嵯峨野の月#125 夫人たちの夏
第6章 嵯峨野9
夫人たちの夏
藤原冬嗣が氏寺である興福寺の南円堂に詣でたのは天長三年の春のこと。
そこに安置された胸前で二手が合掌し、二手は与願印を結び、その他の四手には、羂索や蓮華・錫杖・払子を持す。
一面三目八臂(額に縦に一目を有する)の不空羂索観音を拝すると制作にあたった仏師集団椿井氏の頭であり今は出家して法眼という職人の最高位である役職に就いた仏師、椿井双に向かって、
「空海阿闍梨が唐より持ってきた図面だけでよくぞこここまでのものを仕上げてくれたな」
と改めて感謝と労りの言葉をかけた。
冬嗣は昨年、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催する左大臣の職に就いた。
これで冬嗣は臣下として位人臣を極めたことになる。
長男長良のお披露目の宴で桓武帝皇子の良岑安世が自分と義弟の三守の肩を抱き寄せて、
「この中で誰が先に大臣になるのか楽しみだな」
と戯れに言っていた言葉が二十五年の歳月をかけてようやく実現した訳だが、本人はこの昇進はただ一日一日の務めを果たした積み重ねの結果に過ぎない。と齢五十一にして驕ることもなく時には自分の財を貧しい庶民に分け与える等の善行を人知れず行ってきた冬嗣の生き方こそ、
特権階級が果たすべき義務(ノブリス・オブリージュ)なのかもしれない。
「ちょっと気懸かりがあって寄ってみたのだが、な…もうこれで思い残すことはない」
と言って去った左大臣の妙にすっきりとしたご様子が双には気掛かりでならなかったが、翌月左大臣冬嗣の病臥でその予感は的中する。
なるほどねえ、宮中に閉じ込められていた空海が極秘裏に描いていた図面が「ここ」なのか。
と管絃の宴に呼ばれた橘逸勢はようやく全体が完成した葛野院こと嵯峨上皇の離宮を宮女明鏡に案内されて「湖面に映る月を見るために」わざわざ都の南東にあたる月が良く見える丘陵地帯を選んで作らせた大沢池沿いに
まずは避暑のための山荘、次に降雨祈願のためのお堂、と増築を繰り返しついには離宮造りの邸宅となった。
平安宮ほど広大で豪華はないが建材にも装飾にも最高の素材を使った離宮の瀟洒な造りを確認してから逸勢は、
なるほどね、このようにこだわり尽くした離宮の構想が倹約家でお堅い冬嗣どのに知れたら
「僭越ながら私人としての遊びの度が過ぎやしませんか?」
と遠慮なく建築を延期、または縮小されたに違いない。
設計者である空海を宮中に軟禁してまで隠した理由がやっと解ったよ。
…と逸勢は今更ながらに思うのであった。
「橘の逸勢罷り越しました」
と到着の報告を嵯峨上皇に告げた時、当の主は庭園の一角に作らせた花園で
「その水仙を五輪ほど根元から切り取ってくれ。こらこら葉は残さないと球根が育たないだろ」
と舎人に細かく指示して花を摘ませているところだった。
「来たか、橘秀才。花を摘んだら共に中食でも致そう」
「いいですねえ」
宮中では許されない身分差の二人がこのように遠慮のない会話が出来るのも離宮だからこその気軽さ。
「今宵は望月(満月)で楽人たちも夕刻には全員到着しますが今回の宴の趣旨は?」
と軽い中食をとりながら逸勢が尋ねると嵯峨上皇は珍しくさえない顔つきで、
「…実は、藤の夫人に色々あってな。好きな楽の宴でも開いて元気づけてやりたくて」
と寵愛する側室、藤原緒夏が兄である左大臣冬嗣の病臥に心を痛めて最近塞ぎこんでいることをそれとなく伝ると逸勢は、
「承知しました。この橘秀才、心を込めて夫人さまの気を晴らして差し上げましょう」
と真摯な態度で受諾すると上皇は「秀才が自分で秀才って言うものではないよ」と言って逸勢が来て初めて笑った。
夫と当代随一の楽の達人の快活そうな笑い声を御簾ごしに聞いていた藤の夫人こと藤原緒夏は、
違うのよ。
そうじゃないのよ。
と反駁したかったが上皇の側室である立場上口にすることが出来ず、橘の皇后さまほど信心は無いけれど私がこうして毎日数珠を持って読経に没頭するのは…
ご病気で実家にお戻りになられた多治比妃高子さまを思ってのことなの。
思えば緒夏が後の嵯峨上皇である春宮神野親王のもとに夫人として入内したのはまだ十歳の夏の頃だった。
緒夏は父である右大臣内麻呂がかなり年を取ってから生まれた待望の娘なので
手離したくはない。という本音が周囲にも透けて見えていながらも、
「皇家の妃となって子を成し、お世継ぎと血を後世に遺すのが藤原の娘の使命なのだから」
と形通りの口上を述べて緒夏を実家から送り出した。
後で兄冬嗣から聞かされたのだが父はその夜、「娘を捧げるのが慣例と解っていても…これだから藤原の男は辛い」とお酒に酔って泣いていらしたという。
藤原北家の威信をかけて贅を尽くした結婚道具と碁や双六の遊び道具。
そして他の側室たちよりも多い話相手の侍女たち。
後宮に居ても緒夏を飽きさせないものは全て揃っていたのに時折、緒夏の心に空虚なものが生まれるようになったのはやはり十四才になった夏の夜。
いつもなら眠る前の話し相手をして添い寝するだけだった閨で「…もう、いいだろうか?」と嵯峨帝は緒夏の肩を抱き寄せて口づけをし、結婚四年目にしてやっと本当の夫婦となった。
侍女からその事を聞かされた兄冬嗣は「これはこれはおめでとうございます、夫人さま」と端正なお顔に上品な笑みを浮かべてから、
「やはり橘の夫人が産後で宿下がり中の今頃ではないかと思っていましたよ」
…と彼らしくない余計な一言を言った。
ああそうか、夫が何年も私に手を付けなかったのは、
最も愛する女人、橘嘉智子が皇子を生むのを待っていたからなのだ。
と元々怜悧な性質の緒夏は兄の不用意な一言ですべてを悟った。
相手が実の妹なので冬嗣にも僅かに甘えがあったのかもしれない。
が、それは帝の側室に決して言ってはならない言葉だった。
確かに嘉智子さまはお美しい上に慎ましい人柄で自己主張というものをほとんどなさらない(それ以前に自己というものがおありなのだろうか)ので我がお強い性質の嵯峨帝にとっては一番心安らげる存在なのだ。
後宮の女人たちは橘嘉智子に嫉妬するのは無駄だ。
ととうに諦めていた。それどころか閨の度に一晩中寝かせてくれないほど賜る嵯峨帝の「過剰すぎる愛」は十日に一度くらいでいい。と内心辟易し、それを一身に引き受けて下さる嘉智子の存在を有難い、とさえ思った。
なかなか懐妊しない緒夏に兄冬嗣は心配するどころか「帝に御子が生まれすぎて朝廷としては困っている」とため息を漏らし「だから夫人さまは却って気楽だと思ってお過ご下さい」と言って妹を慰めた。
懐妊すれば懐妊したで思い悪阻の苦しみや身が引きちぎらるようなお産の痛み、御子が生まれたら生まれたらで健やかに育つよう気を揉み、一生悩み続けることとは無縁だと思うと本当にお兄様の仰る通りだ。跡継ぎはすでに嘉智子さまがお産みまいらせた正良親王がいらっしゃるのだし。
橘家と先祖(橘美千代)を同じくする実家は既に天皇の外戚なのだから。
と思うと緒夏は後宮で生きるのが幾分か楽になった。
しかし、女人として真の意味では夫に愛されず、藤原家の娘として御子を授かることの無い人生に何の生きがいがあるというのだろう?
後宮に入って七年目、心に生まれた虚しさが次第に大きくなり始めて遊び暮らしているだけで何も果たすべき義務がないこの人生、
自分から退場してしまった方が楽なのではないか?
と時折不穏な考えが頭をよぎり始めていた十七才の緒夏に転機が訪れたのもまた夏の宵であった。
藤の花は咲き誇る時が一番美しいのだけれど散った後は古びた蔦にしか見えなくて寂しいのよね…
藤の花見の宴が開かれた実家から戻った翌日の夜、廊下を歩く緒夏に向けて
紫藤 雲木に 掛り
花蔓 陽春に 宜し
密葉 歌鳥を 隱し
香風 美人を 留む
と柔らかな女人の声がしたので立ち止まるとそこは多治比夫人高子の部屋の前であった。
かぐわしき紫のふじの花、やわらかき雲、尊き大木にかかっている。
きれいな花は蔦のように絡まっている、万物が性に目覚める春にふさわしいことだ。
肢体は葉のように密着し合い、宮妓たちの歌声、はしゃぐ声は帳に隠れている。
かぐわしい宮女たちの香りは風に乗ってくる、その中で特に美しい人を引きとどめる…
これは唐の詩人李白が楊貴妃を「まさに玄宗皇帝の御心を射止めるのに相応しい方だ」と褒め称える漢詩、
紫籐樹。
「藤の花の化身の美しい姫君、どうして暗い顔をなさっているの?」
御簾の向こうの高子の声は緒夏を心配してくれているようだ。
「唐ではそうかもしれませんがこの国では籐の花は既に散り、橘の果実に日が当たっているのです」
若さゆえか緒夏は夫嵯峨帝の橘の夫人への過剰な寵愛とほかの女人たちに対する冷酷なまでの公平さへの不満をつい口にしてしまった。
御簾の向こうで重苦しい沈黙が流れた。
「お入りなさいな、若く美しい姫君」
やがて白くふくよかな手がちらり、と御簾の脇から出てきて緒夏を手招きし、緒夏もそれに従った。
夜更けの灯火に照らされた室内で見る多治比夫人の容貌はなんというか、糸のように細い目と腫れて落ちそうなくらいふくよかな頬をなさっていてお世辞にも美人とは言い難くて。
色白で肌の肌理が細かくて、衣の上からでも豊満な体つきをなさっているのが惜しい、と緒夏は思った。
「まあご覧の通り私が容姿で自慢できるのは首から下しか無いわ」
と今考えている事をずばり、と高子に言い当てられて緒夏はこのまま黙るのは思慮浅い娘のすることと思われるので「で、でも高子さまは漢学の造詣の深さで帝のご寵愛を集めておいでですわっ!」と咄嗟に返した。
緒夏さまは何を言われても切り返しができる教養の深さを持っている。さすがは藤家の姫君…
と高子は驚きと興奮の眼で緒夏を見つめ、
「おっしゃる通り仕える主が一番好むものを学んで主の御心を慰めるのもまた夫人のつとめ。
私の場合はそれが漢学でしたけれどね。
安心なさい、わたしたちの帝は玄宗ほど怠惰で淫猥でもなく、全てにおいて及第点以上なのだから李家よりもましな家に嫁いだのよっ!」
唐の皇帝を呼び捨てにした強烈な言葉で高子は緒夏を叱咤激励した。
そのあまりにもあけすけな口調に、緒夏は笑った。
いったん笑い始めると止まらずそれはもうころころと笑い転げた。そして宮中に入って心から笑ったのは初めてなのだ、と緒夏は気づいた。
侍女に持って来させた冷酒の瓶子が一本、また一本と増え、二人の夫人は酔いに任せて宮中生活での鬱屈や夫への不満など口に出したくても言えないことをぽんぽん語り合えたのは一番口が堅くて信用できる宮女、明鏡を傍に置いていた安心感からなのだろう。
「…とにかく我が主は政務も遊び(この場合は楽や歌など)も狩りも色事も、過剰に取り組み過ぎるのよね~」
「ほぉんとうですよ~、御子だってもう二十人以上お生まれになっているのに(嵯峨帝は生涯で女人に子を産ませた数、五十人以上)新入りの侍女が来たらすぐ、なんですよぉ~一国の主が手あたり次第なんて信じられませーん!」
やがて二十本めの瓶子が空になり、二人の貴婦人が折り重なるように熟睡したところで夜明けにお越しになった嵯峨帝が高子の部屋に足を踏み入れると、
「うっ、酒臭っ!」
と鼻をつまんでいつもは品良く振舞っている側室たちの醜態に思わずのけぞってしまった。
「…とにかく、夫人さまがたの御心は全てこの明鏡が聞き取りましたがお二人のご名誉の為に胸に留めておきます。悪いのは全部、帝なんですからねっ!」
矛で胸を突いてえぐるような明鏡の一言で嵯峨帝は高子と緒夏の不満を募らせる心当たりなど…数え切れない程作ってきた自分の今までの行動を省み、
「解った、今後は夫人たちを怒らせないように気を付ける」
とくか~と鼾をかいて眠る妻たちに寝具を掛けてあげた。
その頃から嵯峨帝、宮中での管絃の遊びや漢詩の宴をよく催し、楽器の音色や男たちの唱和の音声を聞かせて後宮の妻たちの気晴らしになれば、と心を砕いた。
夫人たちが初めて心を開きあったその夜から十三年間、緒夏と高子の友誼は続いた。
「私は多治比という存在も忘れられたような家の娘で容姿もさえないからせめて学問でも、と四書五経を暗記させられてそれがたまたま漢詩好きの帝のお目にかなっただけのこと。
侍女を受け入れるだけの部屋も無くて、父や兄に恥をかかせたくないから多治比の実家には帰りたくても帰れないのよ」
と時折こぼしていた多治比の妃(弘仁六年に妃となる)が意を決して実家への宿下がりを上皇様にお願いなさったのはきっと病が進み、自分の命の終わりを悟ったのかもしれない。
「そのようなことを口にしたのは入侍以来初めてだね…解った、実家に帰って思う存分休みなさい」
上皇様はひとつうなずかれ、高子さまは「なるべく早く体を治して戻ってまいります」とすっかり頬のふくらみが削げ落ちたお顔を団扇で隠して拝跪なさるのもやっと、というご様子だった。
「藤の夫人さま、後はよろしくお願いしますよ」
と御車に乗る前、高子はやっと団扇を外して細くなった顔を緒夏に見せて無理に笑った。
誇り高い高子さまはきっと、病みやつれて死んでいく様を上皇さまに見せたくはない。という一心で宿下がりを願い出たのだ、と緒夏には解っていた。
「また、藤の季節が巡ってまいりますわねえ」
「実家から藤の枝を取り寄せます。また杯を交わして花見でもしましょう」
それが、後宮で女人同士の友情を育んだ二人の最後の会話となるのはお互い言わずとも解っていた。
「緒夏、もっと端近においで」
と嵯峨上皇は御簾の下に手を入れて緒夏の手を握り、御簾の向こうの大沢池に映る望月と、それを背景に橘逸勢をはじめとする楽の上手の貴人たちが澄み渡るような音色で奏でる楽の美しさに、緒夏は生涯の友との別れの辛さをこの間だけは忘れることが出来た。
翌月の天長三年三月二日(826年4月12日)
嵯峨上皇妃、多治比高子薨去。享年三十八才。
臣下の家の娘が内親王のみに許される妃になり、死後従一位まで追贈された高子は、それだけ嵯峨上皇に愛された女人だったのだ。
高子さま。
いま実家の庭では貴女が楽しみになされていた藤の花が満開です。
あの夜、貴女が御簾ごしに紫籐樹を読んで下さったから…
私は今、この時を生きています。
と緒夏が垂れ下がる藤の花房の下でたそがれる季節も、
暦の上ではもう、
夏─
後記
嵯峨上皇の寵愛を嘉智子が一身に集めるその横で側室、緒夏と高子の本音。