
〖にっき〗2025.2.26
こんなこと書きたいわけではない、と何度か我に返る。
太陽や空や風や木や花、土、川たちはわたしの中身、言いたいことを知っている気がする。
彼らを見ているときだけは安心する。
何も言わなくても分かっているよ、と。
何かを言うほどにずれていく。それでも書くという選択は、わたしを蔑ろにしているのではないか、と思う。
読書が苦手というレッテルを返上しようか。読書が苦手なのではなく、難しい文章を読むのが苦手なのだ。
趣味、というのはとても曖昧なカテゴリーではないか?人によってその温度が違う。
私は暇でお金が無いから図書館で本を借りて読んでいるにすぎないけど、それを趣味ということにしてもいいなと思った。それは「読書が苦手」を脱いだから現れた新しい感覚だ。ひとつの観念がしんだらしい。
noteに感想を書き、それが続くことで(それは他に書くようなことが起きないので)、また本を借りて読む。書くために読む。
いったい、何を書くことがあるのだろうと思う。自然たちは、わたしがそんなことを言うために生きているんじゃないんじゃない?と沈黙している。
いったい、何を書くことがあるのだろう。というのは、書く必要の無いことと言う意味だ。そんなことは誰もが承知なこと。ただそのへんのニンゲンにとっては物珍しいこと。そんなことはあなたがわざわざ言うことではない。言っても言わなくても世界になんの影響もない。どうだってよいこと。だけどあなたはあなたの仕事をしなければ、世界は不自然な方へまわってゆくよ。
何かを受けたことで芽生えるものを出すのではなく、そもそも最初からそこにあるものを出すのがわたしの仕事だ。
シヴァラートリーを個人的に行おうと、部屋を掃除し、塩で身体をこすり(めちゃスッキリ)、杉を燃やして浄化の真似事をし、キャンドルを灯してから、まずは目的を手帳に書く。
心でオームを唱え、軽く目的を祈った瞑想をしたあとで、ちょっと身体をほぐすようなヨガ。
それから瞑想に入ったが、結果から言うと、寝ます。
この一連の流れはシヴァラートリーのためにと思って私がその場の思い付きで行ったものなんだけど、そうやって意図されたものはその通りに働くというのが分かった。
意識の在り方ひとつでこうも違うのか。普段タラタラとどうでもいい意識垂れ流していることは、本当によくないのだ。
こういう瞑想を毎回出来るのが良いだろうけど、まずは週に一度でも、シヴァラートリーに向かうような意識で行うことにする。
いつも眠いのを優先しているけど、その気になれば今日みたく時間なんて作れるし、集中もできる。
というわけで、今日もありがとうございました☆
おやすみなさい!