暗渠愛好記
暗渠が好きだ。
暗渠とは蓋をした河川のこと。元々、川が流れていたけれど、その上を舗装して通れるようになった道や空間のことを指す。と僕は勝手に定義しているが、人によって、曖昧なところだ。川と湖の定義が人によって曖昧であるように、暗渠も人によってバラバラの捉え方をしているように思う。
街を歩いていて、ここは暗渠かな?と気づく瞬間がある。
つまり、この道は元々川だったんじゃないだろうかという推測のようなもの。その推測の精度が、暗渠を見れば見るほど上がっていく。やけにマンホールが多かったり、車両留めが設置してあったり、防火倉庫があったり、陰生植物が多かったり、そういう兆候をもとに、ここが暗渠じゃないかと推測する。街には沢山の秘密があり、我々は気づかずのうちに元々川だったところを歩いている。あのコンビニへの近道や、あの駐輪場が、もしかすると暗渠かもしれない。
ネットには沢山の暗渠愛好家がおり、ブログやSNSなどに暗渠を辿った写真や、文章を載せている。また、暗渠に対する文献も多く存在する。暗渠かな?という推測を、自分で調べた情報をもとに確認する作業のことを、暗渠好きの友人は「答え合わせ」と呼んでいた。確かに、暗渠かな?の推測がバチッと当たった時は嬉しいものだ。多くの街の秘密はすでに誰かによって解かれている。誰も足を踏み入れた土地などない。少なくともこの国には。
路線図や、道路網、都市は常に再開発を繰り返し、解らないものは排除されていく。特段東京都内では、よく分からない目的の店は淘汰されていくし、公園にも当たり前の遊具しか置かれなくなっていく。そんな中、暗渠は常に分からないもの側に立っている。不明瞭であり続ける力強さと、それでも主張しすぎることのない上品さのようなものを、私は暗渠に感じる。あらゆるものが整頓され、開示され、誰でも読み解ける看板が溢れる街の中に、暗渠は少しばかりのミステリーを生んでくれる。僕は探偵となって街を歩く。誰もいない路地を行く。解けない謎などないのだから。
暗渠沿いの家にはよく、観葉植物の鉢植えが置いてある。野良猫も多い。かつて川だった時の名残だろうか。最近気づくことだけど、路上喫煙している人も多いような気がする。川沿いで煙草を吸いたくなるように、暗渠には人に煙草を吸わせたくなるパワーがあるのだろうか。暗渠を歩く時、人々は知らず知らずの内に水を想起しているのかもしれない。スピリチュアルでもなんでもなく、過去から伝達されたメッセージを受け取っているのかもしれない。
暗渠は浪漫だ。どれだけ都市が刷新され、人々も移り変われど、絶対に抹消されない歴史がそこにある。川の流れのように時代が変わっていけど、決して変わらないのもまた川の流れだというアイロニー。
常に隠蔽される側に立ち、メッセージを放ち続けるその姿に涙すら流れる。見えずともそこにあり、それを教えてくれる。見ようとする人にだけ見える微かな光。秘密の匂い。訪れたいものだけが行ける楽園。
結局のところ、謎が欲しいんだと思う。痛々しいほどの真実と、薄汚れたゴシップしか書かれてない街中に、雑誌の巻末に書かれているクロスワードほどの謎が欲しい。都市というものに、そしてそれがもたらす進歩というものに、すっかり飽きている。喉が渇いている。都市生活者のからっからの心を潤すのは、見えない川の流れだと信じてやまない。
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