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ボスニア-スレブレニツァの思い出


こちらの続き、スレブレニツァに到着した翌日です。

朝は霧深い

スレブレニツァについて

スレブレニツァは、ボスニア紛争の最中、95年におきた大虐殺の舞台としてその地名を知られています。
山間にある小さな町で、かつては保養所としても知られていたようです。

スレブレニツァの町


ここは紛争当時国連の管理下にあり、多くのボシュニャク人が近郊の工場に逃れていました。ですが、セルビア軍に呆気なく制圧され、主に男性が虐殺されました(少数ですが女性も)。ボシュニャク人側の公表では、被害者の数は8000人以上に上ります。

私がボスニアに行った10年前は、紛争から20年が経っていましたが、スレブレニツァだけでなく、国中の多くの建物が、道が、人が、その紛争を抱えているという印象でした。
私自身は確かに浮ついた観光客ではありますけども、面白半分で行っていい場所ではないかなと思います(スレブレニツァはね、サラエボは治安が良ければ軽率に行っていい)。

ちなみに、今回は場所柄、セルビア側だけが加害者であるかのような書き方をしますが、そんなことありません。殺した数は多いかもしれませんが、ボシュニャクとクロアチア系が孤立無縁の無辜な市民だけで構成されていたわけではなく、三つ巴、それぞれが武器を取り、それぞれが殺し合った紛争です。

ポトチャリの記念碑と工場跡地

工場の跡地の向かいに記念碑と記念墓地があります。
そこはポトチャリという地名で、スレブレニツァの町中からは車で10分、当時はバスやUberなどもないのでタクシーをチャーターして行きます(金額は覚えてないですが、ぼられた記憶があります)。

工場には当時、難民達が(役に立たない)国連軍の庇護を求めて押し寄せており、環境は劣悪でした。

工場の中
今はがらんとしていて静か
施設はほぼそのまま残されている
草木が生い茂る

セルビア軍は押し寄せた難民の中から男性を、あるいはその場で、あるいは別の場所に連れて行き、老人も子供も殺害しました。今もあるのかは分かりませんが、ボスニアでは彼らの写真が飾られている博物館があったように思います。
ちなみに、私がここに来る前にいたトゥズラもこの虐殺とは無縁ではありません。ここからそこまで、真夏の7月に行進させられるとあうこともありました。

なお、少なくとも私が行った10年前、この工場跡地には、紛争の経緯などを語る写真はありましたが、それ以上の展示はありません。例えば広島の原爆博物館のように、何も知らないで行っても当時の状況がわかる、というものではないです

工場の向かいには記念墓地があります

犠牲者の名前が刻まれている

お墓の中には、まだ埋められたばかりと思われる土の膨らみもありました。

私以外にほとんど人はなく、車もまばらにしか通らず、静かな中に真っ白なお墓がどこまでも続きます

スレブレニツァの町へ

スレブレニツァの町自体には、そこまで見るものはありません。町の中に小高い丘があり、そこが一応遺跡的な…?石しかないけど…?感じになってます。

山が綺麗なんだ、バルカンは
山を縫うように家が続く
十字架

この山の間に家が立ってるの、可愛い。でもこの家も、よく見ると半分欠けてたりする。

スレブレニツァはここまで。小さい町だけど、ボスニア紛争に興味があれば得るものが大きいと思う。

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