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傷つくスキル=感情の表現を失っていたことに気づく

自分がそうだからなのかもしれないけど
男性には比較的「自分の感情にフタをしている」人が多いと思う。

たとえば、仕事で何かイヤなことがあったとき
「まあこんなものだよ」と、自分の感情に目を向けないまま先へ進んでしまう。

そういった「割り切り」によって物事が円滑に進んだりするし、
社会で生きていく以上、ある程度は仕方ないことではある。

でも、そういった「感情の黙殺」に慣れすぎてしまった結果、ちょっと困ったことになった経験が自分にはある。

自分の感情がじぶんで分からなくなってしまった時期があった。
あの頃はけっこうヤバかったと、今になって思う。

じぶんが今
嬉しいのか、悲しいのか。
楽しいのか、ツライのか。

よく分からなくなっている時期があった。

ブラック企業でブラック労働をしていたときで、都心の1人暮らしをしていた。自分が思っていることを心おきなく話せる友人も恋人もいなかった。

今思い返してみると、鬱とまではいかないけど、けっこう疲弊した精神状態だったと思う。あの頃は。

その後、家族や友人のつながりなどのおかげで幸運にも回復することができた。

「傷つく」スキルを失っていた

その後に子どもができたとき、思ったんですね。

この人にはまったく「感情のフタ」ってものがないな、と。

幼児だから当たり前なんだけど。

ちょっとしたことですぐに泣く。心折れる。癇癪を起こす。

自分が「傷ついたよ!」ということを、小さい体ぜんぶを使って表現する。

でも、自由に感情を爆発させている彼を見ていて、どれくらい自分が「感情にフタ」をしていたかに改めて気づかされた。

これは自分が失っていたものだな、と半ば感心して彼を見ている。


尊敬といってもいいかもしれない。


子どもは「傷つきの天才」だなと。

対してぼくは「傷つくというスキル」を完全に失っていた。

理由はよく分からないけど、感情を表に出すことが恥ずかしいと思っていたんだと思う。

感情はある程度出す場所を選んで(1人のときとか)放出させなければ、溜まり、やがて重くなった心は動きが取れなくなってしまう。

傷つきを表現することで発散して、心は解放されるんだと思う。

自分は長い間、それができていなかった。

傷ついたとき、何も子どもみたいに泣きわめくことだけが「感情の発散」ではない。

認識して、言語化するのでも効果はある。

自分の感情が傷ついたという事実を認めてあげさえすれば、心は回復に向かう。

それを無視して、なかったことにしていると、やがて心はマヒしていく。

傷つくことは別に恥ずかしいことではない。

刃物に触れた手から血が出るのと同じだ。

大人だって傷つく。

以前noteで書いたことを、今になってもう一度考えてみました。

#子どもに教えられたこと

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