嵯峨野の月#24 佐伯家の人びと・玉依
第一章 菜摘
第二十四話 佐伯家の人びと・玉依
「言っとくけれど、あんたみたいな汚い乞食坊主にやる食いもんなんてねえよ」
とにべもなく農夫は言い放った。
「ですがいまもいでらっしゃるものは?」
ああん?と言いながら農夫はすくい上げるようにもいで「これは梨だが、あんたが食えるようような代物じゃねえ」
「では、食えない梨なのですか」と煤けた法衣を纏った青年は微笑みながら問うた。
「酸っぱい梨だからあんたにはやらねえよ。それより子連れで物乞いなんかしてねえで働け!」
と農夫は托鉢の二人の目の前でがりっと梨を一口かじって、おお、酸っぱい酸っぱい!と大仰に吐き出して見せた。
「行きましょう叔父上、なんて因業なじいさんなんでしょう!」
と農夫の吝嗇さにさすがに呆れた知泉は、とっとと目的地の寺に行こう、とばかりに叔父の袖を引いた。
ま、いても仕方がないな。とつぶやいて歩き出す青年は佐伯真魚。
自らの法名を「空海」と改めて間もない私度僧である。
さっきからにやにや笑っているので智泉から怪訝な顔をされ、
「ああ、酸っぱい梨でも大事に育ててそれを買うてくれる者がいるんか。と思うと可笑しくてな」
とふふ…と声を立てて笑った。ああ、叔父上はどんな状況でもお気楽なんだな。と感心してしまう。
時は延暦19年(800年)の、夏の終わりの頃。室戸岬での荒行を終えた空海は
「こんな痩せこけた恐ろしいなりで実家に帰る訳にはいかん」
とまず剃刀で髭を剃って髪を短く刈ってから室戸岬を出発し、体に肉を付けるまでという理由で土佐、伊予、阿波、を巡って寺の軒先を借り、火を焚いて野宿したり、時には農家からの歓待を受けたりと、のんびりと托鉢の旅を続けているように見えた。
が、この賢い僧侶見習いの少年は、叔父が実家のある讃岐を後回し後回しにしていることにとっくに気付いていた。
体つきなんて、たった一か月で元に戻っていらっしゃるじゃないか!
「つまり叔父上は、佐伯の実家に帰りづらいんですね?」
と智泉が胸に仕舞っていた言葉を叔父の背中にぶつけると、空海の両肩の筋肉があからさまにぴくっ、と上下した。空海はまず立ち止まって空を見て、次に地面を見てそれから甥っ子の方を振り返り、
「さ、さあ、鑑真和上ゆかりのお寺までもうすぐやで!」
と足早に歩きだす。
「もう、おじうえー!」半年も叔父空海の修行の旅に付き合っている内に智泉も、叔父を追いかけるほど俊足になっていた。
「長旅で喉がお乾きでしょう」と屋島寺(香川県高松市)の住職が出してくれた梨は、明らかに途中で断られた農家のものであった。
空海と智泉は一瞬複雑な表情を浮かべてから「有難くいただきます」と合掌し両手で梨を掴んで皮ごとかぶりついた。
甘い果汁と柔らかい果肉が喉から体中に染みわたりたちまち体中の疲れが癒えていく。
「残念ながら当寺ではあなた方を泊めたりはしませんよ」
出された梨を全部平らげて人心地ついている空海と智泉に、住職は穏やかな笑顔のまま冷水のような言葉を浴びせた。
「あなたが子連れで近辺をうろうろしているのは、もう辺りに知れ渡っています。佐伯氏の倅、今日中にご実家に帰る事ですな」
仕方あらへんな…空海は観念してお堂の天井を仰いだ。
讃岐国多度郡の郡司の妻、玉依は宵の明星が空に瞬くころ、外に出て15で家を出た息子の無事を祈るのが毎日の習慣になっていた。
真魚が大学寮に合格した時には「貴族のご子弟がたが通う学び舎に豪族の子が入って、いじめられはしないかしら?」
と心配し、一年足らずで大学寮を飛び出した。と聞かされた時は「真魚に何があったの!?」と卒倒して三日間寝込み、
どうやら真魚は出家したいようだ。と弟の大足から息子の手による出家宣言の手紙が届いた時には、
内容よりも見覚えのある我が子の筆跡を確認すると、ああ、この美しい字を見るのは幾年ぶりかしら…と涙を流した。
山々で修行をしていると聞いたけれど、賊に襲われてはいないかしら?
家を出てからもう10年以上になるが、玉依の中の真魚は旅立った頃の気弱で泣き虫な少年のまま。
私の心の中の、心配の泉が涸れることはないのだ…と玉依は毎日祈る事しか出来ない我が身を不甲斐なく思い続けた。
何故か今朝は夜明け前に目が覚めて、外に出るとまず目に飛び込んだのは明けの明星。
それからずっと妙な胸騒ぎがして、一日に何度も戸口から外に出ては「奥様どうされたんですか!?」と変な顔をされた。
気が済むまで宵の明星に向かって辺りが暗くなる頃ふと顔を上げると、
僧衣姿の青年が、逡巡した様子で門の脇からこちらを覗き見ている。
おもわず玉依は二、三歩進んで
「…真魚なの?」と呼びかけた。
青年はまるで叱られでもしたように首をすくめ、上目づかいにこちらを見た。
面代わりしてずいぶん精悍な顔つきになりましたね。
衣を二重巻いたみたいに筋肉がついてが逞しくなりましたね。
けれど、母には分かりますよ。
だって自信が無い時のあなたの背中の丸めかた、子供の時から全然変わっていないんですもの。
玉依は「いいからお入りなさい」と首を垂れる息子の背中に手を回して抱き寄せた。
「ご無沙汰…しております…」
と地面に頽れて母にしがみつく空海の、ぐずぐずに泣きじゃくる姿を見て智泉は
ああ、「真魚は小さい頃泣き虫だったのよ」という母の話は本当だったんだな。
といつもは超然としている叔父の人間臭い部分を見て、何か、安心したのであった。
なんで、こうなったんやろ?
と空海は実家の大広間の宴席に座らされながら困惑していた。
いつの間にか自分は直垂と括袴という普段着に着替えさせられている。
家に入るなり「このかぎ裂きだらけの法衣は、母が洗って手直しします」と母と使用人たちに手際よく衣服をはぎ取られ、行水で体を洗って久しぶりに清潔な衣を肌に付けると、
帰って来たんやなあ。という想いがじわじわと肚の底からせりあげ、ぼうっと感慨に浸っていたかったのだが、
決してそうはさせぬ者が「真魚ー!」という叫び声と共に妻子を連れて戸口から乱入して来た。
空海の十歳年長の兄、鈴伎麻呂が肩で息をしながらいきなり空海の髪と顎を掴んで目鼻立ちと顎の中央にあるほくろで弟に間違いない、と見分すると
「十年以上も便りを寄越さんとは何事か!?この忠孝を忘れた大馬鹿者がっ」
とぱあん!と音が鳴る程弟の頬を思いっ切りひっぱたき、すぐに涙鼻水を流しながらに抱き締めて激しく嗚咽した。
あらあら、情に厚いのは佐伯家の血ね、と玉依は膳の支度をしながら兄弟の再会を微笑ましく見ていた。
真魚が帰って来たから宴だ!
という父、善通の号令のもと、兄弟親戚たちが集まって急ごしらえの宴が始まってしまっている。
「何だ、酒も肉も魚も本当に食わんのか?つまらん」
と讃岐佐伯氏の長で空海の父、佐伯善通はにごり酒を満たした杯を息子にやんわり押し返されたので日焼けした顔に渋面を浮かべた。
あなた、と玉依が夫の袖を引いて窘める。
「真魚はお坊さんになるのですから当たり前ですよ」
「しかし、寺に入ってないんだろ?おまえいい年なんだからちゃんと何処かの寺に所属して父を安心させてくれ」
「へえ…でも奈良の寺には」
入りたくあらへん、と言いかけて空海は父から目線を反らしたが、善通は追及を止めようとはしない。
「入りたくない、ってそんな我儘言える年齢か?お前の兄の酒麻呂と魚主は都で役人になって務めを果たしているというのに…
寺が嫌ならやっぱり大学寮に戻るか?」
「あなた」
「だいたい玉依、お前が貴物といってこいつを甘やかすからこのようなふらふらした子に…」
「まあ!あなただってお仕事で留守で、子らの世話は私がしてきましたのに」
あかん、両親の会話がなんだか不穏になってきた。が、
話の矛先が自分から反れた隙に空海はすばやく両親の傍から逃げ出し、瓶子(徳利)を持って長兄の鈴伎麻呂に酌をしてから、大人たちの宴会に飽きてはしゃぎ回る子供たちを見て
「私が居ない間に、一族も増えましたねえ…」としみじみと言った。智泉も久しぶりに従姉弟たちと遊んで子供らしい笑い声を上げている。
「皆、お前の甥や姪だ。子が増えたのは佐伯の家が豊かになった証だ」
と新鮮な海の幸を肴にすっかり酔いが回った鈴伎麻呂は、満足そうに大きくうなずくと、
(…そうだ、また兄弟が増えるぞ)と急に声をひそめて弟の耳元に囁いた。
「母上、此度はご懐妊おめでとう御座います!」
兄の言葉を受けて嬉しさのあまり空海は祝いの言葉を述べたつもりなのだが、母の顔からはすっと表情が消え、盛り上がっていた場が急速に静まり返った。
「言っておきますが、私が産むんじゃないのよ真魚」
と玉依は慈母の微笑みを浮かべて立ち上がり「酔ったので夜風に当たります」と宴の場から出て行ってしまった。
「おまえ女人の事に関してはほんとうに無知なんだな…50過ぎた母上になんて事を」と鈴伎麻呂は呆れ果て、どん!と弟の胸板を小突いた。
(実は、父上が水夫の娘に手を付けて出来た子なんだ…年明けには生まれるそうなんだが、母上は佐伯の子として引き取って育てると仰るのだよ)
(母上は相変わらずお優しいですねえ)
揃った両親に挨拶した時感じた違和感というか、醒めた空気の正体はそれか。
わし、要らん事言うてしもうた…。
と再び盛り上がる宴の中、空海は口を押さえて一人うなだれた。
翌年生まれた男の赤ん坊は、九年後に空海の手で出家させられ後年、清和天皇の護持僧になった。
法光大師真雅は空海の実の弟なのである。
後記
「お前に食わせる梨なんてねぇ!」の元ネタは香川県の昔話、食えずの梨より。
実家あるあるに翻弄される空海。