向き合わない為には
向き合わない為には、逃避するしかない。読んでいたエッセイにそんな言葉が出てきて、あの時の自分の行動にとても納得がいった。言葉にしたいこと。残しておきたいこと。
愛犬がご飯を食べなくなって、どんどん衰弱していった一週間。ぼくは愛犬から逃げるように過ごしていた気がする。誰もいない時を選んで、話しかけたり抱きしめたりしてみるが、誰かのいる場所ではなるべく愛犬と向き合わないようにしていた。おばあちゃんの病状が悪化したと聞いた時も、結局病院に行くことはできなかった。亡くなる直前に行った時も、ボーッと見て、声をかけるくらいしかできなくて。最終的には「亡くなるのを待ってるみたい」と言って帰宅して、亡くなる瞬間に立ち会うことはできなかった。死というものの影を色濃く感じて悲しくなってしまうから。まさに向き合わない為には逃避するしかなかったんだなあと思う。
あの時のことを今でも少し後悔している。それは、「もっと一緒にいてあげられればよかった」という感情だと思っていた。でも、本当のところは、「もっと向き合ってあげられればよかった」という後悔だったのかもしれない。自分の死はそんなに恐れていないのだけれど、他人の死というものに慣れることはどうしても出来ない。でも、死は誰にだって備わっている運命の一つで、死という運命が側にいることを含めてその人だ。ちゃんと、いつか死んでしまうということを認めたら、最後まで向き合ってあげられることが出来たのだろうか。
でもね、自分のよい変化も少しだけ感じたよ。ちゃんとそうやって、逃げている自分を感じ続けていたからこそ、たまに勇気を出して向き合うことが出来たんだ。目を見て、抱きしめて、「大好きだよ、死なないで」なんて言うだけで涙が止まらなくなってしまって、すぐ向き合えなくなって逃げたりもしたけれど。たまにでも勇気を絞り出して何度も伝えたこと。おばあちゃんが亡くなる時に「また来るからね」なんて言ったことは、自分の弱さが思いっきり出ていて笑ってしまうけれど、それでもちゃんと声をかけられたこと。
逃避も一つの手段。でも、自分にはそうやって逃げる癖がついている。向き合わないために、逃げてしまう癖。でも、今では少しずつ「ちゃんと向き合おう」なんて思うことが増えている。自分でも自分が今後どうなっていくかは分からないけれど、どちらの自分も大事にしたいと思う。向き合うことも、自分も守る為に逃げることも。