ロブスターのいるところ


サインバルタ六十ミリ、インチュニブ六ミリ、レキサルティ一ミリ、レキソタン五ミリ、とんぷくとしてワイパックス一ミリ、エビリファイ三ミリ(液体)、睡眠薬のレンドルミン〇・二五ミリ、頭痛止めのロキソプロフェンナトリウム六十ミリ、二十八日分、の処方せんを、待合室が八畳くらいの小さい調剤薬局に預けて、ご住所やお電話にお変わりありませんか、と事務員さんに尋ねられ、はいと言って、お薬手帳を預け、出てきた。夫が調剤を待てない。特に、事故以来毎度だが一包化があるし、今日の薬局はぐにゃっと目眩がするほど混んでいて、時間がかかるのがわかる。夫は、絶対飽きて、座っていられない。騒ぐだろう。人がたくさんいる場所が苦手でもある。多動、衝動、不注意、自閉傾向。知能障害は重度の部類。バイクで転んで脳を歪な六等分、かつ萎縮させて真っ黒にしたのは、もう三年も前の話になる。身体の左側と両足と体幹に麻痺が残り、病院で足型、二十七センチ、をとって注文した専用のソールを入れた暗い迷彩のバスケットシューズを履いている。足首から下の故障が特に重い。シューズは、多動に付き合って、ただ一足、毎日走り飛び跳ね、かなり傷んでいる。
あああうううう、ああいぃああ。
夫が不満そうな声を出す。私の手と彼の手は、手首にはめるゴムハーネスで繋がっている。

どうした、落ち着かないね、クリニックの待ち時間が長くてイヤだったね、公園のベンチでお茶飲んでお昼にしようか、切り替え、切り替え。

横断歩道をわたって、小さな公園の真ん中のベンチに腰掛ける。振り返ると白い柵があって、直角に近い急坂の下は黒い砂浜に深い銀色の海。その時、ぶわあ、と風が吹いて、長身の夫に着せた黒い中綿ロングコートの裾がはためき、ミッフィーのネックストラップから垂らしたヘルプマークが揺れ、背後、ざああああっと波が立った。

あううう、うう。んんんあ、あっ……。
びっくりしたね、大丈夫、大丈夫。

私は、かつて、年収六百万円のエンジニアだった彼からもらったマイケルコースの肩掛けバッグを開けて、ミッフィー柄の巾着を出した。中は、アルミホイルに包まれた塩むすび。五百ミリの直飲み水筒を二本。中は満杯のダージリン。肩が軽くなった。

あ、あ、あぎ……。
なあに?
てっ……。
ああ、ウエットティッシュね、あるよ。

夫は、もう、宇宙語の独り言か、簡単な十数個の単語しか、話さない。あとは絵カードや、身振り手振りで意思疎通をはかる。そして、表層的にはそのくらいの「重度障害者」だが、事故前からずっと、かなりの潔癖であった。

病院の集中治療室で意識を取り戻し、一般病棟、四人部屋に移動して、ちょうど夕飯の時間だったので、ミキサーにかかった流動食を、気がついたと連絡を受けて勤務先の歯科、もとい歯科衛生士の業務、を早退した私がひとさじ、口に差し込んだ。食べれば、点滴、栄養剤が抜ける。
しかし彼は、クジラの潮吹きがごとく、ベッドに寝たまま、吐き出した。顔にかかって、パニックを起こし、ギャーと叫んで自分の腕に噛みつき、点滴を、まるでその薄い皮膚と、青く透ける血管を、引き裂くように、雑に抜いた。血が、どろお、と出た。あの赤のまぶしさ、まだ、私の瞼の裏にある。ナースコールを押して、すみません、五〇一号室右側窓際の逸嶋(いつしま)ですが、目、覚めすぎました、と、よくわからないことを、ナースセンターに繋がるマイクに叫んだ。すぐさま男性の看護師さん、自衛官と柔道家みたいに筋肉隆々、がストレッチャーを押して走ってきて、夫の身体、背は高いが痩身、を抱えて移し、寝かせ、ベルトで縛って、点滴の位置に圧迫止血をしつつ、運んで行った。
私は下膳に来た女性看護師さんに荷物をまとめるよう言われ、従って、夫の暴れたのを直し、取るものも取りあえず家から抱えて来た大きなボストンバッグを左手に下げ、ナースセンターに声をかけた。白いシーツに動脈血が、生き生き降って、ちょっと穏やかではない、草間彌生の反転バージョンになってしまったことを詫び、しかし、業務用の微笑みで、大丈夫ですよ、と言われ、しばらく廊下のソファで待つよう指示された。

目が覚めて、私を見たら、「律歌(りっか)ちゃん……」と、青白い顔で細い目をなくしながら笑いかけてくれ、薄紫の浴衣みたいな病衣から伸ばす温かな手で触れてくれる、と思っていた。そればかりを夢見て、彼の意識のない二週間、レントゲンだとかCTだとかMRIだとか道路にぶつけて粉砕された両足首の手術、ギプスで膝まで固められた、とか、目の回るようにとにかく色々あったのを、愛知から駆けつけた義理の母と交代で病院のセミシングルベッドに泊まりこんで乗り越えた。あとは貧乏性の彼が勇気を出して一括で買った、2LDKマンションの、絶望的に「足りない」から寒いダブルベッドで呻吟(しんぎん)した。彼が毎日掃除する、抜け毛の一本もない、白とグレーを基調とした五・二畳の部屋だ。一睡もせず部屋が青紫になり始め、だるさと頭痛に耐えながらカーテンを開けると、太陽が、猛烈に光りながら海で半身浴をしている。ここは最上階の角部屋なのだった。映画みたいだ。

私たちの現実は、目覚めたと連絡を受け駆け付けて、そこに身体だけがあって息をしていて魂はいない様相、ボッカリ開いた口から唾液が出てきて止まらず首元にハンカチを置いて吸収させ、ドロドロで形のない食事を差し込んだら血の雨。
薄紫の病衣だけが正解。
なんなんじゃ、こりゃ。
否、泣くな。総合病院の、白ばかりの視界が塩水に滲む。
若い女性看護師さんにいざなわれ、エレベーターで降りて、すぐ右の個室に入ると、広さは大体四畳半くらいで、ベッドと物入れがあって、ベッドには夫の肉体があって、病衣から伸びる脚はやはり膝まで固定、右の腕、窓際に点滴が二本。体躯にゴムベルト三本、つまり固定。そして事故の日から変わらず、病衣の裾から尿道カテーテルが伸びていた。
看護師さんはお辞儀をしてそっと病室を出た。会釈を返した時にはもう小走りで階段を上がり始めていて、ああ忙しいのに騒いで悪いな、と、感情が痛んだ。

さて、引き戸を閉めて、夫の顔を見る。点滴のどちらかは強めの鎮静剤と見え、眠いのか、半目。唾液が顎を覆って襟元を濡らすから、ボストンバッグからフェイスタオルを出して枕に巻き、顔を横に向けた。じわあ、どちゃあ、と、ゆっくりシミが広がった。瞳孔が開いた気がした。
病衣の裾、めくってみると、ただ白いテープ式紙おむつ一丁。寒かろうと、持ってきたブランケットをそこにかけた。左手が、ぴく、と動いた。思わずそれを、両手で包む。

水辺に打ち上げられた魚みたいに、一回、大きな全身がバウンドした。

え、何、今の。
痙攣?

ぎゅぎゅぼぼぼお、と音がした。見ると、カテーテルに、白い粘性の液体が流れて、ゆっくり、ねばついているからそれはそれはゆっくり、終着点たる蓄尿バッグに落ちて行くところだった。

笑った。

これからの暮らし、二十四時間テレビの世界かしら、と案じていたが、これではどちらかというと、二十四時以降にテレ東とかで静かにやっているほうの番組だ。
ああ、なんか、この人、大丈夫だ。
そうだね、生肌の内腿にブランケット、くすぐったかったね、あと、キミ、耳弱かったね。頭、動かす時に、そーっと触っちゃったね。
ああ、おかしい。お義母さんがいない時でよかった。いや、ホント。

夫、鋭丞(えいすけ)、事故当時三十六歳、私と十歳差、髪は直しても直しても生え癖でセンターパートになるが柔らかく細く触り心地がよく寝癖がつかない、は、病院の給食を、一体何度無駄にしただろう。
食べないのだ。手で触りもしない。食べられる物と認識していないのかもしれないと、意識がハッキリしたときにスプーンで口に入れてやったら、まさに「苦虫を噛み潰したような顔」をして、ゴミ箱に吐き出し、吸い飲みの水でうがいをして、四センチしか開かないベッドわきの窓から下に吐いた。

主治医が、困った。食べない、つまり栄養がとれない、イコール、点滴が抜けない、すると退院できない。病室が空かないと、次の患者が入れない、救急対応とか、重症患者の世話が滞る。
「奥さん、ご主人ね、内臓は奇跡的に元気だから、肥満さえ気をつければ何食べてもいいんだ、実は。好きなもの、知らない?腹いっぱい食べさせてやってよ」
「あっ、はい」
私は溜めに溜めたからまだある有給休暇を取って、義母を東京駅まで送って行き、マンション近くの小さなライフで豚バラブロックと卵、大根を買い、まだ新しいキッチンで白米を炊き、煮込みに煮込んで、いちばん大きなタッパーに詰め、使い慣れた鋭丞の箸とスプーンとフォークを持って、炊けた米はおにぎりにして、病院に走って行った。冷蔵庫の水出しダージリンも、水筒に目一杯。
右も左もなく、スプーンで、汁まで完食された。ダージリンも全て飲んだ。病衣で乱暴に口を拭い、潔癖らしく汚した薄紫を脱ぎ捨てた。
「よし、じゃあ、給食中止。奥さん大変だけど、三食作って。ていうか付き添って。トイレは時間排泄、二時間おきね、紙おむつ履いてらんない人だから。骨がくっついたらすぐ退院。さて、IQのテストと、ちょうどいい薬、探すのと、デイケアの予約、しなきゃ。忙しいぞ」
はてさて、全て、どういうことだろう。取り急ぎ、私は職場にわけを話し、介護休暇を頂戴した。
まず、デイケア、とは、精神障害のある人が社会復帰や社会参加、就労、復学などを目指して通所するリハビリテーション施設のことだった。
「先生に言われたんですけど、紙おむつが履けない、って、どういう意味ですか」夜の検温に来た看護師さんを引き止めた。
「ああ、出ると気持ち悪いから、パニックになっちゃって。一回、壁叩いてブチ抜いちゃって」
それは、面倒な患者の極みではないか!
「すみません!」
「いえいえ、看護師やってるとたまに出会います、お気になさらず。壁も経費で直せますので」

鋭丞の知能障害は、重症の部類。六等分のしぼんだ脳だから、覚悟はしていた。五等分の花嫁なら幸せだが、六等分の花婿は、まあ、それなりに、慣れを待とう、という感じ。脳の故障は情動に影響を与え、数種の精神薬が必要になった。IQテスト中に、問題が解けずイライラして自傷行為に走り、中止。担当の心理士さんから主治医や看護師や私への聞き取りとなり、おおよその数値を算出した。

今は、あの時探してもらったデイケアから福祉作業所に移って、月曜日から土曜日、八時から十六時、一時間の休憩つき、で働いている。私は介護休暇が終わった時に、もっと時間の融通が利くところへ転職した。
私はスーツ姿で、初めての場所に不安を覚え離れない鋭丞をわざと伴って職業安定所に行き、「すみません、これこれしかじかで、夫は見ての通りで、作業所の送迎があるんですが、いいところありますか」窓口で、職員の紳士に、やや悲壮を漂わせて言った。九時から十五時の、家から地下鉄で一駅の障害者対応歯科を推薦状付きで案内してくれた。手取り、月、二十五万円。ボーナスは寸志程度、らしいが、自宅は持ち家であり、二人なら充分暮らせる。

鋭丞の脳には「高次脳機能障害」という疾患名がつき、身体の方は、体幹機能障害、両下肢対麻痺、左半身麻痺、と、漢字検定のテキストみたいにややこしい診断が下った。精神保健福祉手帳、つまり頭の障害にかかわる手帳は一級、判定基準において最も程度が重い、わけだった。身体障害者手帳は、二級だった。上から二番目。これは七級まであるから、まあまあ重度の判定だ。なお、いずれも申請には医師の診断書と、三センチかける四センチの証明写真が一枚ずつ要る、となって、診断書はそれぞれ一万円、診断書の類は健康保険が利かず合計二万円。懐、痛い。ついでに障害厚生年金を申請するための医師の意見書が今度は一枚につき一万八千円した。頭(精神)の障害用と、身体障害用で二枚要って、三万六千円。しかし、それは一級認定、月十五万円が入金、と処理されたので、まあよし。よしとして、しかし、二枚の証明写真の用意に困った。今の鋭丞の辞書に「カメラ」はない。あの狭いスピード写真の機械、ブレるか逃げるか近いか遠いか、最悪、壊すかだ。主治医に泣く泣く相談すると「精神保健福祉手帳は二年に一回更新があるからね、免許証の写真の余りとかでもいいけど、まあ、鋭丞さんなら飲み込みいいし几帳面だし物覚えもいいほうだし、プリクラとか使って練習しな」とのことだった。他人だと思って気楽に言いやがって、と歯噛みしつつ調べてみる。
「フリュー」という会社が出している「ピクトリンク」対応のプリクラ機が、背景なしを選択でき、盛られすぎず自然な仕上がりでもって、高校生がそこのを初アルバイトの履歴書に貼っている、というではないか。よし、これだ。
さらに調べてみると、近所のダイエーの二階、小さいゲームコーナーに、「ピクトリンク」の入った機種があった。なんたる幸運だろう。
退院から一夜明けた、よくわかっていない鋭丞を引きずって行って、まずは空間に慣れてもらおうと二人で撮る。
「次、ひとりずつ順番」ということにして、カーテンを開けたまま私が撮って見せる。
「はい、次は鋭丞」

上手く目線を合わせて撮れた。よし、よし!奇跡!
二年後の更新のときに「ピクトリンク」が消えている可能性を考えて、次の日、さらにその翌日も撮りに行った。服が違う方が、「更新」に自然だからだ。そして、機械がプリクラとあって、証明写真より人相がよく写った。マイナンバーカードもこれで申請しよう。

さて、市民病院の精神科外来は混む。先の見通しが立たないと不安になって飛んだり跳ねたり叫んだり回ったりする鋭丞は、とても目立つ。騒いで、他の患者さんを不穏に陥れたりし、ドミノ倒し式のてんやわんやになった日があった。現場を目撃した主治医が、万年筆でサラサラと紹介状を書いてくれた。家から車で十五分のメディカルビルの二階、精神科クリニック。
「ここ、俺の友達がやってるの。時間はひとり三十分以内って決まってて、オンライン診療もできるから」
主治医に後光が差して見えた。

あんま……んまんま……っ、あーあっ……。
おにぎり、おいしい?
ま……。

夫はベンチに座り、じっとして、私の握った塩むすびを食べた。彼の分は、いわゆる「爆弾おにぎり」であったが、残さず、三つ。
おいしかったね、よかった、手拭いてご馳走様しよう。
ご、た、ま……。
ぱむ、と手を合わせる。私が差し出したダージリンを手に取って、一気に飲む。ワンタッチタイプの水筒なら、彼にも開けられる。彼は私の手料理しか食べない。私が煮出したダージリンかカモミールティー、あと、サントリーの天然水しか飲まない。外食が出来ない。作業所の給食が食べられなくて、一人だけお弁当持参。今日は、作業所を休ませ、私は有給休暇を取得して受診。担当女性医師の空きが午前しかなかったのだ。普段は、十七時とか、十八時、私の仕事や彼の作業所が終わった後に訪ねる。横断歩道をわたり、クリニックビルの駐車場に戻る。うちのホワイトパールのデリカミニの他にも、色んな家庭用乗用車が、ぎゅうぎゅうに停められている。
みんな、具合、悪いんだなあ、この街。
海鳴りが脳に響いて、体液が砂の混じった海水になるのかなあ。
ぼーっとしながら、鋭丞を、チャイルドロックのかかった、内側から開かない後部座席に座らせて、ベルトを締めてやる。左の唇の端から、よだれが伸びていた。それは、よだれかけ代わりに首に巻いた青いバンダナに着地する。この人は、昔からぼんやりとした部類だったが、「六等分」になって大いに拍車がかかった。近頃は、三時間くらい、同じ姿勢のまま、ぴったり静止していたりする。担当の女性医師は、「脳やっちゃってるからね、どんな症状があってもおかしくない」と言う。ゴムハーネスを外し、サッとドアを閉めて運転席に回る。

んあんあんあんあ、あーあーあー……。

鋭丞が身体を激しくゆすり、止まらなくなった。跳ねるような動きもする。

どうしたの、落ち着かないね、エビリファイ飲もうか。

バッグから小さいジッパー付き袋、さらにそこから、エビリファイ液、三ミリの容器を出す。猫のおやつみたいに、先を開けて吸って飲む仕様になっている。運転席に後ろ向きで膝立ちになり、彼の口にプラ袋の先を差し込む。く、く、と喉仏が動き、入れ物が痩せる。彼が唇を離す。

よし、よく出来ました。すぐ効くからね、大丈夫、大丈夫。

エビリファイは不安に効くとされている。鋭丞は、事故の後遺症で、「いつも同じ」であることにこだわる。手順とか、予定とか、時間とか。今日は予告していたものの、「いつも行く作業所に行かない」、「午前中に受診」、「先の見えない長い待ち時間」によって、頭で理解していても不安だったと思われる。彼は不安を感じやすい。神経質、というべきなのだろうか。薬は、特に精神を穏やかに、凪にするものを中心に処方されている。

家に着く。内鍵二つと、金属のチェーンをかける。鋭丞は、チェーンの開ける、「強めに押しながら真下に下ろす」が出来ないから、脱走対策はこれで足りる。

シシー、シー……。

言いながら、ロングコートを脱いでハンガーにかけ、廊下に取り付けたフックにかける。トイレに入る。便座を上げ、スウェットズボンとボクサーパンツを足首まで下げ、座って、男の足の親指くらいの性器を指で挟んで下に向け、気持ち大股で、放つ。体幹機能障害で、立ったままできない。付き合っていた時にはもう座り派だったけれど。彼のVIOは、ない。つるつるだ。健常者だった過去、ふと理由を聞いたら、部屋にちぢれ毛が落ちるのが嫌、だと言った。今となっては、トイレやお風呂の介助の時、楽でいい(彼はお尻を適切に拭いたり、お風呂で身体を洗ったり出来ない)、ワキもスネもヒゲもない。あるのはセンターパートの髪と、眉。髪は一か月に一度、私が切る。眉は二週間に一度、前髪をピンで留めて一文字の電動剃刀を当てる。
さて、私は鋭丞の長い放尿を見ている。ドアは開放したままだ。私に見てほしがっている。そういう、性癖だ。昔から、家飲みで酔っ払うと、「トイレ行く、ついてきてぇ」と頼まれていた。大体、彼の意識が曖昧になったくらいの、深い時間に。さて、放出が終わると軽く水を切って、ズボンを上げ、蓋を閉めて流す。ミントの香りのトイレクイックルで辺りを拭き始める。長い。毎度、あまりのことに、トイレクイックルの蓋に、「1かい 2まい」と書いたのだった。永遠にやってしまうから。彼は平仮名と数字なら読めた。うねうね、筆圧が強くシャープペンや鉛筆では芯が折れるが、平仮名で自分の氏名を書ける。
彼が四つ這いになって修行僧みたいに熱心に床を拭き清めている間に、私はバッグからA5の電子メモパッドを出し、付属のペンで書く。

15じ かいもの まるえつ いく
かうもの
うすだいだいのえっせんしゃるしゃんぷーつめかえ 1こ
うすだいだいのえっせんしゃるこんでぃしょなー つめかえ 1こ
さんとりー てんねんすい24ほん 1はこ
だいこん 1ぽん
たまご 1ぱっく
とりももにく 2ぱっく
だしぱっく 1つ
かもみーるてぃー 1ぱっく
くるまのふぁぶりーず あお 1こ
しろ ますく 1はこ
(りっか しごとでつかう ちいさめ)

でりかみに に のる
りっか うんてん
えいすけ うしろ すわる

長い長い掃除が明け、洗面所に手を洗いに行った。ハンドソープは泡で出るポンプ式のミューズで、これは業務用の詰め替えが買ってあって、洗面台の下の扉の内側に置いている。手を洗うのも、長い。緑色のロゴスウェットを脱いで、肘まで泡立てている。どうせまた出かけるのに。しかし、このご時世、清潔に勝るものはない。

満杯のちいかわ柄エコバッグから大根を生やす。
天然水の段ボールは鋭丞が持ち運んでくれた。トランクに置く。彼を後部座席に座らせ、ベルトを締め、チャイルドロックを確かめてドアを閉じる。
マルエツ、冬休みシーズンながら空いていた。明日は日曜日、作業所も精神科クリニックも障害者対応歯科も休みだ。どう過ごそう。「予定」にこだわる鋭丞は、「なにもない」のが苦手だ。暇だと想念がぐるぐるして気持ち悪いのか、落ち着きがなくなる。やがて奇声を発したりして、こちらの声が届かなくなる。すると完全なマイワールドだ。身長、百八十センチ、体重、五十九キロなのに、すのこ製のダブルベッドで飛び跳ねる。爪で壁紙を掻きむしって剥がす。止めたらパニック。泣いて喚いて全身を使って不快を表現し、壁を叩き、自分自身を噛み、頭を手のひらの硬いところで殴り、壁や床に頭を打ち付け、耳を叩いて鼓膜をやぶこうとする。大騒ぎだ。彼が落ち着いて、深い眠りに落ちたら、私はとなりの家と下の階に謝りに行かなければならない。否、そんなことは二の次で、大事な鋭丞が自分で自分を痛めつけているのを見るのが辛い。私の体格(身長百四十八センチ、体重四十八キロ)では、彼を押さえ、抱きしめて落ち着かせることはできない。破裂した感情が鎮まるのを、見て、待つしかない。私まで、どこか痛い。泣きそうになる。

深い眠り、といえば、彼は健常者だった頃から不眠でマイスリーという睡眠導入剤を飲んでいた。事故に遭ってから当時の主治医にお薬手帳を見せて、同じものを処方してもらったら、夜中に起きて、足首ギプスだから、傍らの貸し出し車椅子に乗って、よその部屋の知らない人のカーテンに潜り込んで、当然、騒ぎになった。すぐ、夜間拘束とされた。
退院してすぐ、やはり、夜中に目を覚ましてしまい、裸足、おぼつかない体幹でゆらゆら、居間をうろつき、まだ何もわからなかった私を置いて、チェーンを掛けていない玄関の鍵を開け、パジャマに五本指ソックスにミッフィーのヘルプマークにバスケットシューズで、徘徊した。普段は私の手伝いが必要な五本指ソックスの着脱(特に麻痺の左側)、よく出来たものだ。そして、きちんと「出かけるから」ヘルプマークを下げ、靴を履いたあたり、几帳面である。スタイ代わりのバンダナ、赤、も、首に結べないから、パジャマの襟に挟んでいた。ちゃんとしているのか、イカれているのかわからない。深夜パトロールのお巡りさんが見つけて、ヘルプマークの裏の私の携帯電話番号を見て、夜中の三時半だったか、確かそのくらいに、連絡をくれた。私はすぐ当時の愛車、タントで飛んで行き、巡査のお兄さんに謝り倒して、妙にテンションの高い鋭丞を回収。自宅から十キロも離れたところだった。春の始まりに薄手のパジャマ一枚で、ひょっとしたら凍って死んでいたかもしれない。

そっちの方が、ラクだった?

よぎって、すぐ我に返り、なんということを、と泣いた。泣きながら運転した。その時、鋭丞が横から、私の髪に手を伸ばし、スっスっと撫でた。
本当はこうやって優しい彼なのに、脳が六等分だから、問題を起こして、あたたかみが霞む。苦しかった。路肩に止まって、うわあと泣いた。鋭丞が、パジャマの袖で涙を拭いてくれる。

たむいね。

パジャマの上を脱いで、私の肩に掛けた。半袖の下着一枚になる。
身体寒さに泣いているんじゃないの、自分の冷たさに、泣いているの。言葉にならずに、嗚咽で溶けた。
すぐ、夜明けに診療予約をして、それでも当時通っていた市民病院は混み、三日待った。ゴムハーネスはその日に、まさに予約を入れたスマホを閉じずに、アマゾンで探して、「お急ぎ便」で頼んだ。夜届いた。三日、繋がってベッドに入った。鋭丞は毎晩起き、居間でハーネスを取って、監視のもと、何時間もくるくる回ったり、飛び跳ねたりしていた。そういった経緯で、睡眠薬を入眠にだけ効くマイスリーから、入眠にも中途覚醒にも効果のあるレンドルミンに変えてもらったのだった。

涙のタントは、ある日曜日、一時停止を見逃して白バイのお姉さんに窓をノックされ、違反切符。その足で銀行に寄って罰金を払い、助手席の鋭丞に謝ってエンジンをかけ、走り出したら、「予定」に固執する彼が、全てが狂った悲しさに特大パニックを起こし、大声を上げながら私の肩を拳で強く叩いて、私の腕を噛んだ。驚いて、ハンドルを切り損ない、電柱にぶつけて白いクッションが出、廃車。鋭丞を助手席に乗せるのはやめよう、固く誓い、アザに痛む肩と歯型が脈を打つ腕を押さえながら、自動車保険会社と警察に連絡したのだった。

さて、マルエツから帰った鋭丞は、水を抱えて家に入り、靴を脱いで、段ボールを台所に置いて、靴を揃えに玄関に戻り、ロングコートと同じフックにヘルプマークを掛け、居間と寝室にフローリングワイパーをかけ始めた。私は夕飯作りにとりかかる。今日は鶏もも肉を一口サイズに切り、卵と大根と一緒に、水と醤油と砂糖と酢、出汁で煮たものだ。
掃除を終えた彼が、台所に来て、後ろから抱きつき、私の耳にキスをする。舐める。

今はしない、夜、寝る前にします。九時。

し、な、い、いま……は。ねるまえに、する……。

そうよ。

六等分の夫婦、として、性の問題があり、「女性側への前戯」とか「避妊」がよくわからなくなった彼に挿入をメインとする「行為」は無理だろうと思われた。そして、私が生理の時に、彼に、求められたら。全体的に放置か。否、他の女性に催して、暴漢の焼印を捺されたら大問題だ。オナニーを教える?でも、外で触るかもしれない。
スマホで調べると、「特定の場所でなら触ってよいと根気よく教える」という意見が多数だった。しかし鋭丞の場合、一回でも、この家を出た空間で触ったらアウトなのだ。パンツが汚れるのを嫌がってズリ下げる姿が目に浮かんだ。露出狂だ。止めたらパニックになるだろう。
時間を決めて、私が口か、手で、する、しかない。
鋭丞には下専用の、「サマーズイブフェミニンウオッシュマルチベネフィットデイリーバランス」という石鹸を買った。大事な部分だよ、と認識させるため、自分で洗わせるにも役立った。

私に「九時ね」と「おあずけ」された彼は、グレーの保温蓄熱ボックスシーツのダブルベッドのすぐ足元の床に、胎児の形で寝転び、ベッド上の、ちいかわのぬいぐるみを胸に抱きしめた。狭い部屋なのに外出着でベッドに乗らないのが、彼の性分を表す。ちいかわは、ミッフィーと同じ、私の趣味だった。彼はこのちいかわを大事にしていて、

ちっち、ちっち。

と呼んで頭をポンポンしたり、食卓に連れてきたり、お風呂に入れようとしたりする。

しょと、ちっち、あゆない……。

と言い、外出には連れていかないが、まるで自分の子供みたいに、扱っている。

パパだったら、子煩悩かな、と思う。

出会ったのは、私が二十歳、彼が三十歳の夏、渋谷だった。テクノ音楽界の重鎮が来るライブハウスで、一流見ない?と、大学の親友に誘われ、夏休み、せっかく進学で東京の国立大学まで出てきたのに、男尊女卑の九州に帰るのもイヤだし、十九歳で始めのちに二十五歳で辞めたくびれ作りのベリーダンスのレッスン以外は暇だから、いいよと言ってチケット代を払い、付き添いみたいな感じで、行ったのだった。全身全霊で「トーキョー」な夜の渋谷、路地裏、地下、鼓動みたいなビートが遠く響く。初めてのライブハウス、実は、ワクワクしていた。普段より濃いメイクをした。そこはやけに高いドリンクを一杯買ったらあとは立ち見で移動自由で、「重鎮」が出ると、親友は人をかき分け、前の方に紛れて、姿を消した。ラインをしても返事が来ない。ノリノリなのだろう。ふだんは、「たま」とか「はっぴいえんど」や、「くるり」、「グッドモーニングアメリカ」とかを聞いているから、テクノポップには明るくない。
あー、どんちゃんぴこぴこどんちゃんぴこぴこ、耳が疲れたな、と、ふと一席だけ空いていたカウンターの角に座った。座面が高くて、足がつかず、背もたれもないからちょっと怖い。隣を見る。耳たぶに金のピアス三つずつの、赤いアロハシャツとダメージデニムのお兄さん。ハイボール、一杯千円、を、ぐいっと。
「で、ユウヤ、ってあれ!女子!うわすみません、ここに座ってたブサイク知りませんか」
いきなり話しかけられ、私は斜めがけのバッグを胸に抱いて、ブンブンブンブン、目が回るほど首を振った。
「うわ、じゃ、俺、ひとり?……お姉さんは?」
「ひとりに、なりたてで、友達は前の方で見てて、人いっぱいで、分かんなくて」
私は泣きそうだった。アロハシャツにダメージデニム、ならまだ見たことあるが、重たそうなピアスを計六個。こんな人、九州の片田舎には、多分いない。目はカラーコンタクト、濃い緑だった。もっと、いない。
「ああ、あはは、俺もそう。孤立。舞台も頭の先しか見えないし、テクノよくわかんねえし、ゲロ出す前に帰ろうかな。お姉さんなんか飲む?一杯奢ったげる」
メニューを渡される。どれも、お祭り価格だ。
「あ、ええ、じゃ、お兄さんと同じでお願いします」
カクテルを撹拌していた初心者マーク付きのお姉さんに頼むと、「はい、こちらのお客様、超特濃を召し上がってますが、よろしいですか」
東京に来てから、約一年半。アルコールは口にしていなかった。つまり、これが初めての正式なお酒。しかし、肝臓は九州産であるし、未成年の頃から、酒屋を経営する父に勧められるがまま、跡継ぎ様として大事に育てられた二歳差の兄と共に芋焼酎をロックでいっていた。あと、ウイスキーの麦茶割りは美味しい。
「はい、お願いします」

ハイボールグラス。濃い褐色。久々のお酒。胃に流し込む。食道が熱い。そう、この感じ。心臓が騒ぐ。

男尊女卑の地元なんか、一生帰ってやるもんか。性別だけで、昇進できない。下働きの、さらにその下か、小さい、眉毛の変なママがやっている夜のお店でしか稼げない。でも、帰らないなら帰らないなりの理由がいる。

例えば、目の前のお兄さんと結婚するとか?

「ああ美味しい、結婚してください」

お兄さんは吹き出して、しばらく笑って、
「ノリいいね、え、好き。超特濃を一気して、俺にプロポーズ。こんなヘビ顔のオトコでいいわけ?トーキョー、かっこいい人、沢山いるよ?」センターパートが揺れた。
「いや、お兄さんと結婚したいです。高校、調理科だったんで私、料理上手いですよ。そりゃー、そりゃーいい嫁になります。ライン教えてください。今日はパンツ、ボロボロなんであれですけど、日を改めて、また。好き、って言ったの覚えてますからね」
「そうだね、明るい時に会おう」
だむだむだむだむ、ぴこぴこちゃっちゃ。ずんだかずんだかぽよよよん。
テクノ、悪くないじゃん。

私は東京、小田急線沿いの狛江、お兄さんは横浜に住んでいて、初の、ちゃんとしたご対面は江ノ島、となった。彼はどこで買ったのか夏野菜のボタンシャツを着て、下は紺のスラックスに新しそうなアディダスの白いスニーカー。「レッドロブスター」という海鮮料理店で約束をした。
私より五分遅く、しかし待ち合わせには十分早く着いた彼は、椅子に座るなり、
「ここ、道路の反対側が江ノ水か。出入口にハサミ縛られたロブスターいっぱい泳いでる水槽あったけど、俺もあっちがよかったな、って思ったりするんかな、ロブスター。だって、ガラス張りのドアで丸見え丸聞こえじゃん、水族館」
絵本作家かなにか、そういう仕事か?
カラコンのない瞳は茶色、肌は薄く、青い血管が浮いていた。
「はあ。そうですか。……そうかもしれませんね、道路一本で、かわいい生き物か、食材か。本当はなにも変わらないのに」

バイクの傾きで、その角度で、不思議なお兄さんか、重度障害者か。今の私たちもまた、水槽のロブスターだ。ハサミを縛られて、たまに、否、思い出さずに無意識に、いつも、向こう側を見ている。行けたかもしれない未来、を。

睡眠障害のある鋭丞が夕方に寝ると夜、大変だから、鶏肉を煮ながら寝室に耳をそば立てる。宇宙語の独り言が、長く長く続いている。性的な気分は収まったようだ。今日は衝動的な行為もない。IHクッキングヒーターを止めて、あとは余熱。夕方は寂しい。不安になる。マルエツでこっそり買って冷やしたトリスハイボールのロング缶を開ける。こくこくこくこく。早く、脳内快楽物質よ、出よ。ロブスターが頭をもたげるではないか。緩めよ、ハサミのその錠を!
ああ、なんか落ち着かない、ソワソワする。変な気分。わああと泣いて走り出したい。理由は特にないけれど。

鶏もも煮は好評で、二日分のつもりが一食で消えた。介護用食事エプロンを外し、食後の服薬をさせ、浴室を磨いてもらい、お湯を張る。ルーティン通りだ。

ああ、お酒が回ったか、なんか、ムラムラする。鋭丞のこと、あれこれ言えない。あそこを舐めて、びらびらにキスしてほしい。クリを舌先でつついてもらいたい。鋭丞に。ああ、ムズムズする。ええい。パンツの中の下り物シートが濡れた、気がした。

ロブスターの不安は、昼間、車の中で落ち着かなくなった鋭丞の苦しみ。
エビリファイは、ハイボールのロング缶。
この性欲は言わずもがな。

私たちは、一体、何が違う。

鋭丞は基本、シャワー浴だ。バスタブに入れたり出したりの誘導が大変だし、万が一、中で失禁されるとややこしい。バスタブに入ると、その湯をガブ飲みするからである。
早く鋭丞を洗って流して乾かして歯を磨かせて咥えて服を着せて寝かしつけて、自分もお風呂に入ろう。うんと弄ってしまおう。
鋭丞は私に背中を流されながら、手で性器を洗う。

間接照明とエアコンだけをつけて、私にドライヤーをかけられボディクリームを塗られ歯を磨かれた素っ裸の鋭丞を布張りのソファに座らせ、内腿をフェザータッチでつつき撫で回しながら、耳にキスをする。舌を出し、耳の中を舐める。しょっぱい。

あウッ、んっ。

気持ちいいね。

鋭丞は大体三分で達した。下を揉むと、すぐ、痙攣した。白目と舌が出るだけ出ていた。
先っぽを咥えてピアニカを吹くみたいに指で睾丸をマッサージしただけで、たった三分で、臍につきそうなくらいモノを怒張させ、反り返って不器用な腰を揺らし、悲鳴を上げてオーガズム、なんて、我慢している間、苦しかっただろうな、と思ったりする。ふにゃふにゃする彼に下着とパジャマを着せ、レンドルミンを飲ませ、ベッドに誘導した。鋭丞はかけ布団の上に倒れ込み、うつぶせで顔だけ横向き、それきり動かなかった。いつもはうるさいくらいのいびきも、ない。呼吸を確かめてお風呂に入り、洗い場で先ほどの鋭丞を思い出しながら弄りまくった。髪と身体を洗い、お湯は明日、朝の洗濯用に取っておいて、居間で消音に字幕でテレビを見る。低気圧が来ていたらしかった。やはり呼吸をチェックせずにはいられず、ティッシュを鼻先に当てて風で揺れるか確かめたりして、廊下の物入れから厚手の毛布を出し、肩から下に掛けてやって、それから寝た。

翌朝は雨風の音で起きた。ぼつぼつぼつ、ごおおお。鋭丞は昨日気絶するように眠った、その形のままだった。
熱したフライパンに溶き卵と、溶けるタイプの細かいチーズとハムを乗せ、一枚を半分に切った食パンを右も左もハムに重ねる。卵が固まったら軽くフライパンをふってひっくり返し、パンが焼けるのを待つ。最後にケチャップをかけ、フライ返しで、卵とハムにくっついたパンを二つ折りにする。皿に盛って、適当に、レタスとか、茹でブロッコリーとか、作り置きの細切り人参サラダ(オリーブオイルと塩コショウ漬け)とかを添える。今日は枚挙のものはないので、消費期限が近いカット野菜の千切りキャベツをニトリのザル付き鍋で茹でる。水出しのカモミールティーをコップに注ぐ。カモミールには精神安定効果がある。藁にもすがる思いで、毎朝飲ませている。

寝姿は健常者時代から変わらない。うつぶせ。顔だけ横向き。背が高いから、寝ていると「長いなあ」と思うし、痩せ型だから「蛇だなあ」と思う。しかし、実に、よく眠っている。もう少し寝かせるか。彼の苦手な低気圧だし。きっと無理やり叩き起こしても、機嫌が悪くて取り扱い注意なだけだろう。
普段、刺激だらけのストレスフルな現実世界で頑張っているのだから、日曜日くらい、ゆっくりしてね、鋭丞。

お風呂の残り湯で洗濯機を回し、ガス乾燥機に濡れた物を詰め込む。結構、音がする。寝室の扉を閉じた。ひとりで朝食を済ませたら、ベリーダンスに通っていた時に教わったストレッチをする。ちょっと変だな、身体の芯が温まらない。あ、アレか。
トイレであそこにペーパーを当ててみると、大当たり。一番大きいナプキンをして、鋭丞の薬袋から頭痛用のロキソプロフェンナトリウム(ロキソニン)を拝借する。水道の水で飲み、カラになったカモミールティーの容器と自分の食器を洗剤で洗う。
「エリーゼのために」のオルゴールが鳴った。誰か来た。インターホンを見る。
「郵便局です、ゆうパックで、送料が代引きです」
「はーい、開けます」
解錠、のボタンを押してエントランスの扉を開け、ヘルメットを被ったお兄さんを通す。バーバリーの財布を持って待機。多分、鋭丞の薬だ。代引き手数料は八百三十円か。二つ折り財布の小銭入れを見る。五百円玉一枚、百円玉三枚、十円玉三枚、あった。
ピンポーン、高く太くベルが鳴る。チェーンを掛けたまま応対する。鋭丞は精神保健福祉手帳一級に身体障害者手帳二級だから、病院や調剤薬局の窓口三割負担がなくなる「障害者等受給者証」を持っている。つまり無料で医療に寄りかかって暮らしているわけである。八百三十円を受け取ったお兄さんは爽やかに去った。

もう少し脳の損傷が激しかったら、身体障害者手帳一級、一個で済むんだよね、更新要らないよ、診断書も一枚きり。でも歩けるし、意思疎通も何とか出来るし、おむつ履いてないからね、とりあえず精神の方もひとつ、手間だけど申請しましょうか。
と、市民病院の医師は言っていた。何故か今、ふと思い出した。私は、想念が渦巻いて止まらない。ややこしい。精神病理学では、思考迫促(しこうはくそく)と、言うらしい。生理の二、三日前から期間中は特にその傾向が強くなる。小さい時から、「律歌ちゃんは賢かね」、「大人ったいね」と、酒屋のお客さんなどに言われた。父母は謙遜か、本気か、「弁がたって、よう口答えしよるけ、可愛げがなか。嫁の行き先、なかとよ」と笑った。
「いや市來(いちき、私の旧姓)さん、違うったい、大きゅうなったら東京ば行かせてみ、えりゃあ賢かハンサム連れて来よるわ」
「そうかねえ、ま、考えにゃ。毎度あり」
今思うと、思考迫促のために口が動いて止まらなかっただけなのだが、皆、前向きに捉えてくれ、大学進学を視野に入れた頃、「国公立なら東京ば行ってもよかよ。今やお兄ちゃんもだらけよるし」と、自由を許されたのだった。その頃の兄は地元の公立大学に入学したものの、勧誘されて入った演劇サークルで「夢」を見つけ、中退し、アルバイトをこなしながら、小劇団に所属していた。
「だらけているわけやなかよ、役者さんとしての収入も、一応、あるんやし。ま、すぐお酒で溶かすけど」
「そいがだらけてるち言うんよ、はい、行ってらっしゃい」

まさか本当のことは言えない。鋭丞さんとは「大学の先輩の紹介で知り合った」と口裏を合わせ、東京は有明のちょっといいホテルに両親を呼んで顔合わせ。ついでに、「お嬢さんは幸せにします」のやつ。

両親はスーツ姿の鋭丞さんから渡された名刺を見て、「はあどうも」と老眼の目でじろじろ睨み、黙っていた。時間が勿体ないので、「その会社は東証一部、鋭丞さんはコンピュータば使こうて、あらゆる難しい仕組みをやさしゅうなるように開発しよんよ、神奈川学芸大学卒業で、中学と高校の国語科教員免許持ちよんね」
「はあ!」父が食いついた。「すっといつでも公務員さなれっとですか」
「あっ、はい、求人次第で」
「ほおー」
「田舎の先生より、今の方が稼げるわ。年収六百万円で、プラス、査定で夏と冬にボーナスが出るけんね」
「うん、まあ、今期は社長賞で一千万もらってて。結局税金で素寒貧ですが」
「はへー。聞きにくいことありがとう。否、ホントにうちの娘でええ?生意気やろ」
「否、議論が出来る、会話のテンポが合う、って、大事じゃないですか、その辺、一緒に暮らすなら特に」
「は、はい、そう、そうたいね、お幸せに」

両親は、彼が事故に遭い、ギプスが取れて退院が決まったくらいの時期に、一度、四畳半の個室に見舞いに来た。事前にエビリファイ三ミリを飲ませていたが、完全に症状が収束するわけではない。幼児みたいな崩れた姿は、それなりに、一目見た両親を驚かせた。
「え、鋭丞さん……お久しぶり、ね」母。
病院のベッド、バスケットシューズの脚を下ろしたまま寝転んで、唇の左から一筋よだれを垂らしつつ、鋭丞は、「はい」と、成人男性のトーンで、目を合わせて返した。緊張していたのか、片手は私を掴んで離さない。
「り、律歌を、これからもよろしく」
「……はい」
「お父さんお母さん、あんまり長く緊張させると疲れちゃうから、あとは担当の先生に時間とってもろたけん、説明聞いてきて、あっちのお部屋でお待ちだから」両親を出して扉を閉める。

ごめんね鋭丞、お疲れ様。

……、はい……

よくできました。

鋭丞の肩が震えている。しばらくして、ぶは、と吹き出し、大笑いを始めた。
私も、何だかおかしくて、つられて笑った。

夜、新幹線の駅に近いアパホテルのツインに泊まった母からラインが入った。
「お医者さんの説明ば、難しかね。よう分からんかったけど、脳の写真見て、大変、というのだけは飲み込めた。しかしお医者さんばちょっち大袈裟に言ったかね、返事もできるし人の区別もつくし、言うより軽傷たいね、リハビリ頑張れ。騙されて悪い施設に預けたり、変な宗教に行ったらあかんよ!応援してる。お父さんも、『医者の説明よりか本物の鋭丞さんの方がピシッとしとった、義理の両親がわかるんかな』言うて安心して今、ヱビス飲んどる。あんたら二人、手繋ぎっぱなしでラブラブたいね、鋭丞さん本当は甘えん坊なんかね」
ハートマークがついていた。両親、心、広し。
「ラブラブなんよ」と返す。
既読。
「暴れて止まらんで鉄格子の中ちおる、思って、緊張して来たんよ。したら鍵もない綺麗なところで。お昼どきやったけん、帰り際にちらっと給食見たけど美味しそうやったわ。鋭丞さんは自力で食べられるんかいね?

あんた、お世話して苦労しすぎたらいかんよ。自分が第一!」
ちょっと、鼻が痛い。

「食べられるよ、知育箸みたいの使って右手で食べよんよ」
給食は、食べないけど。

「鋭丞さん唾出よったけど、あれ、汚いのが分からんとか口は閉じないかんち言うんが分からんとかやのうて、身体の左側が故障してるからたいね、左の脳を特にぶつけたから言葉がやられて無口やね?重態とまた違うよね?目がしっかりしとうもん」
「そうだよ」
「やっぱりお医者さん、重く見とるわね、あんたが一番鋭丞さんを分かってやらないかんけん、日頃から観察してね。体調ようなったらお正月に来てね」
「ありがとう」

結局、未だに行っていない。

一方で、女手一つで育てた一人息子が搬送されたと聞いて愛知から新幹線で来た義母は、目覚めた鋭丞にスパルタ教育。自閉傾向で虚空を見ながら宇宙語をしゃべるのを、
「はい、まず人の目見る!静かにする!バタバタしやん!油で揚げるよ!」と、どやし、震え上がらせた。
「律歌さん、迷惑かけてごめんね。でも宇宙人になったあの子の頼りはあなたしかいない。よろしくね。頑丈に育てたから、外で迷惑になったら一発殴ってしつけてね、どうか、うちの子が街の鼻つまみ者にならんようお願いします」頭を深々下げて帰って行った。

さて、A5のボードに書く。
にちようび おやすみのひ あめ
あまぞん ぷらいむ びでお みる?
おそうじする?
おかしつくってたべる?

16じ ぎょうむすーぱー いきます
かうもの
ぎゅうぶたひきにく 1ぱっく
ぎゅうにゅう 2ほん
たまご 1ぱっく
かっととまとかん 1かん
くりーむちーず 2はこ
まりーびすけっと 1はこ
はくなぷきん 1ぱっく

りっか すこし おなかいたい です
でりかみに に のります
りっか うんてん
えいすけ うしろのせき
かさ 1ぽんもっていく

1ばん はみがき、あさごはん、くすりをのむ きがえる
2ばん なにをするか、えらぶ
3ばん 16じ ぎょうむすーぱー

牛乳は一本を調理用、もう一本をカスピ海ヨーグルトにする。鋭丞の好物だ。頭痛で食欲がなくなってもそれなりに食べる。栄養もある。

私は生理一日目。私は一般的に「祭り」らしい二日目よりも今のほうが経血量が多いので、あまり無理はしたくない。さっきはGUの感謝祭で買ったクマ柄の部屋着のままゆうパックの受け取りに出てしまったが、着替えよう。メイクもしよう。

寝室ではない、二つ目の部屋は居間のおまけみたいな三畳の洋室、二人の春夏秋冬の服、シーツの替え、鋭丞の遠いサラリーマン時代の私物などが詰まっていて、可動域は一畳くらいである。‪空いている部分に玄関マットみたいな小さいラグが敷いてある。猫用のホットカーペット。ここは奥に細いオープンクローゼットがついている。
二つ並んだプラスチック箪笥の片方を開ける。ガードルを履き、タートルネックの黒いヒートテックに、チャックが沢山ついた黒いズボン、灰色とベージュの中間色のセーターを着る。靴下はつま先に保温素材が入った桐灰の黒いロングソックス。
洗面所、シュミテクトで歯を磨き小林製薬の使い捨て歯間フロスをして、前髪をピンで留めお湯で洗顔する。メラノCCの化粧水を生命の水みたいにケチケチ使う。乳液も米粒大。私は大学に入ってからメイクやスキンケアを始めたから、マクドナルドでのアルバイト代と少ない仕送りの中で消耗品を長持ちさせる癖、みたいなのがついて、今でも、しっかり残っている。エリクシールルフレのおしろいミルク、ピンク。小指の爪くらい出して、点置きして逆三角に広げ、手を洗い、メンソレータムのリップフォンデュ、プラムレッドを下唇に置いて、「んぱ」と何回かやる。普段、職場では不織布の白マスク必須だから、口紅はあまり持っていない。色つきリップクリームの減りが早い。眉は元々、しっかりあるため、一週間に一回くらい貝印の一文字剃刀で、やや太めの平行になるよう整えている。セザンヌのノーズ&アイブロウパウダー、コーラルブラウン。これをブラシとチップを使って鼻筋と瞼に置いて、マキアージュのフィックスミストで水分を補って、馴染ませて、顔面の出来上がり。メイク用品をポーチに入れて、右分けの癖がちょうどよくついた前髪に紫のケープ。太めのゴムで鎖骨下まである髪を低い位置、一つのシニヨンに結う。ゴムの周りにケープをする。きちんとしたい日は、ルシードエルワックスの何色がどうの、とか、シアバターが、とかやるけども、職場はロングの髪なら落ちないように結ぶ規定になっているし、母譲りの細くて柔らかい、染めていないのに光の当たりようによっては七トーンくらいに見られる濃い茶色の天然パーマ、ただひとつに結んでしらばっくれているのが最もコスパがよい。コテやアイロンやストレートパーマで痛めて薄毛になりたくない。第一、ヘアケアとメイクと服は底なし沼で、その気になればいくらでもお金が溶かせる。
現実を暮らす、とは妥協の積み重ねだ。飢え死にしない程度の生活費、もしものための貯蓄、栄養のある安上がりな自炊の食事と、保証された清潔と睡眠と屋根と壁と床。ほら、足りる。
足りる、それ以上は、必要ない、と呼べる。
夫が買った分譲フルリノベーションのマンションで何を言っている、と頭をはたかれそうだが、うちは私しか稼ぎ手がいなくなってから生活ランクを若干、下げた。よく行くスーパーはライフやサミットから業務スーパーやマルエツになったし、フランフランに寄って、ちょっといいかも、と思ったものは類似品がスリーコインズやニトリにあることに気がついた。夫が「無理」だから外食はしない。でも潔癖症だから水道代が高いし、車は急に廃車になる危険をはらみ、二日分の食材が一食でなくなるし(これからはもっと少しずつ作ろう)、もしもの時のお金は沢山あった方がよい(個室の病棟は四畳半でも高く、ベッドの使用料は保険適用外、実費である)。結局、意識できる分はわざとギリギリで暮らすくらいがちょうどいいのかもしれない。……ああまた、思考がうるさい。何を語り出すかわからない。夫が多動で衝動的で不注意で、なにをいつしでかすかわかったものでないように、私は、なにを考え出すかわからない。
一緒にいると刺激的、と愛を告白してきた十四歳の時の男の子は、ついていけない、と十七歳で離れて行った。キスしかしていない。その次の男性が鋭丞である。
「喫煙所行ったら、ヘルプマークだらけの、人工内耳ついたバチバチの金髪ギャルが長い爪に赤ラーク挟んでて、なんか、あの景色のTシャツ欲しいわ、っと、デートで待たせてごめん」そういう人、だった。分かる。というか、私より、「刺激的」で、良い。思ったことを思ったまま言う。彼はラッキーストライクを吸っていた。「ガキ使のチキチキ利きナントカ、優勝は濱田祐太郎しかおらんしょ」と言ってあっけらかんとしている。「いや、辻井伸行かもしれんな」、「辻井伸行、ガキ使出るかなぁ」、「ギャラがな、破綻するな、番組」

さて、メイク用品をポーチにしまう。それをマイケルコースに入れる。冷蔵庫から出したダージリンをジョッキで飲む。生理の時は喉が渇く。新しいカモミールティーのパックをガラスポットに入れて、サントリーの天然水を二本注ぐ。ラベルを剥がしてペットボトルを捨てる。ガラスポットを冷蔵庫にしまう。
そろそろ十時になる。流石に鋭丞を起こさなければならない。寝起き、悪いんだよな。今日みたいな悪天候の日は特に。
冷えてしまった彼の朝食をトースターで軽く温める。

鋭丞。起きて。おはよー。お、は、よ。

強めに背中を三回叩く。

ん……んぐぅ……あう。

あ、起きたね。お、は、よ。

…………。

眉間にシワ。ため息をついて、壁側を向いてしまった。

ああ、機嫌が悪い。おーい、とおどけて肩を揺すると振り払われた。そのまま伸びをして、肘をついて上体を起こす。起きねば、という気はあるようだ。

えい、頑張れ。頭痛いね?ご飯食べてお薬飲もうか。

こく、と頷いた。唇の左側からよだれ。

まず、洗面所で歯を磨いてやる。口腔内が狭いわりには歯並びがいい、と思う。

排尿を見守る。長く眠っていただけあって、大量に出る。手を洗わせる。泡は手首まで、と、説明する。パニックにはならなかった。
介護用の食事エプロンをつけて、朝食。美味いとも不味いとも言われないが、フォークで突き刺して全部食べた。カモミールティーのお代わり一杯。ダージリン四杯。いつもの薬に併せてロキソプロフェンナトリウム(ロキソニン)六十ミリをペットボトルの水で飲ませると、五百ミリ強、一気。目が覚めてきたのか、宇宙語の独り言が始まった。スペイン語とタガログ語と韓国語をミキサーにかけたような、誰も聞き取れない言語。一応、日本語話者なのに、よく、五十音の外の音をこんなに並べられる。エアコンをつけてやる。濡らして絞ったウォッシュタオルをレンジで温め、簡易蒸しタオル。振って冷まし、よだれの白い筋がついた顔を拭う。

お顔、拭くね。

……ヴぃぎ、ああっ、んうっ。

イヤだった?

……うん。

今日、初めて会話が成立した。鋭丞の関心がこちらを向いている。

次、お着替え、隣の部屋行きます。

うん。

結構、機嫌悪いなりに脳の覚醒度がいいな。十二時間半寝たのだから、と考え、ひとり頷いた。

ホットカーペットの上でパジャマを脱がせ下着姿にし、それをめくってわきの下と胸下にロールオンの8×4、マンハッタンリネンの香りを塗ってやると、冷たかったようで、軽く震える。これは、彼がテスターを嗅いで気に入り、クリエイトで勝手にカゴに入れて譲らなかった品である。考えれば、素っ頓狂な彼の、清潔感を演出する助けになっている。香水代わりだ。ハーフジップの白いセーターと黒いスラックスを着せる。黒いVネックカーディガンは身体よりワンサイズ大きいやつ。靴下はヒートテックの五本指、ロングタイプ。ズリ下がるのを嫌がるからソックタッチが要る。履くのを手伝う。色が白くて肌が薄いから、モノトーン、似合う。首元に白いペイズリーの大判バンダナを巻いて、

きつくない?

……うん。

出来たよ、次、お顔にクリームね。

…………。

居間で、薬指にちょっと取ったミノンのモイストチャージクリームを顔に広げる。皮膚が乾燥しやすいのだった。普段は嫌がるが、今日は大人しい。
メモパッドを見せる。彼の黙読、明るい茶色の瞳の動きは、事故前には劣るが速い。

りっかちゃんすこしおなかいたい……。
りっかちゃんすこしおなかいたい……。

すくっと立って私の手首を持ち、寝室に連れて行ってベッドに寝かせてくれる。

りっかちゃんすこしおなかいたい……。

ベッドの頭側にある白いサイドテーブルの、水なしで使える、垂らすだけの小型アロマディフューザーに、ヒノキの精油を一滴乗せてスイッチオン。
当人はドスドスと居間に戻った。ドン、と扉が閉まる。

ありがたい。騒がないで、かつ問題を起こさないでくれれば充分だけれど、どうだろう、叶うかな、通じるかな、と軽い気持ちで書いただけなのに、優しい。甘えさせてもらおう。ベッドカバーと毛布の間に入る。ヒノキの匂いが仄かに立つ。使い方、買った時に一回軽く紹介しただけなのに、覚えてるんだな、と感心した。あ、溶ける。眠い。メイクしてあるのに、寝そう。今は月初の一週間が過ぎたところだ。季節の変わり目で不安定な鋭丞に気を張って、やっぱり不安でいっぱいの、勤め先の障害者対応歯科の患者さんたちをなだめて。私だって独立した一個人だ。疲れもする。ああ、気が遠い。居間、静かだな。何をしているのだろう。国語科教員免許持ちの血が騒いで、油性ペンで壁に漢文、とか。……やはり、起きなきゃ。

なんてことはない、解約してWiFi環境下でしか動作しなくなった自分のスマホとテレビをリンクさせ、テレビでアマゾンプライムビデオを鑑賞していた。ヘッドホンをし、音が漏れぬよう気まで使ってくれている。画面の中ではショートヘアの杉咲花さんがレモンケーキだろうか、崩して食べている。
鋭丞がひとりで映画を見ているのも、それがファミリー向けではなさそうな邦画なのも、ヘッドホンをして音に気をつけているのも、意外だった。字幕がないから、台詞がわからない。唇の形を見る。読めない。
鋭丞は市民病院で、「視覚優位ですね、耳からの情報より、目で見たもののほうが入りやすい」と言われた。私が話す時、彼は私の目と唇とを交互にじっと見る。彼の話す、十数個の言葉、発音が怪しいものばかりだ。彼は、聴力こそあれど、一種の無声映画のような世界に生きているのかもしれない。それは、不安にもなろう。理解できる文字で書かれた予定に固執もしよう。何でも、いつも同じがよかろう。よく知った、慣れた妻の味を愛すだろう。
トイレでナプキンを替えて寝室に戻る。鋭丞の感覚を想像すると、涙腺にくる。
あ、そうだ、お昼ご飯、どうしよう。手間だな。寝てしまいたい。うちはウーバーイーツや出前館が使えない家だから、……起きなきゃ。
リンゴ、規格外品を通販で安く買ったのを、三つ、皮をむいて八等分し、レモンの薄い輪切りとレーズンとはちみつと水。煮る。甘い匂いでわかったか、鋭丞が画面を止めてヘッドホンを外し、自分からエプロンをつけて食卓についた。
竹串がリンゴを貫通したら出来上がり。

たんばん、じゅーろくじ、ぎょむすーぱ……。りっかちゃんすこしおなかいたい……。たんばん、じゅーろくじ、ぎょむすーぱ……。
鋭丞の声で起きた。え、寝てた?どこからが夢?
手を引っ張られて起き上がる。
居間に出ると、昼の皿と鍋、カトラリーが洗ってカゴに並べてあった。乾燥機にかけた洗濯物も、全て売り物のように畳んで、性別でわけてある。

鋭丞、やった?

…………えいすけやった。

ありがとう。嬉しい。

……たんばん、じゅーろくじ、ぎょむすーぱ。

おトイレ行かなきゃ。膀胱いっぱいでしょ。

シシー、シー……。

永遠、みたいな放出と掃除、手洗いを見守る。泡立ては手首までで止まる。

雨は止み、雲の切れ間から日差し。しかし、メモパッドで予告してしまったから長傘を一本車に乗せる。

業務スーパーの中では手首にゴムハーネスをして、手を繋いで歩く。反対の手でカートを押して、予め説明した品物を選び取ってくれる。支払いと袋詰めは私がやったが、荷物は彼が左手に持った。牛乳、二本もあるのに。

牛豚ひき肉はパック半量、卵とパン粉、牛乳を加え練り混ぜて一口大にまとめ、カットトマト缶で煮る。クレイジーソルトを少々。明日の鋭丞のお弁当に、ミートボールを作っているのだ。冷蔵庫のブロッコリーを茹で、小さく切る。
お米を炊き、S&Bの赤缶と残ったほうのひき肉でカレー炒飯。こちらは夕飯である。増えるワカメを戻してちぎったレタスと合わせる。
デザートにレアチーズケーキを作る。マリービスケットは砕いて土台にする。レモンの皮を削って甘く煮て、一番上にかざる。冷やしている間に夕飯。

鋭丞は、私が夕飯を作っている時、必ず求めてくる。今日も耳をねぶられる。

今はしない、九時。

くじー……。

そうよ。

ぐずることもなく、宇宙語をボソボソ話しながら布張りのソファに伸びた。

入浴させて、歯を磨いてやって、ボディクリームを塗って。
「ピアニカ式マッサージ」で、三分。オーガズム。レアチーズケーキは、土台だけ残した。ちょっと申し訳なさそうに。

鋭丞はレンドルミンを飲んで、かく、と眠った。すぐに大いびきが始まる。私は耳栓が要って、毎朝、六時に、アップルウォッチの振動で起きるのだった。お弁当、ミートボールの他に竹輪を切って細切りキュウリを入れたりチーズを入れたり。
土台を削ったレアチーズケーキを小皿に盛って、着替え。ピンクのフェザーニットに深い青のジーンズ。靴下はパンティストッキング。洗濯機、残り湯、「お急ぎ」モード。昨日と同じメイク。前髪、いち髪のまとめ髪ワックスでおでこ全開にした。チャンネルを合わせたNHKによると今日は一日晴れだから、洗濯物にガス乾燥機は使わないでベランダに干す。まだ暖かいとは言えないが、そのうち、陽さえ上り切れば。
鋭丞を起こして、目を開けては閉じるのを繰り返すところ、無理やり抱き起こして洗面所で歯を磨き、簡易蒸しタオルで顔を拭いてミノンのクリームで保湿。土台を削ったレアチーズケーキを食べさせて服薬。作業所指定の作業着に着替えさせるときにマンハッタンリネンの香りを塗って、冷たさに、ひゃん、と言われ、ちょっと笑った。五本指ソックスを履かせ、持たせる連絡帳に非接触式体温計で出した三十六・八度、記入し、放尿を見守りながらその他様子を書き込む。
中途覚醒なく九時間寝ました、寒くて魂が抜けています。
ボールペンの後ろのゴム印を捺す。「逸嶋」は中々ない姓で、百均に判がない。これはマイナンバーカードを作って私が二万ポイントをもらったときに、楽天で特別注文した。他の印鑑(銀行印、認印など)は、彼が持っていた。
彼のOUTDOORクラシック、黒いリュックにお弁当の巾着、ダージリン入りワンタッチ水筒、毎日ハイター漬けにしているおしぼり二本、介護用食事エプロン、エビリファイ三ミリ二包、電子メモパッド、こちらはA4。それからリング留めの絵カードを入れ、ロングコートを着せてバンダナ黒を巻き、ヘルプマークを掛けてやり、リュックを背負わせデリカミニの後部座席に突っ込んで、海沿いを走る。だいたい二十分で着く。まだ半分寝ていて宇宙語モゴモゴしゃべるのを指導員さんに引き渡し、一回帰る。洗い物をしつつマリービスケットの残りを食べて、ロキソニンを借りる。パンツを履くナプキンに替えて、ストッキングとジーンズを履き直す。ベージュのテーラードコート、家中の戸締まりをチェックし紺色のanelloにメイクポーチとスマホと鋭丞のお弁当のついでに作った「端っこグルメ弁当」を包み、水筒にカモミールティー。合皮のショートブーツを履いて、マスクをし、家を空ける。寒い。咄嗟にanelloから、スマホが触れる赤い手袋を出して装着。地下鉄の駅まで電動自転車を漕ぐ。向かい風、全力。寒さの炎でも立ちそうである。山一つ燃えるくらい。駐輪場代、一日百円。ありがたいことに、月末に実費精算で歯科から戻ってくる。
地下鉄、八時八分発の横浜方面。先頭に並んだから、運が良ければ座れる。車両がホームに滑り込み、風が立つ。
……今日は別の所に運がある。
駅から歯科までは、徒歩五分。凸凹の少ない道を進むと、広い駐車場があり、薄ピンクの大きな平屋が建っている。裏口から入り、既にPCを触っている先輩や歯科医師に挨拶をしてタイムカードを押す。女子更衣室で着替える。ここの制服は上下白、パンツタイプ。ブーツをナースシューズに履き替えて、カーディガンを羽織り、名前と顔写真が入ったネックストラップを下げて出る。手を肘まで洗う。

歯科医師、歯科助手、衛生士、事務員が揃うと朝礼。
院長、四十五歳、が話し始める。黒縁メガネをかけ直しながら、
「えー、皆さん、おはようございます。本日、低気圧が去ったばかりで患者さんの不穏が予想されます。怪我に気をつけて。あと、歯科衛生士の滝口さん、発熱でお休みです。あと、今日、朝一番で湖山康太さんの予約ありです。全身麻酔で親知らずの抜歯と歯垢除去。ね、全体的に質問あればお願いします」
「その、こやまこうた、さんて」入って二週間の歯科助手、二階堂さんが挙手する。
「敢えて挙げる、ということは、何か問題行動とか、注意事項があるんですか」
「……ああ、二階堂さんは初めてか。湖山さんは百八十センチ、百キロ。柔道選手でしたが練習中の事故で高次脳機能障害を負いました。重度の知能障害及び自閉傾向、多動、不注意、衝動性があります。家族以外と意思疎通ができません。今回は手足拘束後吸引麻酔を行ない、処置にあたります」
「承知しました」

湖山康太さんは、ご両親と来院。一九六九年生まれ。かつては筋肉であったろう部分は脂肪になり、腹部など、でん、と大きく垂れている。静かに待てないから、いつも、開院と同時に来る。処置室にはお母様を伴って、入るなり、ぐああああ、と、獅子のようなゲップをした。

痛い、声が出ない。腕が心臓になったように、ドクドク脈打つ。
処置が終わった湖山さんを別室に運び、拘束を解いて、時間を置いて、意識チェックのため声を掛けたら、ムク!と起き上がって右腕を噛まれた。犬歯が抜けない。噛まれ続けている。傍らのご両親は黙って見ている。「ダメ」とか言うとパニックになるんだろうなぁ、うちの鋭丞もそうだから、それだけはわかる。誰か、来て。痛みに涙が止まらない。下を向く。点々と、「私」が垂れている。白い制服、袖、赤。
生きる色。生きているから痛いんだ。

「逸嶋さん?…………逸嶋さん!」
歯科衛生士仲間の、入野さんの声だ。
「逸嶋さん……うわあ、ええ、抜く、抜くね、康太さんのお母さん、音、立ててください、何でも」
「は、はい……」
お母様は折りたたみパイプ椅子から立ち上がり、畳んで、倒した。

がっしゃーん。

歯を立てていた湖山さんが、驚いて後ろを向く。
歯、腕から抜けた。入野さんが圧迫しながら、横の、もう一台あるベッドに私の腕を置く。じわ、と、シーツに血、染みる。
「逸嶋さん、低くしゃがんで。心臓より腕を高く」
「は、はい、うん」
「院長呼んでくるから、傷口、強く押さえてて。お名前は?……痺れはない?」
「逸嶋律歌……痺れはない、大丈夫」
入野さんが院長を呼びに行くと、彼が車を出して外科に行くから裏口で靴を履けとなった。

入野さんに支えられ、このまま早退だから着て来た衣服を、誰かが持って来ていた西武デパートのあの青丸の大きな紙袋に入れて持ってもらい、院長の白いレクサスの後ろに並んで乗る。

外科の処置室では、制服の袖を切られ、部分麻酔をかけられ、よそ向いてて、と言われ、あとはよく知らないが、出来上がりは包帯で巻かれ、お風呂は底を切ったビニール袋をはめてテープで固定してバスタブではなくシャワーで、と言われた。二日後、消毒に来ることになった。
そこの病院は中々に古く、タイル張りの玄関で靴を脱いで緑のスリッパに履き替えて板張りに上がり、処置を受け、薬は支払い時に院内処方、だった。ボルタレンの錠剤と併せて診断書が来た。それだけで三千円。頼んでもないのに三千円、と、ちょっと詰まったが、労災のために、ということで院長が払ってくれ、私はただ申請書をダウンロードして印刷、記入し職場に持って行けばよい、とのことだったので、厚生労働省のホームページからスマホにPDFを取り、家に送られるついでにコンビニで刷って、あれこれやってもらい申し訳ないので院長と入野さんにほうじ茶と肉まんを買い、帰宅した。よろよろ着替え、袖を切られた赤い制服は鋭丞の「一級」の方の障害者手帳を提示して区役所でもらった、指定のゴミ袋に入れ、セメント作りの集積所へ持って行く。麻酔のためか、落ち着いた、妙に和やかな気分になっていた。部屋のデジタル時計は午後一時を表している。怪我しておいて、アレではあるが、昨日は別にして日頃、常に手か目の要る鋭丞もいない、本当の自分だけの時間ができた、と感じて止まなかった。腕の痛みが再発する前に夕飯を作ろう。ニトリの中型鍋を二つ出し、片方はビーフストロガノフ、片方はミックスベジタブル缶を開け汁を切ってコンソメスープ。カスピ海ヨーグルトも仕込んだ。常温で発酵させるから、「えいすけはさわりません」と書いた大きな付箋を貼る。ちらとソファに差し向かいになった本棚に目をやる。
鋭丞の本は、あまりなかった。電子書籍派なのだった。日頃、ふと目について感傷の火がつかなくて、これはよい。たった一機、タブレットが、本棚の最下段の隅にある。その隣も上も、高次脳機能障害に関する書物だ。例として挙げられている多くが車椅子ユーザーか、あるいは口頭コミュニケーションのとれるケースで、そのコツがどうだとか、あまり参考にならなかった。
私は労災の申請書を作ることにした。負傷部位、右腕。負傷理由、ヒトによる咬傷(こうしょう)、……。
湖山さんも鋭丞と同じ高次脳機能障害だ。多動、衝動があり、不注意なのも、自閉傾向も一緒。でも鋭丞は人に怪我をさせたことはない。何が違う。性格か。運か。風向きか。やはり、私たちは、身動きの取れない水槽のロブスターだ。
その時、院長からラインが入った。
「具合はどう?今週は休んでね、有給消化じゃなくて休業補償にしておくから。この度は監督不行き届きで申し訳ないことになった。反省しています。ご主人ビックリしちゃうね。当院で歯科衛生士を続ける気があったら嬉しいです。頼りにしています。返信についてはお気になさらず」
院長にだけは、鋭丞のこと、打ち明けてあるのだった。
「お疲れ様です。逸嶋です。
本件フォローいただき、恐縮です。休業補償の件、承知しました。お心遣いありがとうございます。後ほど必要書類を歯科宛に郵送いたしますので、お手間と存じますがご確認ください。また、主人の心配までいただき、御礼申し上げます。今後ともよろしくお願いいたします。以上です。」送信。既読がつく前に閉じた。
中型鍋、宮崎製作所のアルミ製二つにグリーンカレーを目いっぱい作った。同じシリーズの大鍋に肉じゃが。ご飯を五合、炊き、全て味覇で炒飯にする。一回分ずつラップに包んで冷凍する。具はネギと蒲鉾のみじん切り。麻酔が完全に切れたら痛みが始まるから、その前に最低でも五日分、夕飯の調理をしなければ。カローテの両手鍋にポトフ。白ご飯を十合炊いて冷凍。午後三時を過ぎた。
anelloから手つかずの「端っこグルメ弁当」を出し、コートを羽織って、徒歩十分もかかるわりに一時間に三本しか来ないバス停へ。駅に自転車を取りに行って、ついでに目の前のダイエーで欠いた食料を買うのだ。やはり外は寒い。骨身に染みる、という慣用句があるが、骨を通り越して神経に刺さる。錐(きり)だ。

思考促迫の話をさせてほしい。小学校まではよかったが、地元のマンモス公立中学校に入ってから人間関係がダメになった。思考が止まらないから、人の話を聞いていられない。場にそぐわないことを言う。頭に浮かび次第、口に出してしまい、自分では不思議と止められない。「空気が読めない」ことを最も嫌悪する思春期の女子たちは、その権化たる私を当然、敵とし、排除し、願わくば学校に来るな、と、あの手この手を使った。「いじめ」と呼べたかもしれない。私は、三年経てば終わるから今は毛穴の黒ずみでも気にしていればいいや、と、相手にしなかった。勉強は、出来た方だった。試験範囲、それは教科書に載っている範囲、なので、試験期間に入ったら教科書だけを読んだ。学級崩壊で不真面目な生徒が踊り狂う傍らで静かに教科書を眺め、対応の問題集を解く私は、教師から見て、随分可愛かったらしい。知識の他に「感覚」のいる美術と音楽以外は、三年間、最高評価だった。授業中、教師の板書の間違いを見つけ、咄嗟に指摘しても、「市來は賢かね、言う通りったい、皆、見習って」と、嫌がられなかった。三年間、学級委員をやった。
高校は地元から離れた全寮制の私立、卒業時に調理師資格が授与されるところ。手に職をつけて、都会で早く暮らしたかったのだ。そこへの入学時は、自分が将来、東京の国立大学に入る等、思いもしなかったし、ライブハウスで出会ったエンジニアと結ばれるとはもっと思っていなかったし、そのエンジニアがバイクで転んで高次脳機能障害を持ち、まだ二十代と三十代のカップルなのに介護生活になるとはもっともっと、思っていなかった。
努力ではどうしようもないことがある、という、勉強なのだろうか。鋭丞の事故そのものや、後遺症と共に息を吸うこの暮らしは。
自転車を留め具から外して、Suicaで百円を払い、ダイエーまで押していく。ここは、いつ来ても空いている。地下鉄とJRが停まる駅のすぐそばなのに。なんとなく、「ピクトリンク」の安否が気になって、フードコートわきのゲームコーナーに行った。機種は変わっていたが、「ピクトリンク」機能はまだあった。ホッとした。さて、サボりなのか試験期間の早上がりなのか、誰もいないフードコートの隅で、制服姿の女子高生、四人、クレープを食べながら話し込んでいる。四人とも、流行りの白ギャルで、ゆうちゃみからエルフの荒川さんまで、という感じ。
クレープ、久しく食べてないな。

ストロベリーチョコレートの、ホイップ多め、を頼んで、受け取り、会釈して席についた。かぶりついては噛んで飲む、を繰り返した。生理の時は甘い物が染みる。あ、帰ったらお弁当あるのに。……まあいっか。今日はチートデーだ。今週、あと全部、特別休暇だし。一階の食品コーナーでちいかわエコバッグを満杯にし、怪我のない方の腕にかけ、こっちまで痛めたらどうしよ、と思いつつ、自転車のカゴに乗せる。「消毒用の」芋焼酎一升が重い。……あくまで「消毒用」の。

帰って、買ったものを冷蔵庫に詰める。
洗濯物を取り込んで畳み、タンスにしまう。
デリカミニに乗り換え、鋭丞を迎えに行く途中、郵便局に寄って、例の書類、三つ折り白封筒入り、を窓口に預ける。

鋭丞は、駅で業者に回収されたペットボトルや瓶や缶を洗う業務に従事している。ひたすら、立ち仕事である。足首の弱い彼にはきつかろうと思うが、それでも、やっとできた作業所の空き、こちらの都合は言えなかった。福祉作業所は、何年も前から、椅子取り合戦状態で、入れること自体、すごく幸運らしい。工賃(給与)は鋭丞の通っているところの場合、月あたり二万円ちょうどだが、それでも、平均よりは高い。うちは給食費がかからないから、他のお宅と違い、マイナスにならない。

「す、すみません、逸嶋さん」
そわそわする鋭丞の手首を握った指導員さん、「ながや」というネックストラップをかけている、が私に頭を下げる。鋭丞の右頬に、三本の傷が走っている。
「はい、あの、ええ、この怪我ですか?」
「はい、ちょっと不機嫌な他の利用者さんに、たまたま、ロックオンされちゃいまして、僕も他の職員も止めきれなくて、こう、爪でギギッ、と。一応、傷は消毒しまして、絆創膏は気になるみたいで外されたんですが。しばらく、思い出して荒れたり、しませんかね。すみませんでした、本当に」
「あらまあ、お手数かけました。お相手は落ち着かれましたか?」
「ああ、あの、言いにくいんですが。……鋭丞さんが右頬ノックアウトして、男性職員みんなで救護室に運んで」
「あら大変、鋭丞、ちょっといらっしゃい」声を低める。
鋭丞が、キョロキョロしたまま私のところに寄ってくる。

鋭丞、その場でやり返すのは愚かだよ。

えいすけ、やいかえした……。

反省しようね。

……あい。

肉体の力を使うのはエンタメだけ。それ以外は戦争というの。

……ごえんなたい。

何のためにプロライセンス取ったの?弱者を叩くため?

……ごえんなたい。

もうやらないって約束できる?

……あい。

まずは、ながやさんにごめんなさいしていらっしゃい。

……ごえんしゃい。

ながやさんの方、向いて、目を見て。

鋭丞はくるりと向きを変え、ながやさんの顔を見ながら、三キロ先の蚊の羽音くらいの声量で、「……ごえなしゃ、……」と言った。
「あっ、はい、わかりました!……奥様、あとはこちらで相手方のフォロー等しますので、鋭丞さんをあまり凹ませないでください!真面目にやってくれる大事な戦力なので、ぶっちゃけ、相手方より何倍も……」
「はあ、左様ですか。では、あと、よろしくお願いいたします」
「はい、あの、保護者の方、皆さんが奥様みたいだったら、トラブルないなあ、なんて、……あ、心の声です、忘れてください。お身内の過失を認められない方もたくさんいらっしゃって、はい、あと、鋭丞さんは正当防衛だと、僕個人は思いますが」
「……そう言って頂けて幸甚です。でも、この人、二十代でプロボクシングのライセンスを取ったんです。事情が違います。では」

……鋭丞、ほら、ハーネスはめて、手を繋ぎます。車まで行きましょう。

く、る、ま。くー、るー、ま。はーねす。はー、ね、す。くー、るー、ま……。

鋭丞は繰り返しながら、私にゴムハーネスをはめられ、ゆらゆら歩き出した。私の顔を見ない。気まずさがあるのだろうか。
鋭丞を後部座席に座らせてリュックを外してベルトをし、ハーネスを取る。この大きい縦長の手が、他人を殴ったのか。

はーねす、はーねす、く、る、ま。……わいぱっくつのむねえ、わいぱっくつのむねえ……。
目が虚ろだ。「わいぱっくつ」とは抗不安薬のワイパックスのことで、エビリファイとは別にとんぷく薬として処方されている。

ワイパックス飲む?リュックから出してください、水筒も出してください。

……あい……。

ワイパックス、ひょっとして引きずった、今は内包されている怒りが家で爆発したら止められない、今日は特に、ということで、二錠投与した。水筒のダージリンで飲ませる。

すぐ効くからね、出発しますよ。

スライドドアを閉めて運転席に回る。
ミラーに目をやると、鋭丞がいない。
「えっ」
振り返る。長い身体を縮こまらせ、シートに横だおれになっていた。ベルトは外してしまったらしい。こちらに背中を向けている。
海沿いを走る二十分、うう、とか、ぎい、とか、唸り声がした。理不尽な出来事に耐えているのだ。ちょっと注意しすぎたかな、と思う。

家に着く。
お互い、コートを脱ぎ、隣同士のフックにかける。鋭丞は手を洗う。今日は作業着の上下を洗濯機に放り込んで、肘まで。雑な動作が、映画に出てくる殺人犯を彷彿とさせる。彼は、見えない血を洗い流している。

まだ腕が動いたので、十六時に炊けるよう予約していた白米の他、イカを醤油とバターと生姜で焼いた。豆腐とネギの味噌汁を作った。うちでは、「十五夜味噌」という、大豆を煮て麴と混ぜ、手作りしたものを使っている。マルコメの坊主、可愛いのに、鋭丞が食べない。空腹で待てずにぐずる彼に、「端っこグルメ弁当」を食べてもらう。
寒いだろうに、平日の鋭丞は、下着姿で夕食を摂る。何を勧めても着ない。
食後の服薬。レキソタンやインチュニブ等を飲ませる。
終わったら、気の済むまでフローリングワイパーをかけてもらい、シャワー浴。袖をまくった時に、

りっかちゃん、てっていたいね……。
りっかちゃんてっていたい……。

ボソボソと繰り返す。
それはそのうち、

ごえんしゃい……。
ごえんしゃい……。
ごえんしゃい……。

となった。記憶がごっちゃになっていて、私の怪我と、自分の拳がつながっている、のか。つまり私に、自分が怪我をさせたと認識している?
その日はただ、ごえんしゃい、ごえんしゃい、と低く唸り、「ピアニカ」を求めては来ず、独り言、パジャマを着せてレンドルミンを飲み下し、寝付く瞬間まで続いた。
大丈夫よ、と一々返していたのだが、届いただろうか。

外科医に指示された通り、ビニール袋の底を切って、水が入らないようテープで留め、サッとシャワーを浴びてビニールを取って、着替えてドライヤーをし、念のためボルタレンを飲んで、明日の六時にお米が炊けるよう炊飯器、設定してからベッドに入った。芋焼酎は、誘惑がたまらなかったが、しかし、血流がよくなって傷が痛むと困るから、耐えた。腕、痛くはなかったものの、小さく脈打つ感じがした。
……その脈々が気になって眠れない。私もレンドルミンがほしい。スマホを開く。一か月前に足型をとって頼んだ鋭丞のソールが出来たと、補装具の会社からメールが来ていた。明日、リハビリテーション病院まで引き取りに行こう。本当は本人を伴って行くものだが、予定変更が苦手な彼に負担をかけたくない。その旨を併記して、夜分にすみませんと、腰、低めの返信をした。
それにしても、眠れない。ベッドに入って一時間は経った。脳は疲れているのに、目と腕が冴える。アマゾンを開き、暗い迷彩のバスケットシューズ、二十七センチと、一回ずつ結ばなくてもいい靴用ゴム紐を注文した。

明け方に一瞬、色のない、間違ってチャンネルを「アナログ」にした時のような、砂嵐の夢を見た。視覚以外は現世にあり、あ、衣擦れ、私は寝返りを打ったのね、とか、わかった。そのうちアップルウォッチが震えて、景色が終わった。
鋭丞は隣で、うつぶせで、顔だけこちらに向けて、寝ている。私は歯を磨いて、紺色のショートリブセーターに臙脂のロングスカート、靴下は洗いたての桐灰、に着替えた。髪を昨日と違わずセットし、メイクをする。今日はマキアージュのBBクリームと、キャンメイクのコンシーラーを使い、肌をちょっと厚く塗った。あまり寝ていないから顔色が悪い。あとは、昨日と同じ。手を洗い、六時に炊けた白米を塩むすびにして、鋭丞を起こす。今日の機嫌は、一体どうだろうか。毎日、おみくじだ。

おはよう、鋭丞、起きてー。

背中を強く叩く。

んお……。……おあよ……。

よし起きたね、今日も頑張ろ!

手を引っ張って上体を起こす。
言葉が返ってきたから、いつかと違ってあまり機嫌は悪くない。歯を磨き、簡易蒸しタオルで洗顔代わりに拭いて、保湿。塩むすびを食べさせ、服薬、着替え。体温を測って連絡帳に記録し、「様子」の欄に、「昨日フォローしていただいた件、忘れているようです。機嫌、比較的よいです」捺印。鋭丞、事故に遭ってから、何があっても寝るとそれまでの出来事を忘れたみたいにケロッとするようになった。脳のメモリが小さいのか。その割に、アマゾンプライムビデオのテレビへの繋ぎ方とか、アロマディフューザーの使い方とか、冷蔵庫には美味しいものがあるとか、フローリングワイパーのかけ方とか、は、きちんと覚えている。汁を切った肉じゃがとキュウリの塩揉みのお弁当を持たせ、少し急いで作業所に送り、帰って洗濯。ダブルのベッドカバーを衣類とは別に洗い、まとめて晴れたベランダに干す。ダブルのかけ布団も、大きな留め具で挟む。さて、リハビリテーション病院の事務室に電話をし、補装具のソールが出来たようでしたので今日伺います、と申し出る。この電話、午前中の早い時間帯が繋がりやすいから、急いでいた。業者の方との約束は午後一時。お昼は病院の一階にあるレストランで食べよう。あそこもまた、福祉作業所が運営している。双極性障害Ⅱ型の調理師さんと統合失調症のパティシエさんがいるらしく、何を頼んでも美味しいし価格も手頃。「幻聴が囁いたチーズケーキ」とか、「幻覚で見たティラミス」とか、事故前の鋭丞が笑いそうなメニュー名を、私は好んでいる。「限界ハンバーグセット」とか、「魚のムニエル、無理添え定食」とか、「シェフの体調ルーレットワンコインランチ」とか(要するに日替わり定食である)。いつも紅茶を頼むのだが、「お飲み物は躁(ホット)と鬱(アイス)のどちらにしますか」とウエイターさんに聞かれるのもいい。まるでコンセプトカフェだ。店長はきっとブラックユーモアが好きなのだろう。そこで働く人たちも、ある種、腹を括っている。

昼食。
シェフの体調ルーレットワンコインランチ(今回は欧風カレーにキャベツサラダ付き)、紅茶、食後にストレートの鬱で。
ダウン症の女性ウエイターさんが復唱したが、舌が長いらしく滑舌が悪くて合っているのかわからない。とりあえず親指を立てておいた。ウエイターさんは頷いて、
「めにゅ、おやずないしやす」と、薄いメニュー表を持って裏に行った。
店内をぐるりと見渡すと、入院患者らしき貸し出し車椅子に緑の浴衣型、病衣姿の紳士と、その妻、に見える淑女が、持ち込み品にしか見えないタッパー入りのソース焼きそばとおにぎり、唐揚げを広げている。いいのだろうか。ここが病院に附属したレストランでなく、ただの飲食スペースだと思っているのかもしれない。淑女のほうは縮れた後れ毛をたらして髪をひっつめ、白髪混じりであって、紳士の方に始終、あなたの食べ方がどう、とか、隣家のヒガシベさんがどう、とか、ヒステリックに話しかけている。紳士はそれを無視して、ゆっくりした手つきで、おにぎりを取って、牛のようにゆるやかにかじりついている。がらがらの店内が、淑女の声で混んでいる。

我が家の四十年後、かしら、否。否。

料理が届いた。早く食べて、出てしまおう。レジスター台に水草だけの水槽があった。紅茶(鬱)をボルタレンと飲む。まだ、腕は脈々していた。

ソールを受け取り家に帰れば、玄関前にアマゾンの箱。誰か来たタイミングで一緒に入れば、住人が「解錠」ボタンを押さなくていい。うちのマンションに来る配達員さんは、いつもそうしているようだ。「お急ぎ便」も「置き配」も指定しなかったのに、もう、手元に品物がある。不思議な感じがする。
家の中で、ダンボールを開封し、靴の箱と一緒に畳んで集積所に持って行く。常温で熟成させていたカスピ海ヨーグルトが出来上がった。冷蔵庫、牛乳パックごとしまう。気怠い。あの紳士と淑女を見て、四十年後の我が家、等と思った自分に嫌気が差した。私はあんなに、勢いよく喋らない。つけて行ったティファニーの結婚指輪が霞むというものよ。せっかくのプラチナが。……これ、少しきつくなったな。手も、新宿で初めて試着した時より節が目立つ。私も老いたのだ、と思う。専用のボックスにしまい込む。使われなくなって三年経った、鋭丞の指輪の横に。

水草だけの水槽を思い出す。前行った時はあそこにザリガニがいた。
ザリガニと、ロブスターの違いは、いるところが淡水か海水か、らしい、というのを、いつか、夫になる前の鋭丞が教えてくれた。

洗濯物を取り込もうとベランダに出ると、びゅううう、と海側から強い風が吹いて、思わずよろけた。

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