ヤクサヒトミチ...…人間の思考の在り方 カムナガラノミチ 8 【直観物理と相似象 その 26】
ヤクサヒトミチ……人間の思考の在り方
ヤクサヒトミチとは、人間の思考の在り方についてのサトリのことです。(「相似象」第5号参照)。「考える」とは、日本語においては<カムカヘル>(カムにカヘり(帰り)、カムからカエる(孵る、発生する))という言葉の思念と一致し、その中には、日本語の一貫性と高度な哲学が示唆されています。
楢崎皐月は「相似象」第5号の中で、「ヒトのミチはアマ始元量から発生して、八方に分裂して拡がって行くが、拡がって分裂しただけであってはならず、常にカムに帰る(カムカヘル)ことを求める必要があり、その思念をもって「考える」という言葉が発生した。」と書いています。
後代になって、人々はこの基底思念を忘却してしまいました。スピリチュアルの言葉で言えば、人々のエネルギーの波動が下がり、意識の段階が三次元レベルに低下してしまい、その源に帰ることを忘れてしまったという事です。そこには地球を占拠して人々の進化を抑制して支配しようとする、宇宙の闇の勢力の陰謀があり、地球人の寿命を縮め、意識レベルを低次元に留めたまま支配することを企図する、転生輪廻のシステムがあったのです。
しかし、闇の勢力の覇権に堪え、秘かに闇の勢力からの地球奪還を企図していた光の勢力は、数万年の分裂思考の遍歴の期間を経て、とうとう今の時期になって、潜象界での長い戦いに勝利し、現在、地球人の意識レベルを上昇させる環境を作りつつあります。
それに呼応して、現象界でもイベントの兆候が現れ出し、これまでDS(Deep State)をはじめとする、闇の勢力とつながるエリート組織が世界を牛耳り、やりたい放題をやっていたことの阻止と抑制、例えば経済界での金融リセット(量子コンピューター導入、GCR(Global Currency Reset )/RV(Reset Value)等)や、政界・社会でのディスクロージャー(2020年米大統領選における、外国勢力介入による国家反逆罪に当たる大規模な不正や、COVID-19とコロナ・ワクチンの欺瞞、全世界やウクライナ政府の児童臓器不正売買・隠蔽の事実の暴露、等)により、これまでのエリート組織の牛耳っていた独占システムを崩壊させ、全人類平等な社会を造り上げようとする動き(NESARA / GESARA)がだんだんと活発になりつつあります。
以上、一連の流れはイベントと呼ばれます。
また、スピリチュアルの世界に繋がる人々の間では、イベント後の宇宙規模のアセンションを目指す動きが目に見えて現れ始め、その中で、ソース(源)に至る道を指向して、統合によってワンネスに戻る事を志す人々が現れて始めてきました。
カタカムナ流に言えば、ヒトのミチの原点としての、カムカエルミチをサトろうと、意識する人々が出現しているということです。今の時期になって、それまで封印されていたカタカムナの存在が世に知られるようになったのは、それがアセンションに向かう動きの一環であって、その為の重要な情報を含むものであるからだと言っても良いのではないかと思います。
第49句 「考える」とは
<アシカビ>とは、縦横の意で、縦に伸びる葦と、横に拡がる黴から派生した言葉です。
<クマリ>は、区限りあるカタチ(アマからクギられて自由に発生したマリ)、すなわち個々物質を意味し、また、人と人との境を追い払う「無我」のサトリの根拠を示すものです。
<ヤクサヒトミチ>は、人間の思考は、八方に(ヤ)自由に(ク)分裂して行く(サ)ものですが、しかし同時に、分裂したままであってはならず、基に帰るミチを知らなければなりません。それが、人間のミチとしての「カムカヘル」ことなのです。
第50句 無我の境地に至るには…カムカへルこと
<ウツヨ>とは、個々物質(ツ)が発現する背後(ウ)の世界(ヨ)、すなわち現象以前のカムーアマの潜象界を意味します。「ウ」の思念は、ウシロ、ウラ、ウヘ、ウソ、ウタ、ウミ等の語にウツって(反映して)います。
<クマリ>については、第49句説明を参照してください。
カタカムナのサトリによれば、「我」は「クマリ」であり、「無我」は、そのクマリのクギリを通して、無限界に自由に出入りするスガタです。
この無我の境地に至る方法(ミチ)は、「カムカヘル」ことにあるというのが、この句の意味するサトリです。
第51句 万象を尊重し、すべてに感謝するのは何故か
この句は、万象を尊重し、すべてに感謝するのはどのような理由によるかをサトしたものです。現代社会の種々の争いのもとは、「我」との異なりを「敵」と見做して争うところにあり、それは、根本的な人道の知恵を欠くものであることを思わされるのです。
支え合いは、日本人社会において無意識に行われている現象ですが、その自然観の原型は、カタカムナにあります。社会の調和は、いいかげんに同調してバランスしていれば良いわけではなく、どのようなササエ方をすれば個々本来のナリ(本性)を失わずに全体の平和が保てるか、という問題に対して、<モロカゲ>の存在や、目立たぬところで「ササヘ」となっている人がいることが、天然の相似象であることを意識して、すべての根元であるカムにカヘって考えるのが人の道であることをサトしています。
これは、次の句にも通じることですが、人は、物事がうまく行っている時には有頂天になり、自分の力を過信しがちです。また、うまく行かないときには他人や自分以外の条件のせいにすることが往々にあります。しかし、うまく行ったときこそ、多くの見えない力に支えられたお陰であることを、逆に、うまく行かないときこそ自分のやり方に問題があった事を反省するという、謙虚な心を持つべきなのではないかと、改めて思います。
第52句 カムに奉仕する精神
この句は、謙虚な気持ちと奉仕精神で、人に交わり社会を益することが、人の道の在り方であることの根拠を示しています。
<ホミ タカラ>は、「身に着いた宝」、すなわち天分、知識、能力等、個人の固有の財産を言います。それは個人の努力によって身に着いたものですが、しかし、自分の力に拠ったという氣持が少しでもあると、高慢心がちらついて、歪現象が生じます。そこで良心的な人は、謙譲心をもって、自分以外の存在のお陰であることを表現します。宗教はそこに神の力を登場させることになります。
善意で為される社会奉仕が、施しを受ける側に抵抗を感じさせるのは、「与えてやる」とは「神に代わって与える」というような優越感的発想が人の心に低迷するからなのです。
「カムカエル」のサトリは、人間の思考の在り方も、あくまでも、天然自然のルールの「本来性」に則り、次元を変えて始元にカエルべきであることを示唆する、非常に高度な内容となっています。
<ツカヘ>は、奉仕を意味しますが、その基底思念は「その存在を認めること」であり、その重要性を認識した時に出てくるのは、じぶんもツカヘ棒のようになって、それを支持しようという氣持です。そのように「ツカヘ」は、本来自分からの奉仕の行為です。
したがって、「カムツカヘ」は、「カム」を認めて、表からは見えない、カゲにあって、人々へのササヘになろうとする自主的な態度を言うのであって、神様にお供えを備えて拝む意味でもなく、一方的な信心や同情サービス精神で奉仕を行うことでもないのです。
このような謙譲の精神をお互いが持てば、人間社会の摩擦を減じ、スムーズに運営して行く原動力になることは云うまでもありません。
第53句 天然自然の姿は人の世の根本原理
人の悲しみ苦しみの具体例や、損得利害の末端的出来事に則して説教するような、現代の宗教教義とは異なり、カタカムナでは、この句の如く、「天然自然のスガタ」をもって根本原理をサトし、人間にとってもそれがマットウなミチである所以を教えています。このような精神のもと、精神的平衡のカンを養えば、末端的なトラブルは自然と抑制の方向に向かいます。カタカムナの教えは、病気にならないように環境条件を整えるべきであるとする、予防医学的な、高度の配慮(直観)に基づくものであります。
第54句 正反両面の考慮は真の謙虚さを生む
この示しは、劣等感や優越感の原因を明らかにして、卑しにも貴しが、貴しにも卑しが秘められ、醜にも美があり、美も醜を兼ね、どのような人も、正反の両面を備えているものであることを、根本(カム)にカヘッて考えることが、人の心に真の謙虚さを生む道である、というものです。
第55句 イマタチの認識の重要性のサトリ
この示しは、永遠の生命の実態を<イのチ>とサトり、物にも心があることをサトり、すべてが統計的無常の存在、すなわち<イマタチ>であるとサトることが、人の道の、根本的な考え方であることを伝えています。
第56句 報いなき努力と精進により得る安定感
この示しは、報いなき努力と精進によって、安定感が得られると考えることが、人の道であるとしたものです。
人間の社会では、人の努力や誠意などが正当に評価されることはまずなく、虚名が栄え、不遇の天才等の話も多々あります。
人生は常に<イマタチ>であるから、<イマ><イマ>に続く新しい<イマ>は、過去の蓄積が関係する面と、新しい条件からの面があり、多年の労は必ずしも報われるとは限らず、むしろ徒労に終わることが多いものです。しかし、それだからこそ、過去はどうあろうと、<イマ>の更新によって新しく生まれ変われるチャンスもあります。
ここでは、このようなコトワリをサトって徒労に堪え、新しい<イマ><イマ>を恒常的に迎える態度が、人の道であるとしています。
カタカムナのサトシでは、人々に考える(カムカヘル)方向を与えているのですが、教えてくれた人を有難がって祭り上げるのではなく、示されたコトワリの内容を自ら得心して「サトリ」、示された<カムーアマ>という存在を、アリガタイ対象として仰ぐことを良しとしています。
サトリをひとつひとつ教えてくれた恩人に対してのアリガタサの念は持っていても、カタカムナ人の意識は、師の恩に感謝を捧げるよりも、示されたアマーカムを畏敬し(カシコミ)、天然自然のルールをサトル事に専念するように教えられたのだ、と楢崎皐月は言っています。
カタカムナのサトリにおいては、「人間の正しさの根拠」が示され、アマーカムの物性と、アマーカムの対向発生の物理(天然理)による、宇宙創成や生命誕生の直観が述べられています。一たびこの根拠が明らかになれば、人の道は自ずと正しい方向をたどるようになり、それに基づいた、さまざまな生活技法が発達するわけです。このように、常にアマーカムの根拠にカヘってカムカエルのが、「考へる」という日本語の根元となっている思念なのです。このように、日本の伝統文化は、カタカムナの伝統なしには存在しなかったのです。
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