令月の宴3・小野の歌道
二つの賽子を上下六角形の細長い桐の小箱に入れて蓋をして上下に振り、
今だ!と思った頃合いで蓋を外すと箱から飛び出した賽子はころん、ころん、と二度転がって台の中央で止まった。
賽子の目は、共に一。
「決まったね、大伴の爺いを都に呼び戻す。兄上たちも異論はないよね?」
と麻呂は共に机を囲んで談義する三人の兄、武智麻呂、房前、宇合の苦渋の面を見遣ってそう尋ねた。
「しかしなあ、国の大事を賎しい者のやる賭博の遊びで決めるなんて不遜の極みじゃないか?賭博は律令違反ぞ」
と意見したのは次兄の房前。
口を開けば「それは律令に遵守するか否か?」とのたまう次兄の堅物で真面目な人柄は、決して嫌いではない。
が、こういう横紙破りな決定をする時いちいち口を差し挟む次兄が時には煩わしくもある。
「何言ってるんだい兄上、僕がやっているのは遊びではなく占いさ」
「天竺では賽子占いで吉凶を占うのは神聖なことなのだ」
と麻呂に賛同したのはすぐ上の兄の宇合。
彼は遣唐副使として唐に渡り、持ち帰った玩具である賽子を麻呂に教えた張本人でもある。
「さて、占いに出た目は合わせて二。
これは最強の目だ、僕たち藤原は結局、神のご意志で大伴に負けた…」
大伴旅人を遠い大宰府に追いやる必要があったのは、
政敵である長屋王を倒すためには旅人の存在は脅威だ。
と思ったからである。
大伴氏は代々天皇家の護衛を務める武官の家であり、その長である旅人を敵に回しては…
もし、長屋王と組んだ旅人が諸国の豪族を集め、
「天皇家をお救いするために奸臣藤原を討つ」
と号令をかけてしまえばいくら天皇の外戚とはいえ藤原なぞ簡単に潰されてしまうのだ。
なるほど麻呂の進言通りに旅人を遠く大宰府に追いやり、日頃から長屋王に反感を持っていた舎人皇子、新田部皇子をこちら側に引き入れる事で長屋王を倒す事が出来た。
天平2年、晩夏(730年9月)。
昨年の長屋王の自死に続き、先日大納言の多治比池守が病死した事で旅人は太政官において臣下最高位となった。
甥の聖武帝も「旅人が都にいないと朕は安心して夜も眠れぬ」と仰せになっておられる。
もうどう考えても都に呼び戻すしかないの
だ…
さて、と麻呂は一番に立ち上がって
「さっさと参内して我々の決定を帝に奏上しましょう」
と渋る兄たちを促した。
「お前の歌は、どこか直情的で情緒に溺れて、素直すぎるところがある。
それでは人の心を打つことは出来ないぞ。
若輩者ながら老という名は如何ばかり」
とあの梅花の宴の席で自分が詠んだ歌を主の大伴旅人に手厳しく批評された小野老は、正直…
公衆の面前で恥をかかされたたものよ。と悔しく思っていたが、
あの時帥さまに笑われたから太宰府の官人たちの自分への白眼視が無くなった。と今では主に感謝している。
この時期の老の立場は、
朝集使。
という大宰府における政治の実情を朝廷に報告する役割で、いわば朝廷から太宰府に放たれた公認の間者であった。
思えば昨年の長屋王の政変の時、小野どのは都におられた。
あの事件の直後に官位が上がったのは、藤原方に付いて長屋王の邸を取り囲んだ一人ではないか?
そう、朝集使としての役目を果たすために老は昨年一旦都に帰った。その半年後に長屋王の変は起こったのだ。
老が藤原四兄弟に伝えた内容とは、
「太宰帥、大伴旅人は暇があれば酒をくらい、我が身を嘆く歌ばかり詠んですっかり心弱っております。あれは我が目から見ても弱った年寄りです。先は長くないでしょう」
と大伴旅人の暮らしぶりを事実半分作り話半分でため息まじりに報告したのだ。
旅人は武力蜂起する気すらない程弱っている。と受け取った藤原房前は、
「ご苦労、しばらく都で休むがいい。また太宰府に行ってもらうが…年寄りの世話を押し付けて済まぬな」
「よしなに」
と言って老は房前の前から下がったが、その半年後に長屋王さまの悲劇が起こったのは、
自分の報告のせいだ…
と内心老は、自分で自分を責めていた。
立后問題で争った当事者は藤原と長屋王であり、老自身とはあまり関係のないこととはいえ、
事件直後に太宰府に戻り、主である帥さまに詳細を報告する自分は間者である自分の立場が、
なんて恥ずかしいやつなんだ…。と思えてしばらくは帥さまのお顔を直視できなかったし、周りの人びとの態度も次第に冷ややかなものになった。
やはり老どのは間者よ。あいつは藤原の犬で、皇族殺しに加担したのだ…。
小野大弐は信用できない。
と書類の受け渡しの時に部下から目を反らされ、同僚とすれ違う時も「やあ、大きな犬を見かけてな」と嫌味を言われたりしてこうして無言の苛虐が一年近く続いた。
実は都で報告して以来、藤原氏とは一切関わりを持っていない老であったが胃の腑の痛みで丸薬を飲まなければ食事も出来ない程精神的に参っていた。
それが…
あの宴の席で帥さまが、
「素直すぎるお前は嘘が付けない性質で間者には不向きであるよ」
と私に一切の責めはないことを公言して下さったので、私は太宰府の同僚たちに…
赦されたのだ。
と思って舞い散る梅花の中、
老はほう、と体ぜんたいでため息を付いた。
「いちいち嫌味を言ったこと赦されたし」
と老に酌をするのは観世音寺別当の沙弥満誓。
まったく坊さんというのはいちいち時勢を読んでへつらう相手を選ぶ奴らだな。
と老は目の前で謝罪する相手を心の底から軽蔑した。
いや、世の中の人間のほとんどは…
時勢という上っ面ばかりが全てだと思ってその人の内面も推し量らずに相手を糾弾し、苛むのが楽しくてたまらない。
浅はかで騙されやすい生き物なのだ。
とこの一年で人間の本質というものを痛いほど思い知らされた。
夜が更けて宴が終わり、長く語らった後で帥さまが寝床にお入りになる直前、
「歌を詠む時ぐらい素直になればいいさ。人が人として心を開く事が許されるのは、酔っている時と詠っている時くらいさ…さっきは済まんな」
と横になったその背中は…とても六十老とは思えぬ程筋肉が張っていた。
これが小野老が、房前についた嘘。
大伴氏は代々天皇家を護衛する武官の家。
旅人は表面では酒に溺れて泣きながら歌を詠む弱った老人の振りをし、隠れたところで武術の鍛練を欠かさずにいたのだ。
その武力は稽古相手で息子ほども年下の老を打ち据える程。
老は主の言葉で勇気付けられ、帥さま。
私は己の素直な気持ちを詠うことで、小野の歌道を貫きますぞ!と心に誓った。
この宴から9ヶ月後、大伴旅人は勅命で都に戻ることを許され、元服したばかりの家持、書持の息子らはじめ大伴一族の男たち総出で武官の装束に身を固め、馬に乗って朱雀大路を練り歩いた。
旅人さまがご帰還なさった!
と身分の上下問わず朱雀大路に並んだ見物人たちは大伴一族の勇姿を見て、ほう…と感嘆の溜め息を洩らした。
都びと達の喝采の中で旅人は、
老よ。宴の席でお前のあの歌をけなして悪かったな。
こういう気分の時に相応しい素晴らしい歌であるよ…と老が詠った歌をこっそり口にして太宰府に残った副官に捧げた。
あをによし寧楽の京師は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり
青丹美しい奈良の京は咲く花の匂うかのように今盛りです。
後に筑紫歌壇。と呼ばれる太宰府に左遷された万葉歌人の哀愁の歌は後に旅人の息子である家持によって編まれ、1300年経った今も人々に愛されている。