30歳、隠居生活 その19 進退
少し昔の話となるが、入所して3ヶ月程経った頃、先輩から進退について一つ聞かれたことがあった。
つまり、いつまでこの職場で働くつもりか、ということだ。
私はこれに、最長3年と応えた。これには主に2つの理由があった。
入所してすぐの新人に聞く内容ではないように思うかも知れぬが、これには歴とした理由があった。
業績の見通しが立たなくなっていたのである。
当時、2018年は平成30年であったが、法律の制度改正があった。狭い業界なので詳細はぼかすが、
平成30年以降には、お客さんが増えない状態になってしまっていたのである。
ここ2~3年は売上に余裕もあるがろうが、それ以降はかなり舵取りが難しくなるのが見えていたのである。
数値管理部門は所内の数字が見えていたので、取り分け敏感であった。
加えて、所長の問題があった。
入所して間もなくの頃から、総務の古参への横暴ぶりは目に余るところがあった。
扱っている商売のために業績は良いが、とても人を扱う器にないのは誰の目に見ても明らかであった。
所長は、平成30年以降に顧客の母数が少なくなる度に営業を増やしていった。
商売を考えるなら、顧客の母数の多い内に人を増やし、
顧客の母数が減るのに合わせて人を減らすのが通常だろうが、その逆の道を行っていた。
これだけ見ても舵取りがうまくないのは明らかであったが、雇った営業が契約を取れないと見るや
パワハラ紛いの事をし辞めさせようとするので論外の調子であった。
また、新しく立ち上がった部門で、優秀なリーダー役、管理役を雇い、優秀な人物であったが、
所長から不当な扱いを受け退職に追い込まれていた。
結局、その部門は入所僅か数年の若手が部門長をすることになり、
通常の顧客対応は兎も角、部門として成長を遂げるのは難しくなった。
先輩などの話では、パワハラで退職に追い込むのは今に始まったことではなく、
私が入る前には更にひどい様子であったというから驚きである。
これまでの調子から、数字が悪くなってくれば数値管理部門の私と先輩もどんな扱いを受けるやも知れぬ。
そんな職場に自分の人生を預けるなど到底考えられなかった。
居ても3年だなとは妥当な線だったと言えよう。
むしろ、私も3年までと思っていたので、居る期間は納得のできる仕事をしようと躍起になっていた部分はある。
これが5年も10年もと考えていれば、その他無気力な所員のように、自分の手元の作業だけを仕事とし、
いても大した役に立たぬ置物の一つになっていただろう。
しかし、時間給をもらって仕事をする人間としては、こちらが正しいようにも思えてしまうのがなんとも馬鹿馬鹿しい限りだ。
入所2年目に入ってからは、私は3年いっぱいを待たずに辞める計画を考えていた。というか、計画などなくても辞めるつもりであった。
定時帰宅と簡単な業務を求めて転職したが、気がつけば、広く仕事を取りすぎ、定時で帰れてはいるが、
心配事が多く、家でも中々心休まる時間が取れなくなっていた。
仕事のために早めに布団に入り、起きたらまた退屈で意義を感じない表の修正。
一度しかない人生をこのような所長に使われて過ごす時間が無為に思えた。
人間は、年をとっていつか死ぬ。それだけは必ず決まっていることである。
死ぬ際に、もう少しここで仕事をしておけば良かったと思うだろうか。いや、絶対思わない。
まずは自分のために時間を使いたい。職を辞したい気持ちは日増しに強くなっていった。
しかし、仕事を辞めたいなどというのは仕事人にとって毎日の感情であろう。
自分の気持ちが一過性のものではないか、よくよく振り返ってみることにしたのである。
ちょうど、私は手帳に日々のことなど付けていたので、珍しく読み返してみた。
この手帳をつけるのは、学生時代から行っていた。日常で楽しかったことなど書きつけており、
最初の現場に入って話し相手も居なかった折など、寂しくて堪らず、
この手帳を見返しては学生時代の事を思い出して耽っていた。そんな手帳である。
その年の手帳は、怨嗟と呪いの文句で溢れていた。
とても見返して楽しいような内容ではなく、胸が締め付けられる思いであった。
どう考えても一過性のものではなく、ここで働いている以上は絶対に解決しない問題が根深く張られていた。
自分はこんな不安な日々を送っていたのかと、ハッと気付かされたのである。
勤労の苦だけあり、満足がなければそれをする必要はないように思えた。
私が仕事をしているのは、単に自分の口を預かる手段としてであって、
仕事自体には自己実現や社会への帰属などは一切求めていなかった。
そして、口を預かるということに関しては、私は少々自身があったのだ。
大学を出て仕事を始めてから6年ほど経ち、貯金は1000万を僅かに超えるほどとなっていた。
これは、収入が良いというよりかは単純に支出が少ないからで、これまでは特に気にも留めていなかったが、
すっかり仕事で得意となった表を作り、詳細を確認してみると、年間の支出は税金を含めても200万未満であることが分かった。
仕事の憂さ晴らしでやったような余計な出費も多くあったから、整理すれば100万円以下にするのは難しく無いように見えた。
貯金が1000万で毎年100万円ずつ使っても、10年は飯が食える計算であった。
10年は無理としても、2~3年くらいは仕事をしなくても痛くも痒くもなさそうだった。
会社にいる理由がないことを確認し、職を辞めても問題ないことも確認できた。
あとはタイミングだけの問題である。
経理との作業の終わりは年末であったし、社内ITの管理に関しても、
3人目にしてようやく気のあるものが来てくれたので、仕事は年末にキリが良くなる予定であった。
そこで、賞与をキッチリ頂いて退散できる、年始一番に退職届を出すことにしたのである。
具体的な時期に関しては、なんでも相談していた先輩にも、一切話さず自分の中のみの準備としていた。
社内ITの私の後任者に関しては、これもまた大変気の良い方であったので、ここで紹介しておく。
以前2人来ていたが、あまりにひどいものばかり来るので、総務に掛け合って、
募集の要項から面接まで絡ませてもらって取った人物であった。
私は部下を取る経験をしたことがなかったので、この時の40代後半の優しい声の新入が初の後輩であった。
倉庫時代のリーダーに自分がしてもらったように扱い、僅か2ヶ月ばかりであったが、
基本的な報連相ができる人物であったから、所内のことや仕事での心構えなど説くと、
良く飲み込んでくれ、社内ITにおける私の分身となってくれたのである。
本当は社内ITを私に寄らず一切を新しく見てくれる人物を期待していたのだが、
給与面での条件は管理者レベルでなく担当者レベルのものであったので、それは叶わぬ願いと知った。
しかし、管理者を置かぬのならば、あくまで私と同程度のことしかせぬもので構わないのだな、と
勝手に納得させてもらった。割り切りの一環である。
年始に辞表を出すと決めたのは2020年の9月ほどである。そこからの3ヶ月は実に長かった。
職務に専念し、自分の家の如く勝手知ったる職場となって尚、ここにいることに疑問しか抱かぬようになっていた。
あまりに不機嫌なときなど、心の中で隠す事も出来ずに少々よろしくない態度を取って所長に叱責を被ったこともある。
喧嘩をしたい訳ではないので、どうせすぐ辞めるのだからとグッと堪えたが、どうにも限界であった。
営業部長のおっちゃんなども、時折私の様子を見て宥めてくれるくらいには周りも様子のおかしいのに気付いているようではあった。
新年一番、前の退職時に買ってきていた白のA4封筒に、コンビニで印刷した退職届を突っ込んで懐にしたためた。
コンビニで揃うものだけで退職の準備など簡単にできるのである。近年代行など流行っているようだが、私の場合には不要であった。
まずは先輩、次に営業部長のおっちゃん、そして古参の総務に先んじてご挨拶させて頂き、
会議に呼ばれた際に、所長にも今月いっぱいで退職させて頂きます、と申し出た。
「今年は一年間ありがとうございました、来年は短い間になりますがよろしくお願いいたします。」
ちょいと茶目っ気を混ぜて残していたメッセージの伏線に気付いた先輩は
「そういうことか~!」と納得されていたのが面白かった。
皆、私が懐から退職届を出す仕草をしただけで全て事情をお分かり頂けたようで、話は早かった。
また、所長も引き留めることはしない人物であるのを知っていたので、
「次はどうするの?」と聞かれた時は少々考え、「隠居します。」と答えた。
割と咄嗟の返答であったが、なるほど自分でもしっくりと来る回答であった。そう、隠居するのである。
昼休みに、営業部長のおっちゃんからは慰留を受けたが、事務所の将来性のなさや、所長の甲斐のなさなど、
昨年におっちゃんの愚痴を聞きながら話した内容など踏まえて話すと、流石に何も言えなくなったらしい。
「お前さんがいなくなるのはその辺のパートとか抜けるのとは訳が違うぜ」とは言われたものの、
まぁ大した仕事はしていない。気があるものなら誰でもできることだから大丈夫であろう。
気のあるものがいたら、の話ではあるが。
最後に頂いた賞与は額面50万。前回よりも10万だけ上がっていたのは、実は減税周りの作業をしている間に既に知っていたことだった。
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