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嵯峨野の月#124 天長二年の旅立ち

第6章 嵯峨野8

天長二年の旅立ち


いいいですか?せーの。

という合図と共に真新しい木の匂いが充満する講堂内の四隅に一斉に明かりが灯され、現れたのは…

壇の上の東西南北で武器を構える四天王。

東北を守る多聞天と持国天の間には四羽の鵞鳥がちょうが支える蓮華に乗った梵天と、南西を守る広目天と増長天の間に、像に乗った帝釈天。

壇の中央で蓮華座に結跏趺坐けっかふざし、宝冠を被り、瓔珞ようらく(首飾り)、臀釧ひせん(足飾り)、腕釧わんせん(腕飾り)を身に着け、

左手親指を中に入れて人差し指を立てた拳を作り、立てた人差し指の二節から上を右手で握り込む、智拳印。という「最上の智」を表す印を結んで半眼でこちらを見渡す金剛界大日如来を中心に阿閦如来あしゅくにょらい、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来からなる五智如来。

その左側、

後背に火炎を纏わせ右手で剣を構えて教えに背く民衆を導き内外の諸魔を降伏する憤怒の形相を持った不動明王を中心に金剛夜叉明王、降三世明王、軍薬利明王ぐんだりみょうおう、大威徳明王からなる五大明王。

右側、

上半身裸で女性的な曲線美を持ち瓔珞ようらく臀釧ひせん腕釧わんせんの装飾具を付けているものの、宝冠を被っていない修業中の釈迦王子の姿を模した金剛波羅密多菩薩を中心に金剛薩埵菩薩、金剛宝菩薩、金剛法菩薩、金剛業菩薩からなる五大菩薩。

天上界から現世を見守る如来と

現世と仏界の狭間に居て衆生を導く明王。

そして未だ現世で修業中の人間である菩薩の存在を目で見て手で触れられる身の丈十尺近くの二十一体の仏像として空海が顕現させた密教の世界が、

確か、にここに在った。

「これは素晴らしい…」

とまるで曼荼羅から抜け出してここに現れたかのような仏像たちに圧倒されて思わず半歩下がるのは帝の名代として東寺の視察に来た東宮大夫、藤原三守。

「空海阿闍梨よ、よくぞここまでのものを作り上げてくれた」

と三守は眼に涙を浮かべて国家鎮護の僧である空海に最大限の感謝と労りの言葉をかけた。

いえ…と空海は首を振り、

「拙僧一人ではここまで出来ませなんだ。ここに控えている仏師たちの皆さんの助力あってこそなのです」

と傍に控えているこの国最高の仏師、椿井双つばいのならぶをはじめ奈良の各寺社から派遣された二十人足らずの仏師たちにその労りを向けるよう今は真言宗の檀那だんな(サンスクリット語でダーナ。支援者の意味で旦那の語源)となっている三守に促した。

それもそうである、と頷いた三守は
「特に外形の意匠を手掛けた仏師よ、実に美しいものを拵えてくれた…そなた、名は?」

は、と双の隣で金髪に烏帽子を被った仏師は顔を上げ、

田辺牟良人たなべのむらとと申します」

と名乗った胡人の仏師、ムラートこと牟良人の柔らかな面差しの美貌と晴れた日の空のような青い目に三守は惹きつけられ、

決してこの時代の最新流行である唐風ではなく天竺や胡の様式を取り入れた仏像の装飾を、天平の昔風に戻ったようでありながらそれが却って仏教伝来の頃の輝きを持って新しく感じさせる牟良人の仕事ぶりを、

「成程、西方からの風がここに帰着したわけだ」 

と総じて評価した。

「総仕上げまではまだまだだが、今月からこの講堂でも修法が行われる。仏師たちには休暇と褒美を与えるゆえ皆、ゆるりと休むがよい」

との三守の言葉に仏師たちは今日まで三年間、
ほとんど休まずに羯磨曼荼羅かつままんだら(立体曼荼羅)制作に取り組みこれでやっと故郷に帰れる…と安堵して泣き出す者。

予想以上の褒美にさすがは我らの檀那だんなさまだぜ!と三守に向かって拝む者。

と様々な反応を見せる中で牟良人は、急に長期の休みを貰っても子らはまだ小さくて里帰りという訳にもいかないし、

さて、どうしようか?

と頬を掻いたところで「三守どのが高野山生まれのお前の話を聞きたいと仰せだが、一緒に来るか?」と空海から誘われ、そのまま東寺近くにある三守の別邸で酒肴の膳を馳走になり、聞かれるままに故郷高野山での暮らしや家族の事、

さらに酔った勢いで不動明王の意匠で空海に散々駄目出しを食らい続け、

「お前が肚の底から畏れ、この者には従うしかない。とまで思った相手は誰やっ!?」

と激しい剣幕で迫られた処でやっと兄ファルークこと田辺波瑠玖の姿かたちと怒った形相を絵に著して見せると、

「うむ、それや!お前の心の不動明王であるファルークを形にするんや!」

とやっと許可を得て不動明王作成に取り掛かった事を真夜中まで上機嫌に語った。

翌朝、牟良人が二日酔いの頭の疼きで目覚めた時には既に宿舎の自室でことし三才の長男が遊んで欲しそうに自分を覗き込んでいる。

その後ろで九才年下の妻マリカこと丹生茉莉花媛にうのまりかひめが「もう…明け方に真魚さんに担いでもらって帰ってきたのよ」と呆れつつも酔い覚めの水を椀に注いで持ってきてくれた。

ああ、俺ゆうべ記憶失うまで酔ってたのか。

と恥ずかしくなり「で、真魚さん何て言ってた?」と尋ねると妻は「ムラートは酔うとお喋りやな、でもお祝いだからええか。って」
何を何処まで話したか覚えていない牟良人はやっと起き上がって水を飲み、

「まあいっか」と長男を膝の上に抱き上げた。

お祝い、と空海が言った通り天長二年(825年)春。淳和帝妃正子内親王は十五才の若さながらも無事皇子を出産し、誕生七日目に

恒貞つねさだ
と名付けられた。
後の恒貞親王の誕生である。

「正子に似て美しい子だな」

と齢四十の初老と呼ばれる年齢で思いもかけず子を授かった淳和帝はお乳を飲んだばかりで眠たそうにしている恒貞のふくふとした頬を指でそっと撫で、

今上帝である朕と内親王である正子との間に生まれた恒貞は皇族の血統上、我が甥で皇太子の正良より格上。

この子が長じて正良の次の天皇に推されることがないようにしなければ。

と妻子や乳母たちに囲まれて幸せを甘受しながらも後に起こる皇位継承の問題を淳和帝は憂慮し、彼の崩御後それが承和の変という最も酷な形で的中してしまうのである。

この時代、皇位継承は兄弟間で行うのが慣例だったが桓武天皇と弟早良親王が揉めて起こった

藤原種継暗殺事件しかり、

平城天皇と嵯峨天皇が起こした薬子の変しかり、

遡っては天武天皇と兄天智天皇の子大友皇子が起こした壬申の乱しかり、

兄弟間で皇位継承が行われた直後に揉めて政治の混乱に陥った先例は、親子間継承よりも多い。

こうして皇子誕生という慶事で始まった天長二年は春、夏と大過なく過ぎて人々が冬ごもりの準備を始める秋。

平安京右京の西市の一区画で衣料を扱う胡人の一家が居た。

「ちょうどお山での冬ごもりに必要なもの入りましたよ」

と店頭で毛皮を並べる褐色の肌の店主は胡人の拝火教徒、康羂索こうけんさく。二年前、唐長安で道士たちによる他宗派弾圧が起こり拝火教である彼も妻子と共に商船に乗ってこの国に逃れた。

都で出会った同じ拝火教徒の牟良人を通して空海に助けを求め、空海が朝廷に直談判したお陰で古来より大陸から来た渡来人に与えられる

はた

という姓を朝廷より賜り帰化した商人の男である。

彼が扱う衣類はどれも質が良いと評判でこの時店に来た泰範の前に並べた毛皮も丈夫で毛が密に揃ったものばかりなので「うむ、これを三着いただきましょう」泰範は満足げにうなずいた。

毎度有難いことで、と感じの良い笑みを浮かべて代金を受け取る羂索に、古より砂漠を渡って大陸で商売をする胡人の人当たりの良さと商売上手を目の当たりにした泰範は感心して「うまくやっているようで何よりですね」とねぎらいの言葉をかけた。

そんな滅相もない、と羂索は笑顔のまま泰範の耳元に口を寄せ、

(あなた程の高僧ならば寺に商品を持ってこさせて選ばせ、通常の五、六倍の値で買うのに、わざわざ店頭に来て定価で贖うとはしっかりしたお客だ。

見栄のために金を使わない。

それは世知辛い世間を生きていくための大事な智慧だと思いますよ)

その羂索の言葉に泰範は、少年の時分に親を失い寺に入るまで人に言えない苦労をしてきた自分の過去を見透かされたようで、

さすが、世界一の都長安で色んな人種の客相手に商売してきた男は違うなあ。

と思わずひやりとした…

「そ、それよりご子息の成長ぶりと順応ぶりもめざましいものいだと思いますよ」

と店頭で別の客の接待をしている羂索の息子でことし十六才の奈留背なるせに話の矛先を変えた。

「主にお子が生まれたばかりなので肌触りの良い柔らかい布が要るの」
「それならこの綿がようございますよ、奥様」
「あらやだ、奥様だなんて~」

と買い出しに来たシリンと娘のミナに実に感じ良く接客しているナルセは西方の砂漠から来た胡人の特徴である青みがかった褐色の肌に艶のある黒い瞳の端正な顔立ちをしているので質の良い布、というよりは彼目当てに来る女性客が絶えない。

言い使った布地を購入したシリンは、
「実は冬になる前に天野の里に帰るの。故郷のファルーク兄様からナオジョテ(拝火教の洗礼。十二歳ごろに行う)を受けさせたいから子供たちを連れて帰ってくるように、って文が来て」と羂索に話した。

「ナオジョテ!それはめでたい!」

この国に自分たちよりも歴史の古い拝火教徒が居て彼らは儀式を行うマギの血統であり、さらにナオジョテを行う聖地が高野山にある、と聞かされて以来、羂索は驚くことしきりでいつか機会があったら高野山に行ってそのマギの子孫たちに会ってみたいと思っているのだが。

「…でも、天野の胡人たちも秦一族との結婚がどんどん増えて、私たち三兄妹の子供たちの世代で血が途絶えてしまいそうだから最後のナオジョテになるだろう、って」

遠い昔、回教(イスラム教)による迫害から逃げ、大陸を渡って遥か極東の島であるこの国で厳格に血と教えを守ってきたマギの血統も絶えるのか。と目を落としそうになる。

「案外、そうでもないかもしれませんよ」
と羂索が目線で示してくれた先にはことし十歳のシリンの娘ミナと、羂索の息子ナルセが特に親しげに語らう様子。

「あら、まあ」

いつの間に。とシリンは思った。

「拝火教徒同士だし、ナルセもいい若者だし。この縁組は悪くないし、それどころか大歓迎じゃない?」
と買い物から帰って嬉しそうに夫の騒速に報告すると夫はしばらく考えごとをし、

「それってナルセをうちの婿にって事だろ?羂索どのから跡継ぎを奪っていいものかなあ?それにミナもまだ十才と幼いし、当分先の話だ」と渋い顔をした。

二人が好き合っているかも定かではないし、娘の縁組を進めるのは急すぎる。それに、息子を手離す辛さを羂索どのに味わわせるのは気が引ける。

と暗に言って妻をたしなめる夫の意見に今年の正月、十二才になった次男の志留辺《しるべ》を武官の巨勢清野に弟子入りさせる形で息子を手離したシリンは「そうね、焦っていたし軽率だったわ」と素直に謝った。

「天野の里にはミナも連れて行ってナオジョテを受けさせる。これで二人とも拝火教徒だ。あとは本人同士の気持ち次第、だろ?」

シリンははっと顔を上げ「そうね…そうよね!」と弾んだ声で答えた。そして主の阿保親王の生まれたばかりの御子の産着を縫う作業はこの日一段と捗った。

天長二年秋、空海は弟子真如こと高岳親王を連れて高野山に帰ることを許され、同行する弟子は高岳と彼の教育係兼お目付け役である泰範、秘書役の真済。

そして…

「長く阿闍梨にお仕えしている我が高野山に入らないままなのは納得いかないしお山に入るまでは死ぬに死ねません!」

と駄々をこねて強引に同行することとなった今年五十八才の弟子、杲隣ごうりんと、

「玉依の姉君も麓で暮らすことを許されたんだし、我も高野山に骨を埋める覚悟はしたぞ」

と既に籠を背負って旅の準備万端の齢七十を過ぎた空海の叔父、阿刀大足あとのおおたり

これに護衛役の賀茂騒速とその家族、さらに奈良での仕事も休みに入った牟良人一家が加わり、老若男女の大所帯の旅立ちとなった。

出発時から自分をちらちら見る空海に「何だ、真魚。我の顔に何か付いておるのか?」
「阿闍梨は我の方も見てはるんですよねえ、大丈夫やて」
と怪訝な顔をする大足と杲隣に向かって、

「つまりは既に御老体のお二人を長旅に連れて何かあったら、と我が師は心配なさってるんです。張り切ると倒れるからゆっくり行きましょうよ」

と空海でも言いにくいことを年若い高岳がずばり、と指摘してくれた。

さすがは親王、言葉に遠慮が無い…と泰範は妙なところで感心した。

相手が親王なので怒る事も出来ず、ご老体二人は言われるとおりに歩を緩めた…

今年正月、十二になった賀茂志留辺《かものしるべ》は巨勢清野の養子になり、彼を烏帽子親として元服を果たした。

武官の出世の道である検非違使の新入りとして武術の鍛錬と雑用に追われる日々を過ごし、

「実の両親と別れてもお前は私の息子のつもりでいるからいつでも帰っておいで」

と父の主である阿保親王邸を訪ねたのは元服で家を出てから実に十ヶ月ぶりのこと。

「まあまあ、志留辺もすっかり立派になって」

と赤子を抱いて迎えて下さったのは阿保親王の正妻、伊都内親王。

「あなたの両親が旅立って以来、我が殿ったら寂しがって泣いてばかりなんですの。是非会って元気付けてあげて下さいね」

父上皇にも先立たれ、弟も空海と共に高野山に旅立ち、最も信頼する従者一家に出ていかれた阿保親王は何もやる気が起こらず、息子行平王の前でもため息を吐いて泣く日々を過ごしていた。

「父上、そんなに泣いてばかりいたら目の玉が溶けますよ」

「だって…だって家族のほとんどが一度に居なくなってしまったんだぞ。寂しいではないか」

とまだ七才の行平王に背中を撫でて慰めてもらう阿保親王に伊都が「シルベ殿が来ましたわよ」と声を掛けるとシルベか!?と顔を上げた阿保親王は涙に濡れた顔に喜色を浮かべた。

「親王さま、まだ私が居ますからそんなにお泣きにならないで下さい」

懐紙で涙を拭いながらうんうん、とうなずく阿保は急に何かを思いつき、

「あの子を連れておいで」と乳母に言い付けた。

やがて母親の伊都に抱かれ連れてこられた赤子は夏の終わりに生まれた阿保親王の第二皇子。

「名を業平なりひら、という。まことに勝手なお願いだがシルベよ、私に何かあったときこの子が辛い思いをしないように仕えてくれないか?」
そう阿保がシルベに懇願した時、母の腕で寝ていた赤子がぱちり、と目を開き目玉だけを動かしてシルベの顔を見た。

シルベの目線と生後ニヶ月の業平王の目線が交差し、二人はしばらく見つめ合う形になった。

やがてひとつ頷いたシルベは人差し指で業平王の手を取り、

「業平さまを主としてお仕えいたします」

と宣言し、業平は小さな手でシルベの指をきゅむ、と握った。

業平王こと後の在原業平と賀茂志留辺。

今後の人生のほとんどを共に過ごす二人の小さな主従関係は、この時こうして結ばれたのである。

後記
最終編の主人公、在原業平と志留辺の幼き主従の誓い。










































































































































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