生島の話
車谷長吉という作家が好きで、初めて読んだ彼の小説『赤目四十八瀧心中未遂』の主人公が生島と名乗り、苛烈硬質陰湿な筆致で描かれる薄暗い集合住宅の一室で、周囲の人々に冷笑と罵倒を浴びせられながら鶏身やらもつやらの串打ちをして過ごす寒く無気力な姿に、当時は自分を見る思いがした。
彼の作品の多くが自伝的私小説であり、主人公が生島と名乗るせいで、車谷という存在は一時期他人事ではない共感と恐ろしさがあった。
しかもその頃、彼は健在だった。
生島という姓の他人に会った記憶はない。
世の中にその名を持つ人が何人もいることは知っているが、私の暮らしの中で生島と呼ばれればそれはすなわち私のこと、もしくは家族親類のことだった。
だから全く個人的で、平素耳慣れぬ生島という言葉が文字として小説に頻発するなど、それだけで胸ぐらを掴まれる思いがした。
私の先祖は久留米藩有馬家の下級武士で、かつては姫野と名乗っていたそうだ。
今も久留米市内浄土宗の寺に墓がある。
江戸中頃に、家に何らかの不幸があり、姫という字が凡そ武士らしくないという理由で生島へ改名したという。
先祖は謡曲『竹生島』からその名を取ったと、言い伝えが残っていて、これには実に納得いかない。
竹生島の竹を取って、生島としたのはどうも不自然な印象がする。
話をしてくれた父に問い詰めてみるも「そうやって伝わっとるけんな」と笑うだけである。
有馬家は播磨一帯を拠点とした赤松氏の庶流で、1620年に丹波福知山から加増移封となった。
表向きは大阪の陣の戦功により、となっているが、当の有馬家も「なぜ加増移封になったのかわからない」と言ったとかいう話は、なかなかいい。
久留米の姫野は二流あり、この有馬家についてやってきたものと、それ以前南北朝の頃に富山の姫野という土地から南朝方としてやってきたものとある、と何かの文献かサイトかで読んだ記憶。
その違いは家紋で分かるとのことで、我が家は引き両。
生島という姓は播磨に多く、元はその一帯の水軍ではなかったかという話もどこかのwebコミュニティで読んだ。
瀬戸内に数ある島々の中に生島という島があるらしいし、生島という国生みの神がいるとも。
私の先祖と車谷が、生島を名乗った理由は判然としないが、伝わっていない、あるいは意図的に隠された生島という人物への思慕の情があったのか。
いったい生島を名乗ることで、何を受け継ぐ、あるいは主張しようとしたのか、しなかったのか、知りたくもあり知りたくもなし。
今はその存在を偲ぶべくもない人々の営みの積層を思わずにいられない。
書きたかった話と大幅にズレてしまったので、この話は続く。
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