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第12回 国柱会盛岡の村井弥八と宮沢賢治

村井弥八

まずは岩手盛岡の国柱会のリーダー的存在、村井弥八に触れたいと思う。(※はじめにかなり国柱会資料を用意しているが、筆者は国柱会会員ではありません。勤行本「妙行正軌」も手配中ですが…)

国柱会の前身、立正安国会ではさかんに文筆活動を行なっており、機関誌、月刊「妙宗」は明治三十年に発刊、同三十ニ年には、全国の公、私鉄道の各駅943箇所の待合室に備え付けられ、多くの人が読んで各地に誌友ができていた。
なかでも、誌友会の「盛岡顕正会」で、リーダー格が村井弥八であった。熱心な信者で、一年間「本化妙宗式目」講習会の聴講生を許され大阪でアルバイト生活しながら聴講している。

村井弥八と宮沢賢治

「天業民報」によれば、立正安国会が国柱会に発展したのちも、村井弥八の活動は続いている。では、宮沢賢治は接点はあったのか。同じ岩手の国柱会同行員として交流があったと考えられる文面に出会った。大橋冨士子 著 『宮沢賢治 まことの愛』 48-49頁である。大橋冨士子は、国柱会田中智学の孫である。国柱会の為か色々書籍を見ているが引用例が少ない。けれども、宮沢賢治、村井弥八、また賢治の親戚で国柱会信行員の関徳弥の動向が、「天業民報」で史実として明らかになっているので、引用したい。

宮沢賢治 トシさん最後の日に

大正十一年十一月二十七日。宮沢トシ最後の日である。宮沢賢治が村井弥八を訪れる予定だったという仮説である。長い引用をする。

"その重要な手がかりとなるのが、大正十一年十二月三日、五日、六日、『天業民報』に連載 された「妙高旅信」と題する小記事です。 国柱会本部の神野進氏が、平成四年夏に発見したも ので、その中に、十一月二十七日、盛岡に午后七時に着く列車が花巻駅に停車したプラットホームで「宮沢、関の両君に面し、関君は盛岡迄同車された、盛岡では村井君が出むかはれ た。(妙高)」とあります。「妙高」とは国柱会講師・長滝智大氏の法号で、長滝講師が東北・ 北海道に巡教中の短信を、旅先から送ったのが「妙高旅信」なのです。文中、宮沢賢治、関とは関徳弥氏(のちに岩田姓、ペンネームは関登久也)。花巻における 二人の国柱会信行員です。その入会の経過はのちにゆずります。 大正十一年十一月二十七日、それはトシさんの亡くなる日でした。おそらく二人で長滝講師に同行して、その夜の村井宅の会合に出席する予定だったのを、トシさん危篤の為自分は中止し、それでも駅に挨拶には出たのでしょう。律気な賢治のこと故、「ちょっと取込ごとができまして……」などと言葉を濁した気配までも、私には感じられます。「妙高旅信」では、「永訣の朝」にある通りの天候の中を、村井弥八君方へ午後七時に着き、会合をして、盛岡駅十一時発の列車で青森へ向う車窓から、関、村井の諸君に別れを告げたと記されています。賢治が花巻駅からトンボ帰りしたその夜八時半、あとでのべる、かの慟哭の時をすごしたの です。 長滝講師を迎送せねばならぬと、その間トシさんの傍を離れた律儀な賢治の心中を察すると、私は胸がふさがる思いがします。この「妙高旅信」でわかる、村井氏との信仰仲間としての交流が、私には賢治が法華経に感動したころからあったように思われてなりません。関登久也著『宮沢賢治素描」には、賢治が 入信当時『本化妙宗式目講義録』を五回もくりかえして読んだと語ったと、書かれています。 もちろん賢治は、自分の独自の心の動きから、法華経に、そして日蓮聖人に、さらに田中先生に近づいて行ったのですが、村井先輩の存在も、善知識となったような気がします。そうして 『講義録』三三〇七ページの大冊に何度もとりくみ、田中先生の生き生きした講義の世界に没入していったに違いないと、私は考えます。"

大橋冨士子 宮沢賢治 まことの愛

終わりに

如何であろうか。個人的には、村井弥八と宮沢賢治は交流がなかったとは言い切れないとしか言いようがない。国柱会長滝講師の送迎など考えれば交流を持つ予定だった方が自然と考えている。興味深い文面である。
同時に律儀に長滝講師を花巻駅で出迎え帰宅後、賢治にかの慟哭が待っていたとは、賢治自身思いもしなかっただろう。

これが国柱会がもたらした記録であることに変わりはない。より、深い国柱会理解で見える風景があるように思われる。国柱会資料を丁寧に読み込んでいきたい。

参考文献
『宮沢賢治 まことの愛』大橋冨士子 著  真世界社

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