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交通は利益が出ないなら撤退して良いと思う。

過疎地で、あるいは郊外で、公共交通機関が撤退するニュースが続いている。バスの撤退。鉄道の減便。
私は、税金で埋め合わせ続けるのは違うと思う。

最低限度の生活は、国民の権利だ。
けれど、充分な予告期間を置いた場合、それは、本人の選択による意志だと思う。
だから、長くても11年未満の予告期間を設定して、路線の撤退や廃止はして行くべきだと思う。

住み続ける権利もあるが、引越す自由もある。
だが、極端な例を示すと、
山奥に住む、Aさん。生まれ育った家で住み続けている。息子も娘も市街地に近いところで病院の近くの同居を勧めているが、それを断って終の住処としたいと言っている。昨年免許を返納したAさん。公共交通機関のバスが、山頂〜Aさんの家の近く〜駅前まで通っているが、乗客が少ないため、今年の春にバス会社は撤退。市の税金で朝夕の2便/日を維持している。乗客は病院に通うAさん、ほとんど登山客はいない。

この場合、Aさんの通院を、ほとんど税金でまかなっていることになる。
この状況は、本当に、正しい権利なのだろうか?

気持ちはとてもわかるが、市民で平等に負担する問題だろうか?とネガティブな意味で思う。市民のほとんどが享受できない用途で、使用されるのだ。
逆にこの路線を活かして、登山客や観光資源として活用するくらいの気迫が欲しいところだが(笑)
そこまで魅力のない場所であればしかたない。


上記の例だと、「本当に最後の一人まで面倒を見るのは違うだろう」とか「タクシーの半額程度なら」とか、他のアイデアも出てくるだろう。
けれど、この状況が、もう少し大きな規模で、「バス会社の路線休止」や「撤退」、「鉄道の廃線」という現実に現れている。
集落は確かにあるが、通学する者はピーク時の1/5000に減り、出稼ぎ労働者や通勤で使う者ももういない。
そんな路線が多くある。

鉄道やバスなどの民間交通機関は、やはり、利潤がないと継続できない。最悪でも、経費を捻出できなければ、ボランティアでは実施できない。
ある意味で、集落の死を受け入れなければならないのが、今の日本の姿だと思う。

それが嫌なのならば、人の去った集落丸ごと買い漁り、テーマパークの経営手法で全ての「人の手が入った自然」を維持し続けることに責任を持って取り組まなければならないと感じる。税金ではない、個人のポケットマネーでやれるのならば、集落の維持を望む発言をする権利があると思う。
ただ嫌だ淋しいという感情だけでは、もはや食い止められないところまで来て、それすら通過したのだ。

けれど、過疎地は過疎地でわかりやすい原因と結果があると考えている。それは、「自分の息子や娘世代がその集落に残らなかった」という現実だ。
どこかの世代から、徐々にではあるが、人が減っていったのだ。しかし、過疎地になる地域は、それを為す術なく見送ってきたのだ。
私は過疎地を眺めていて、もう、その時点から50年以上かけてじわじわと納得してきたんだろうと思う。
結局、不便なままなのだ。
その時代、その時代で必要な高度な教育や稼ぐ企業の集積、子育てしやすい環境を他に依存して、けれど、結局、不便なまま、住む理由をつくれないまま、今に至るのだ。

きっと、日本という国家も、「日本語」という極めて不便なインフラを抱えたまま、ガラパゴス化して、じわじわと納得していくのだ。
どこかであらがうか、絶妙な均衡点を見出すか?あるいは、時代に翻弄されて、日本という抜け殻だけが、残るか?だろう。

逆に、ただの野山を、人口密集地に変えた人たちがいる。安い土地を開発して、ベッドタウン化し、市街地を構成している地域と娯楽を担う地域との往復を繋ぐビジネスモデルだ。けれども、あれはあれで、人口増加トレンドに後押しされたビジネスモデルでしかないだろう。

だから、鉄道やバスが廃線になるなら廃線に。廃村になるなら廃村になれば良いと思う。けれど、新しい産業の集積地としてゼロからつくりあげられた魅力ある街ができるなら、人はまた集まるのだと思う。

人が集まる理由はなんだろう?
人が集まり、家族をつくり、子を育て、その子どもたちもそこに定住し、終の住処とできる場所は、どんな理由を持つ場所だろう?

もしかしたら、廃村というリセットは、ゼロからひとが集まりなおすための、一瞬の休眠期だけかもしれない。
案外、理想郷は、すぐ近くにひっそりと、誰かが気づいてくれるのを、集落が生まれるのを待っているのかもしれないね。

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