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嵯峨野の月#84 弘仁元年
第4章 秘密1
弘仁元年
平城上皇出家から5日後の大同5年9月19日(810年10月20日)
嵯峨帝は元号を「大同」から「弘仁」へと改元した。
嵯峨帝御自ら揮毫なさった
弘仁
と書かれた紙を朝議の場で掲げて見せたのは蔵人頭兼式部大輔、藤原冬嗣。
居並ぶ参議たちは帝の美しいお筆蹟におお…と感嘆の声を上げ、新しき御世の到来に老いた我が身に新しい魂を吹き込まれた感動すら覚えた。
「帝の御世の弥栄を御願いつかまつり申し上げます」
と参議たちが杓を掲げて退出すると冬嗣は揮毫の紙を箱に入れて嵯峨帝にお返しし、
「手筈通りに、順序だてて執り行うように」
という帝の命を受けては…と杓を掲げて退出し、中務卿佐味親王から手渡された勅書の入った箱を受けとると太政官へと向かう。
これから帝の命を遺漏なく役人たちに実行させるために冬嗣はしばらく政務に忙殺されることとなる。
嵯峨帝ご自身も平城宮から呼び寄せた臣下の人事や上皇側についた臣たちの処分、それに…
3年前に獄死した兄、伊予親王の子供たち継枝王、高枝王と姫君を流刑先から呼び戻し、既に出家した子供たちの母と伊予親王の家人であった雄宗王に面通しさせる必要があり、
嵯峨帝自身も面通しの場に立ち会った。
流刑先での困窮した暮らしを強いられていた子供たちは哀れな位痩せ細っており、立ち会った者全ての涙を誘ったが、
嵯峨帝は継枝王の細った手の付け根にある疣に近い大きな黒子を確認して…
間違いない。この黒子は3年前の東宮朝賀の宴の折、伊予の兄上自ら見せて下さった黒子と同じだ。
この子らはまさしく兄上のお子。
と同じく継枝王と姫君の手の付け根を確認した雄宗王とうなずき合った。
「お前たち…さぞひもじい思いをして暮らしてきたのだね。ささ、膳を用意させてあるから好きなだけ食べておいで」
と子供らを雄宗王と母である尼君に託して別室に案内させた。
…さて、これで伊予親王の遺児を送り届けた我の役目も終わりだ。と使いの用人が胸撫で下ろして退出しようとしたところで、
でん!と目の前の貴族が出口に脚を掛けて行く先を阻んだ。
ま、まさか宮中に仕える貴族がこんな乱暴な真似を!?
と驚きと怒りの混じった目で見上げた先には
「悪い、我も一応皇子ではあるが身分低い者として育てられたので素行が悪くてな」
と嵯峨帝の兄で権右少弁、良岑安世のへらっとした笑顔。
「あの子らがもし偽物であったなら…お前の首はとうに無かったぞ。命拾いしたな」
と凄みのある声でわざと手刀で用人の首根っこをぽん、と軽く叩いてもういい、とばかりに脚を退けた。
手刀を食らってから安世の腰の刀に気付いた用人はひえっ!と喉から悲鳴を上げ、退出した。というよりとっとと逃げ出した。
「安世は相変わらず荒っぽいな」
と苦笑いする嵯峨帝に向かって安世は
「下司(当時は従五位下以下の意味)には下司なりの接し方があるってもんですよ、帝。あのような輩は多少荒っぽくしないと本性を出しませんからね」
と優美な仕草で一礼し、
「あの用人が伊予の兄上のお子をどんなに粗略に扱ったか皇子さまがたから聞き出し、本人に吐かせて…『それなりに』思い知らせてやります」
一瞬凄絶な笑みを見せてからそれでは、と帝の御前から下がった。
さすがは少年の頃より下々の者に混じって
飲む、打つ、買う。
と悪い遊びをひととおり嗜まれた安世兄上。
人間の心の機微を熟知していることよ…
と安世の言動に息を呑んだ嵯峨帝は隣室に控えていた藤原三守に、
「疲れたので後宮に行く」と告げた。
改元の9日前に伊予国に流されていた(なんという皮肉か)伊予親王の母方の伯父、藤原雄友罪を許され正三位に復権。弾正伊に任ぜられる。
その他藤原安人、橘安麻呂、橘永嗣、橘百枝等見に覚えもない罪で左遷されていた者たちも都に呼び戻され復権した。
そして…
京の九条の外れ、無人の家の裏手に三つ菰包みが転がされた。
それを見つけた老人が早速中を開くと、損傷の激しい男の遺体が苦悶を顔に浮かべたままでいる。
「おい、じいさん…殺された奴の骸に触れでもしたら祟りがあるかもだぜ」
と制止する若者の手を振り払って老人が遺体の衣を剥いで腹のあたりを探ると、切り開かれた腹の中から金の入った革袋が見つかった。
「ほうれ!やっぱり獄吏の入れ替わりがあったな。こいつら罪に問われた貴人をいたぶるのを愉しみにしている虫けら以下の奴らさ。
入れ替わりがある度にこうして仕返しされて殺され、ここに棄てられるのさ。
若いの、暮らしに困ったら覚えておけ」
おれは今のところ暮らしに困ってないけどさ…と九条で身を売る女たちの鏡磨きをしている若者は遺体の有り様を見てうへえ!と声を上げ、
「全身焼きごてを付けられて首が捻れている。なんてむごいことを…!」
と身震いして手を合わせるが老人は
「こいつらそれだけの事をしたんだろうさ」
と言い捨てた。
老人と若者は借りた荷車で骸を運び、寺に運んで金を払って弔ってもらい、余った金を骸を見つけた者たちで分け合って別れた。
これが九条の暗がりに住む者たちの決まりだった。
三体の骸は老人の推察通り、拷問で中臣王をなぶり殺し、安倍鷹野を責め立てた獄吏たちであり、都に戻った鷹野自身の報復によるものであった。
屈辱を受けた、貴人の根は深い。
改元。
それはわざと歴史という膨大な時の流れに名前を付けて刻むことによって過去の禍事をなかったことのようにして暮らす、
この狭き小さき国の人々の、生きている間に何も成し得ないだろうという諦めを慶事に立ち合えたという喜びにすり替えさせるための、生きる知恵なのかもしれない。
それから二月後、智泉が普賢菩薩像に最後の一刀を入れた直後、
「橘の夫人、皇子さまご出産!」
という橘家の使者から吉報が入った。
「母子共にご無事であらせられます…ありがたや智泉どの」
と使者の少年は智泉自身に手を合わせて臥し拝んだ。
「とうとう結願なりましたな」
と菩薩像の細かい装飾を彫って手伝っていた仏師、椿井双は鑿を持ったまま初めてこちらを振り返った智泉の顔を見て、
うむ、覚悟を決めて自らの仏と向き合う、一人前の僧侶になったな。
と満足げにうなずいた。
弘仁元年冬、橘嘉智子は第二子である皇子を出産した。
白い布に包まれた産屋の中でほぁぁ、ほぁぁ!と泣く皇子と枕を並べた嘉智子は、
ああこれで、
跡取りの皇子を産むという入侍以来の務めを果たした…
という長年の重責から解放された安堵とお産の疲れで新生児に初めてお乳を含ませる乳付けの儀を終えるとそのまま深く眠った。
七日後、嵯峨帝は皇子に
正良
と名付けた。後の第54代仁明天皇の誕生である。
「早く正良に会いたい、正子にも会いたい何よりも嘉智子に会いたい!」
と目の前を忙しく歩き回る夫に明鏡は、
「嘉智子さまのお体が回復なさるまでのご辛抱でございます」
と我が子の信皇子に薄いお粥を与えながらこの騒がしい夫をやんわりとお諌めする。
ふた月前、お産のために嘉智子さまがご実家にお帰りになってから愛妻に会えない嵯峨帝はもう我慢も限界なのだろう。
その代わりに、といってはなんだが明鏡が残った嘉智子の部屋に入り浸って長く明鏡と過ごしたり、妃の高津はじめ他の妻の部屋に通う回数が増えた。
帝と信さまとこうして親子水入らずで過ごせる。というのが普通の夫を持った人妻の幸せなのだろうが…
我が夫は一国の父たる天皇なのだ。
あまり多くを求めない、というより最初から何もあてにしてはいけない。
常に心を穏やかに保つことが宮女としての自分の幸せなのだ。
と明鏡は上手く粥をすすってきゃっきゃとはしゃぐ信皇子を抱きしめ、
「ところで信に粥をやるのはまだ早すぎるのではないか?」
と心配する夫にほら、と我が子の唇を開いて下顎に四本生え揃った真珠のようなものを見せた。
「おお、歯が生えたのか!」
と嵯峨帝はいたくお喜びになり、信を抱き上げて頬ずりをした。
いつの間にか大きくなったものだ。待つのも父親のつとめ、か…とようやく観念した嵯峨帝は床に寝転んで、
「こうしておまえと夫婦らしくしていられるのは初めてだな」と膝枕をしてくれる明鏡と見つめ合った。
その頃、高雄山寺ではようやく叔父の元に帰った智泉と空海が橘家をはじめとする貴族家から次々と贈られる品物の山に囲まれて辟易していた。
「もう置くとこあらしまへん」
「いいから受け取ってくれよ、これは橘家の総意だ」
と皇子誕生と一族の内三人が都に帰って来た上に昇進したものだから橘家の家ではお祝い続きだ。と橘逸勢が従者にそれはそこに置け、と指示して勝手に贈り物を堂内に置いた。
「都では皇子を生ませた神僧、智泉阿闍梨と評判だぞ」
と逸勢が智泉をからかうと、
「それ、言わんといて下さい。私はそのつもりは無いのに…」
と恥ずかしさと重圧で震える智泉に空海は、
「若い内はその反応でええんや、偉ぶって面の皮厚うするのは年取ってからやで」
と諭した。そんな師弟を目の前に逸勢は
「政のごたごたも済んでようやく坊さんとして過ごせるんだなあ…」
としみじみと言うのであった。
「へえ、国家鎮護のために今後6年は籠っていたい、という申し出が通って胸撫で下ろしております。
ところで真雅はどないしてます?」
「真雅なら行儀も良くて賢いので内道場の坊さんに可愛がられているぞ。それにしてもお前にあんなに年の離れた弟がいるとはなあ」
四月前のことである。都に住む空海の兄で書博士、佐伯酒麻呂が10になったばかりの童を連れてここ高雄山寺にやって来た。
空海多忙で都に住み、寺を留守にしていた時である。
「この子は佐伯真雅…我と真魚の弟です。と父からの文に書いてあります」
と酒麻呂と空海の父、善通の直筆による真雅の出自、善通と粟島に住む愛妾のハヤメとの間に生まれた子で誕生後、母子共に佐伯家に引き取られた。
最初、善通は真雅を酒麻呂に預けて大学寮を受験させようと思っていたのだが真雅の母、ハヤメが三人目の子を産んだ後病で寝付いてしまったので、
「やはり真雅を真魚に預けて仏門に入れたい、と文には書いてあるけれど我はこの子を学者に育てたい。
なれど…真魚の働きを噂で聞いていると、これからは仏教だ。と強く思えてならないのです。だから連れてきました」
いくら努力して大学寮の博士になっても地方豪族の子では官吏のままで終わってしまう。
だったら空海の弟子にした方が真雅のためなのではないか?
という本音を吐露した酒麻呂に叔父の阿刀大足は
「当寺は弟子不足で困っているから引き取ろう」と即決した。
前にこの子と会うたのは確か母親のお腹にいた頃だった。大きゅうなったな。
といきなり現れた弟を前に空海は11年前に帰郷した折、粟島で紹介されたハヤメの屈託のない笑顔を思い出した。
真雅の顔をじっと見ながらくっきりとしたまぶたが母親似や。と空海は思った。
それにしても、父上はハヤメどのにあと二人も子を生ませていただなんて。
一体母上との夫婦仲はどうなっとるんや!?
ハヤメどのの快癒のためにこの子を出家させるというのは…
我が父ながらあまりにも身勝手ではないか?
「まだ10の子をいきなり坊さんにするのは無体なことやと思います。真雅にはあと5年は考えさせて学者なり役人なり行きたい道を選ばせたいのです」
と父に反駁するように空海が相談した相手が、嵯峨帝だった。
「それなら行儀見習いの稚児にして宮中で学ばせるがよい」
と真雅の顔を見るなり「賢そうな子だ」と一目で気に入りになった帝はすぐに真雅を内道場の稚児に任じた。
さすがは帝、宮中で学んだ事は将来必ずこの子の役に立つ。と安心して空海は宮中に弟を預けた。
「いまは国家祈祷の準備で忙しく、真雅を預かって下さった帝には感謝し尽くしてもし足りません」
この時期空海は「国家の為に修法し奉らんことを請ふ表」を朝廷に上表し、
向う6年間、高雄山寺の山門を閉じて聖朝安穏・天下泰平を祈祷する旨の許可を申し出ていた。
帝はすぐに快諾し、自作の詩をつけて綿100屯を贈った。
「そう帝に伝えておく」
と言って逸勢は山を降り、政変で心疲れた貴族と僧侶たちはそれぞれの暮らしに戻っていった。
間もなく空海は高雄山寺にて鎮護国家の修法を行った。
この七日間の修法が空海によって行われた鎮護国家の修法の最初である。
お産からひと月後に嘉智子は正良を抱いて後宮に戻り、白いおくるみに包まれた皇子を夫に抱かせた。
父嵯峨帝に抱かれて目を覚ました正良はいきなり自分を抱く手つきが変わったので驚いて両目をぱちりと開けて相手を見つめた。
「やあ、私がお前の父だよ正良」
と嵯峨帝が正良に話しかけると正良はわずかに頬を動かしそれが微笑んだように見えたので、
「見ろ正良が笑った!父が解るとは利口な子だ」
と喜ぶ嵯峨帝に
「まあ帝ったら…」と嘉智子は口元を袖で隠してほほ、と困り笑いをした。
こうしてたった三月余りの弘仁元年は、
愛する嘉智子との間に待望の皇子誕生。という嵯峨帝最大の慶事で過ぎ去って行った。
後記
弘仁おじさんと呼ばないで。by藤原冬嗣