司法福祉を学ぶ。
昨夜は、社会的資源の乏しい者たちが至る自死について考えていた。
生きる世界が異なり、相容れない価値観を持っている故、自身の生活範囲を限定する人たちがいる。個人的関係の要因もあるが社会的なトラウマも大きい。
認知的に受けた洗脳や汚染を解除するための方法は、その人自身が広い世界を見ること。
今朝はE.フロムの「悪について」を読んだ時のような期待を抱きつつ、「司法福祉を学ぶ」を読む。10年ほど前の出版物。
【はじめに】から抜粋
どんな良い人にも悪い醜い愚劣なところが一杯あり、どんな悪辣な人にも泉のように清らかな良い資質が一杯ある。
との人間観をG.W. オルポートが提示している。私たちは誰でも、心の奥深くに悪の種を抱えている。 それが表に出てくるか、背景に退くかは、その人が置かれている人間関係と社会環境に深く 関連すると考える。
加えて, 魔がさす偶然が重なった時。 犯罪が引き起こされる。根っからの悪人はいない。
行為の責任を素質のせいにしたり、親の育て方や環境のせいにすることは、 “自分の人生に対して嘘をついていることだとA.アドラーは指摘する。自らその意志で人生のシナリオを書き変えていくことを提唱し、その弟子の Q.ランクは「意志療法」を掲げた。編者には主体性や自由意志性さえ抑圧され剥奪される社会的虐待があると考えられる。
永山則夫は、北海道網走に生まれ、父からの暴力と母による遺棄とゴミをあさる極貧の中で育った。心の支えであった姉は心を病み精神科病院に入ってしまう。編者と同年の1949(昭和24)年生まれの永山は、昭和元禄と呼ばれ編者 が大学に入った1968(昭和43)年に、 4件の連続射殺事件を起こし翌年逮捕さ れた。 1990(平成2)年に死刑が確定し7年後に執行された。
編者は、永山だったかもしれない。 永山でなかったのは偶然の重なりにすぎないと想う。 永山をわが心から排除してはならない。むしろ永山を引き入れることで、悪をわが心の内に見つめ、悪と対話し、わが心の内にも悪があることを表現していく必要がある。 同時に氷山のような悲惨な生育環境にある人たちをつくらない社会にしなければならない。 刑罰に服した人たちに住居と仕事 と、何よりも存在えごと理解してもらえる人間関係(仲間や家族)を、つまり福祉的な支援を提供していかねばならない。
すべての犯罪者に罪を悔いることを求めることはできないだろう。しかし、 冒頭に掲げた西田幾多郎の言葉にあるように, 苦難を経て罪を悔いた人たちから、私たちは人間であることの自尊のコアのような大きなパワーをもらうことができる。そしてこの人たちの姿は、基本的人権と個人の尊厳を大切にする社会を築くパワーになり得るのである。