坂東について
昨日郷土史会があった。会長が発表した奈良時代の移民政策について、補足的な情報を追加するつもりで「坂東」という言葉についての、自分なりの認識を会長が発表したあとに発言してみた。だが、話してみて、うまく伝わっている気がしなかったので、簡単だけど、ここでも触れておきたい。
私が言いたかったことは、「坂東」という言葉が使われる前と後では、中央の関東に対する意識が変わったということだった。分かりづらいと思うので、以下説明を試みたいと思う。
「坂東」という言葉の初見は「続日本紀」の記事の中、神亀元年(724年)四月癸卯条に
が最初だった。「続日本紀」というのは、文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)までの歴史を扱い、菅原真道(741年-814年)らによって編纂、797年に完成した。このことから、概ね奈良時代に奈良時代のことを書いており、この頃には「坂東」という言葉が使用されていたことが分かる。
奈良時代以前は、どうだったのだろうか。wikiでしか確認していないが、奈良時代以前の関東は「アヅマ」や「アヅマノクニ」だった。アヅマを指す地域は、時代によって変遷があるが、飛鳥時代以降は、美濃国・信濃国・遠江国の東側からエミシ世界との境界を指すようになり、天武朝の頃には東海道諸国を「アヅマ」「アヅマノクニ(東国)」と呼んだ。これは概ね現在の関東に当たる。
つまり、7世紀後半には「アヅマ」としか呼ばれていなかった地域が、奈良時代のころになると「坂東」とも呼ばれるようになる。このように、呼び名が加わったのは、関東に対する中央政府の意識が変わったからにほかならない。つまり関東に対して、あらたな概念を持つようになったのだ。
この点で、興味深いのは、「坂東」という言葉を研究した人がいて、その人によると、「坂東」という言葉は、軍事的な文脈で用いられることがほとんどなのだそうだ。この指摘は比較的受け入れられやすいと思う。鎌倉時代に活躍した「坂東武士団」のように。
「坂東」という言葉は、軍事的文脈で用いられる。このことは、奈良時代を理解するうえで非常に重要だ。奈良時代というのは、律令制度を全国に敷衍する時代で、東北の地も例外ではなかった。当時、北東北の地には中央貴族が「蝦夷」と呼んだ人たちが住んでおり、この人たちをも律令の色で染め上げるのが国策となったのだ。
冒頭の郷土史会の会長の発表のテーマであった移民政策も、もちろんその位置づけに置かれる。奈良時代、朝廷は関東から蝦夷の地に大量の移民を送り込んだ。それは植民地政策の一環であり、それ以外の何ものでもない。こうして関東は、北東北植民地経営のために移民を送り込む供給元となった。
「坂東」という言葉が生まれたのは、以上のような背景があってのことだろう。よく足柄峠・碓氷峠以東にあるから「坂東」と呼んだと説明されるが、たしかに地理的位置としてそうだとしても、本当にそれだけの説明でとどまっていいのだろうか。その地域になぜ特別な名称を用いたのか、新たな言葉をつくったのか、そこには関東に対する新たな位置づけ、意味づけがなされたからにほかならないのではないか。私はそう信じて疑わない。
最後に、一言付け加えておくと、私は奈良時代の移民政策というのは、植民地政策の一環だと思っている。しかし、郷土史会では、どうもその点あいまいにしているようで、やれ鉄が目的だった、やれ米が目的だったと、自分からすると、ミクロの話、下位概念の話をしているなと感じる。そうではなくて、やはりおおもとにあるのは植民地経営であり、そのための鉄であり、米だろう。植民地とは、軍事的・経済的に支配される地域のことで、律令政府は移民を用いてそれを目指したのだ。昨日の郷土史会では、どうも移民政策を軍事政策と結びつけないような意図を感じたので、腑に落ちなかった。