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美学と共にあらんことを
そろそろ「かっこいい」「かっこ悪い」の感覚について話したい。
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公私問わずいつも判断基準としているのが「かっこいい」か「かっこ悪い」かだ。10代みたいなこと言ってんなよとか青臭いなあとかそういった批判は受け付けるが、こういう思想なので仕方ない。
やらなくていいことはやりたくない
性根が面倒くさがり屋なので、やらなくていいことはやりたくないし、やらなきゃいけないことを減らしたいと日頃考えている。
仕事においてもそうで、業務改善とか時短する方法とか効率性を上げる話に関わることが多い。
効率性を上げることそのものが好きなのではなく、効率性を上げる手段を通じて人々がもっと創造的なことに取り組めるほうが良いと思って手の届く範囲で日々ゴニョゴニョしている。
「創造的なことに取り組める」が抽象的なのでさらに掘り下げると、
- 創造的なことってなんだ?を腰を据えて考える(意味性の追及)
- 自分に創造的なことに適正があるのかを見定める(意思と行動のガケを超える)
- 創造的なことを世にアウトプットする量を増やす(創造人材のリソース解放)
と考え、そういう機会を増やせると良い。
その原動力/判断基準は、自分の子どもがそのタスクをやっている未来を想像してどう感じるか、子どもにやってほしいと思えるタスクかどうかだ。元々は自分が10年後やっていたいかの視点だったが、親になり変化した。
結局は自分のエゴでいい
まるで子のために、みたいな言い方をしているが結局は自分の「なんかよくわからんがやりてえ」欲求を、立場や役割を利用し清楚に言語化しただけである。ある種、子どもを利用している笑
でも、それで良いと思っている。
それぞれが主観を大切にし、その主観を支えるための理由や論理をくっつけて協力し合ったり、ぶつかりあったりしているのが健全だと思う。
だから、より多くのひとが主観を大切にして生きてほしいなと思う。ぼくの主観をより高尚なレベルにもっていくためにも...笑
もっとオレオレしよう。自分の審美眼で美学と共に生きよう。
歳をとるにつれ知識や経験以上に美学をもつことのほうが大切に感じる。
未来のことを考えるフリをして過去を否定し、刹那的な「かっこいい」「かっこ悪い」で判断して生きていきましょう。そうしないと自分の審美眼が鈍って自分以外に判断基準を依存してしまう。
なにとぞ。