村井弥八
まずは岩手盛岡の国柱会のリーダー的存在、村井弥八に触れたいと思う。(※はじめにかなり国柱会資料を用意しているが、筆者は国柱会会員ではありません。勤行本「妙行正軌」も手配中ですが…)
国柱会の前身、立正安国会ではさかんに文筆活動を行なっており、機関誌、月刊「妙宗」は明治三十年に発刊、同三十ニ年には、全国の公、私鉄道の各駅943箇所の待合室に備え付けられ、多くの人が読んで各地に誌友ができていた。
なかでも、誌友会の「盛岡顕正会」で、リーダー格が村井弥八であった。熱心な信者で、一年間「本化妙宗式目」講習会の聴講生を許され大阪でアルバイト生活しながら聴講している。
村井弥八と宮沢賢治
「天業民報」によれば、立正安国会が国柱会に発展したのちも、村井弥八の活動は続いている。では、宮沢賢治は接点はあったのか。同じ岩手の国柱会同行員として交流があったと考えられる文面に出会った。大橋冨士子 著 『宮沢賢治 まことの愛』 48-49頁である。大橋冨士子は、国柱会田中智学の孫である。国柱会の為か色々書籍を見ているが引用例が少ない。けれども、宮沢賢治、村井弥八、また賢治の親戚で国柱会信行員の関徳弥の動向が、「天業民報」で史実として明らかになっているので、引用したい。
宮沢賢治 トシさん最後の日に
大正十一年十一月二十七日。宮沢トシ最後の日である。宮沢賢治が村井弥八を訪れる予定だったという仮説である。長い引用をする。
終わりに
如何であろうか。個人的には、村井弥八と宮沢賢治は交流がなかったとは言い切れないとしか言いようがない。国柱会長滝講師の送迎など考えれば交流を持つ予定だった方が自然と考えている。興味深い文面である。
同時に律儀に長滝講師を花巻駅で出迎え帰宅後、賢治にかの慟哭が待っていたとは、賢治自身思いもしなかっただろう。
これが国柱会がもたらした記録であることに変わりはない。より、深い国柱会理解で見える風景があるように思われる。国柱会資料を丁寧に読み込んでいきたい。
参考文献
『宮沢賢治 まことの愛』大橋冨士子 著 真世界社