰です。
元をただせば【助かりたい側】でした。
今いる信仰者の大半も【助かりたい側】たったのではないでしょうか?

さあしやんこれから心いれかへて
しやんさだめん事にいかんで

おふでさき16号79

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