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第18回 宮沢賢治の肖像から

今回は、昭和二十三年 十字屋書店 から出版されていた、『宮沢賢治の肖像』 #佐藤勝治 著 から国柱会を中心に取り上げてみたい。宮沢清六によれば「これがでるのに25年かかった」と言って喜ばれた待望の宮沢賢治研究書であった。特に仏教観点からの宮沢賢治研究で、春と修羅、銀河鉄道の夜、雨ニモマケズ詩などが取り上げられている。#小倉豊文 による雨ニモマケズ詩の十界分類などは既に先行資料としてあったのには驚いた。それでは引用をみていただきたい。

"ついには父母の反對を押し切って、法華経中心の日蓮宗の一派である本化妙宗に 入信し、その運動機関である國柱會に挺身するために無断生家を出て上京したのであります。國桂會は、一天四海皆歸妙法の實現を目的とする行動的な信仰を唱えました。農地質學研究科を卒業した翌年、二十六歳の熱情青年賢治はこの運動に強く共鳴して、 全人類が妙法に帰依する眞質の平和世界建設のために家を捨てたのであります。(もつとも晩年の賢治は法華経信仰は益々ゆるがなかったけれども 國柱會運動に遠く離れたやうであります。)" 

昭和二十三年『宮沢賢治の肖像』 佐藤勝治 著

国柱会、そして石原莞爾とは

国柱会は、自分たちの宗派を本化妙宗と言っている。全人類が妙法蓮華経に帰依し、国立戒壇を設立して天皇を中心にした世界平和を目指していた。これをより一歩踏み込んだのが、石原莞爾だろう。昭和六年満州事変であり翌年の満州国建国に繋がっていく。理念としての、五族協和(五族協和とは、満洲国の民族政策の標語で「和・韓・満・蒙・漢」の五民族が協調して暮らせる国を目指した。)は石原は本気であった可能性が高いが、日本陸軍の満州進出に利用されていく。この辺は、映画ラストエンペラー でも描かれている。国柱会もこのような世界情勢からより先鋭化していくものではなかったか。このような侵略戦争には結核の宮沢賢治には最早ついていけないものになっていたのかもしれない。そもそも日蓮宗系の団体の中で宮沢賢治は国柱会でなければならなかったのかは今のところ文献に出会ったこともない。日蓮宗は発生自体に立正安国論といった社会変革志向はあった。妙法蓮華経を基本として世界平和を目指し、生きるもの全てが救済される妙法蓮華経という形の信仰に舵を切っていったに違いない。

国柱会の文芸、特に演劇志向

『宮沢賢治の青春 』で国柱会に接したのは、国柱会の演劇からではないか。アザリアの同人 #保阪嘉内 と宮沢賢治との間で話題に上がっていたのではないかという指摘は興味深い。書簡で宮沢賢治は保阪嘉内に、あなたの田中智学の講演を聞いた時間に比べたらわずかな時間しか聞いていないと述べている。決して誇張とも思われない。田中智学は文芸は宗教ではなければならぬという思想の持ち主で、様々な文芸活動をしていたが、特に力を入れていたのが演劇であった。大正十年三月に講演した、日蓮を描いた『佐渡』は好評を得大成功であった。歌舞伎座で25日間にわたって上演された。これは、大正十年が、日蓮生誕700年にあたっていたことによるものである。このような演劇が多いに宮沢賢治に影響を与え、また国柱会への信仰をより深めていったのではないだろうか。

最後まで国柱会会員であった宮沢賢治

最後まで国柱会会員であった宮沢賢治がどのような気持ちでいたかは分かりかねるが、昭和六年雨ニモマケズ手帳の通り、高知尾師のススメによる法華文学の創作に邁進したのは間違いのないところである。その法華文学の最高傑作を『銀河鉄道の夜』と見ていいのではないだろうか。『銀河鉄道の夜』については稿を改めて述べてみたい。

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